未成年安楽死のニュースに触れて思うこと

ベルギーで未成年が安楽死した、という報道がありました。年齢や性別など詳細は明らかにされていません。ベルギーでは安楽死が合法化されており、未成年も肉体的な苦痛があって死が間もない患者で、親の同意があれば安楽死ができることになっているそうです。
日本では「安楽死」と「尊厳死」が混同して使われていることから、報道で「安楽死」と伝えられても、実際の状況がわからないとコメントの仕様がありません(安楽死と尊厳死については、コラム78をご参照下さい)。でも、死を選択しなければならないほど苦しかったことは事実なのでしょう。長く緩和ケアに取り組んで来た者としては、何とか苦痛を和らげる手立てはなかったのかな、と考えてしまいます。人生これから、という若い方が亡くなるのは心が痛みます。その死を傍らで見守るご両親のつらさはいかばかりでしょうか。

人間は確かにいつかはお迎えが来るのですが、それがいつなのかは誰にもわかりません。そしてほとんどの人は自分は当分は死なないと思っています。若い人はもちろんですが、かなり齢をとられた方も同様です。たぶんそれは人間にとっては重要なことなのだろうと思います。自分がいつ死ぬかがはっきりしたら、多くの人々はその恐怖感に押しつぶされてしまうかもしれません。
私はいつも、人間には寿命があるのだから、死を意識しながら一日一日を大事に、しっかりと生きましょうと、わかったようなことを言っていますが、口で言うほど簡単でないことは、自分自身も十分理解しています。人生、先が見通せないということは、ひょっとすると大切なことなのかもしれません。

しかしがんの末期あるいは神経難病のように、治癒が望めず、死と向き合わざるを得ない人がいることも事実です。その方達はいったいどのような思いで日々を過ごしているのでしょうか。

寿命が限られていることを知らされた人は様々な葛藤を抱えます。そして様々な思いを周囲にぶつけます。かつて精神科医のキューブラー・ロスが大勢のがん患者と面接をし、がんが治らないということを告げられるとまず衝撃を受ける、そしてその後否認、怒り、取り引き、抑うつなどの感情が表れ、最終的には受容に至る、ただいつの時にも一貫して希望を持ち続けるという心の過程を示しました。もちろん実際にはそれほど単純ではないのですが、常に希望を持ち続けるということが重要です。
その希望というのは、いつか新薬が開発されて自分の病気が治るかもしれない、というものであったり、娘の結婚式までは生きていたいというものであったり、自分が生きて来た証を何らかの形で残したいというものであったり、人それぞれです。
死の恐怖に押しつぶされて心が壊れてしまうという人はほとんどいないのです。人間の強さを感じます。
そうであれば私達医師は、患者さんに病状をきちんと伝え、残された時間をどう使うかは患者さんに任せ、患者さんの生き方をしっかりサポートすることが役割なのではないかと思います。病気を治せなくとも、傍にいて一緒に歩む、それが私達のなすべきことなのではないかと考えています。
一緒に歩むという気持ちがあれば、患者さんが苦しんでいるのを黙って見ているわけにはいかないと思います。少なくともどこかの大病院の医師のように、ここではもうやることがないからよその病院へ、などと言うことはないはずです。

冒頭の安楽死を選択した未成年、詳しい状況はわかりませんが、医師や他の医療スタッフと十分に心を通わせた上での最終的な選択であったことを、看取る機会の多い医師の一人として願っています。

 平成28年9月29日
病院長 藤原正博

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