死を想いながら、生きることを考える

皆さんは「死生観」という言葉をご存知でしょうか。「人生観」なら知ってる? そうですね。人生観という言葉はかなり昔からあって、どう生きるか、というような意味合いで使われています。それに対して死生観は死についての様々な思いというところでしょうか。
死生観という言葉は比較的新しいものです。英語のthanatologyは当初は死学と訳されたのですが、響きが悪いということで死生学と訳されるようになりました。死と生は切り離せないという思いもあったのでしょう。それに伴って死生観という言葉が生まれて来たようです。
私は最初この言葉を聞いたとき、違和感を覚えました。人生観は良しとして、死について考えるのならわざわざ死生観なんて妙な言葉を創るより、「死についての考え」でいいんじゃないの、と思ったわけです。しかしそのときから年月が経ち、今ではなんとなく受け入れてしまっています。
いずれにしても死生観は死についての考え方であり、死を考えることが生を考えることに繋がるので、死生観でも「まっ、いいか」という感じです。

年度初めでみんなが「よしっ、これから頑張るぞ」と意気込んでいる時期に、何で死の話をするのかとお叱りを受けそうですが、そういうときだからこそ、死を想いながらこれから先どう生きて行くのかを考えていただきたいのです。
高齢の方も、若い方も…。

ヒトには寿命があり、日本人の平均寿命は男性80歳台、女性86歳台です。70代、80代の高齢者であれば、冷静に考えれば自分の残された時間はそれほど長くはないことをご理解いただけると思うのですが、実際にはほとんどの方がまだまだずっと先まで生き続けるつもりでおられます。それが悪いというわけではありません。よーし、頑張って100まで生きるぞという思いが、毎日を生きることの支えになっているのであれば、とても素晴らしいことだと思います。
中には、もう十分生きたからいつお迎えが来ても構わない、とおっしゃる方もいます。また口ではそう言いながらも、血圧の細かい変動や検査結果の数値にとてもこだわる方もいらっしゃいます。

生きるということは人それぞれ、こうでなければならないというものはありません。「人は生きて来たように死ぬ」とも言われます。最期の場面はその人の生きざまを映し出すのでしょう。できれば家族に囲まれて、「ああ、いい人生だった」と思いながら、家族にありがとうと感謝して死にたい…、私はそう思っているのですが、さてどうなるでしょうか。

私の死についての思いは、職業柄これまで大勢の方を看取って来た経験から少しずつ形作られて来たもので、死が隠蔽された社会の中で生きて来られた方々には、なかなか理解していただけないかもしれません。
また同様の経験を積んできた医師がみんな私と同じような考えを持っているかというと、けっしてそうではありません。そのあたりに興味をお持ちの方は、最近出版された「医者の死生観~名医が語る『いのち』の終わり」(梶 葉子著、朝日新聞出版)をお読みいただければいいのでは、と思います。

私の死についての思いとは…。

私は造血器腫瘍の治療を専門とする血液内科医です。私が医師になったばかりの頃は、急性白血病はほとんど治らず、次から次へと亡くなっていきました。急性白血病は他のがんと比べると比較的若い患者が多く、人生これから、という20代、30代、40代の人々をたくさん看取って来ました。白血病を治したい、それが私の仕事のテーマとなりました。
幸いなことに有効な抗がん剤が続々と開発され、造血幹細胞移植という治療技術が導入され、急性白血病の治療成績は徐々に向上、現在では約半数が治るようになっています。それでも「半分」なのです。これだけ世界中の医者が努力し、患者さんも苦しい思いをしながら頑張っているのに、治らずに亡くなっていく人が半分もいるのです。これが今の急性白血病治療の現実です。しゃにむに白血病治療に取り組んできた私にとってはショックなことではありました。こんなに頑張っても治すことができず、死んでいく人がいる…(考えてみれば当たり前のことではあるのですが)。
亡くなっていく人の最期を看取りながら、私は死というものを考えざるを得なくなりました。

一般の方達にとって、人はいつか死ぬということは漠然としたイメージとして感じておられると思いますが、私にとってはより現実的です。いつか必ず死ぬのであれば、それまでをどう生きるか、明日生きているという確実な保証がないのであれば、今日をどう生きるか…、毎日毎日を大切にしたいと思うのです。
多くの方々は死を怖いと思うようですが、私にはそのような恐怖感はありません。たとえ明日死んだとしても、特に悔いはありません(できれば突然死は避けたいと思っています)。ただ、家族や今まで懇意にしていただいた方達とお別れしなければならないのは寂しいことですが…。

ヒトには寿命があり、だからこそ生きていることを大事にしなければならないと私は思うのですが、今のように死が隠蔽され、誰も死なないかのような誤解を与える社会において、人が死ぬとどうなるか見てみたかったという理由で人を殺す若者がいたり、いじめで自殺にまで追い込むことに罪悪感を感じない子どもがいたりするのは、ひょっとすると当たり前なのかなという気もします。
前にも申し上げたことがありますが、子どもに死を教えるということはとても重要です。子どもは8歳くらいで死を理解すると言われています。祖父母あるいは両親が亡くなるときに、可哀そうだからという大人の一方的な考えで子どもを遠ざけてしまうことがありますが、かえって子どもの心に傷を残します。肉親の死は、大人にとっても子どもにとってもつらく悲しいものです。亡くなっていく人の前で、大人も子どもも一緒に涙を流すことで悲しみを共有することは、生きていることの大切さを子どもに理解させる重要な機会ではないかと思います。
一度死んでもまた生き返るゲームの世界に浸かってしまっている子ども達に、人が死ぬとはどういうことか、そして生きているということがどれだけ大切なのかを理解してもらうには、死を教える必要があるのではないでしょうか。

皆さんはどのような死生観をお持ちでしょうか。死なんて縁起が悪いなどとおっしゃらずに、どこかで死について考える機会を持ってもいいのではないでしょうか。もちろん常に死のことばかり考える必要はありません。斯く言う私だって、いつも死を考えているわけではありません。たまに、でいいのです。あっ、そういえば人間って寿命があって、いつかは死ぬんだよな、という感じでいいのです。そのことがきっと皆さんが生きることに豊かさを与えてくれるのではないかと思うのですが、如何でしょうか。

平成30年4月19日
病院長 藤原正博

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