病院の生い立ちと病院名の由来について

ホームページご覧のみなさんへ何からお話ししようかと思っていましたが、まずは病院の生い立ちと病院名からご紹介したいと思います。

当院の名称は『刈羽郡総合病院』といいます。ホームページ上の【沿革】でまとめてありますが、昭和12年に開設許可が出て、昭和14年11月1日に開院しています。

歴史の話になりますが、少々お付き合い下さい。

本会【JA新潟厚生連】のほとんどの病院が明治33年にできた『産業組合法』にもとづく医療利用組合として設立されています。

昭和4年に始まった世界恐慌が、日本各地の農業恐慌を引き起こし、農家の生活が極端な悲境に追い込まれていました。病気になっても多額の診療費を調達できず、みすみす死を待つ病人が跡をたちませんでした。

そのため全国各地で、農民の協同的組織として自主的な経営形態で診療施設を持ちながら、医療費も安くすませることを目的として医療利用組合が続々とできていきました。

当院も同様で、昭和11年に刈羽郡柏崎町を中心とする1町10ヶ村区域(具体的には、①柏崎町②西中通村③中通村④二田村⑤内郷村⑥刈羽村⑦北鯖石村⑧北条村⑨鯨波村⑩高田村⑪荒浜村)の青年層組合員約1、000名の有志がまとまり、指導者 田村宗雄(委員長、西中通の素封家)・藍沢誠一(北条出身元農林省事務官)を中心にして病院設立運動が高まり、県への申請手続きを経て、昭和12年10月に開設許可が出ました。

このときに、当時の地名である『刈羽郡』をそのまま使って『刈羽郡病院』と言う名称になりました。

開設許可が出たあとも、医師の招聘に苦労しながら、市内本町8丁目藍沢医院跡を借館し昭和14年11月1日に開院しました。

正式名称は、『北越医療購買利用組合:刈羽郡病院』であり、病床数27床で医師2名・薬剤師1名・看護師3名・その他5名の総勢11名でした。

その後当院は、昭和23年6月、市内学校町2番47号に移転し、さらに平成3年6月に現在地へ移転しました。

20年前現在地への移転にあたって、病院名を変更するかどうかを本格的に議論したということですが、結果的に今まで通り『刈羽郡総合病院』のままになったと聞いております。

時代も移り変わり、市町村合併で地名が変わったことや、イメージを変えたり(俗っぽく言うと)今風にしたりで、本会の数病院で病院名を変えております。

   頸南病院 → けいなん総合病院

   葛塚病院 → 豊栄病院

   中央綜合病院 → 長岡中央綜合病院

   こばり病院 → 新潟医療センター

   佐渡療養所 → 真野みずほ病院

当院でも、そろそろ・・・・・?

もし、地域の方でご意見やご要望があれば、ご提案いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

                                          平成23年6月24日

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