心肺蘇生とAED(自動体外式除細動器)

加茂暁星高校野球部の女子マネージャーが、学校から少し離れた野球場で練習後、走って学校に戻り、学校に着いた直後に倒れるということがありました。詳細はわかりませんが、突然の心室細動であったと言われています。
医療機関に救急搬送され、一旦心拍動は再開したようですが、低酸素の状態が長く続いたために、結局2週間くらい後に亡くなっています。
ご両親が「なぜAEDを使ってくれなかったのか」と嘆いているという記事が、9月3日の新潟日報に掲載されています。

実は当院でも何年か前、宴会の席上突然若い医師が倒れるということがありました。Brugada症候群という心臓の病気で心室細動を生じたのですが、幸い周りは当院のスタッフで、直ちに蘇生措置を施行、その店舗にはAEDがなかったために救急隊到着まで蘇生措置を継続、救急隊到着後電気ショックをかけ、通常の心拍動に戻って意識回復、全く後遺症を残すことはありませんでした。

若い人であっても突然心室細動を生じ、意識を失って倒れることがあります。心室細動というのは心臓の筋肉が細かく痙攣する状態で、心臓は全身に血液を送り出すポンプとしての機能を果たすことができません。この状態が長く続くと各臓器、特に脳に酸素が供給されず、不可逆的な障害をきたすことになります。
AED(automated external defibrillator、自動体外式除細動器)は電気ショックを与えることでこの心臓の筋肉の細かい痙攣を取り除き、本来のリズムに戻すための器械です。電気ショックを早くやればやるほど救命率が高まります。

新潟県の統計(平成27年)によれば、救急車が連絡を受けてから現場に到着するのに平均8.9分かかるそうです。その9分位の間何もしなかった場合の救命率は9%なのですが、その場に居合わせた人が救命措置(体外心マッサージなど)をした場合には20%と倍になるというデータ(Holmberg、2000年)があります。
また消防庁によれば、救急隊が電気ショックを実施した場合の1か月後の社会復帰率が20.3%であるのに対し、その場に居合わせた市民が電気ショックを行った場合には46.1%であったことが示されています。
加茂暁星高校にもAEDは3台あったそうですが、結局使われないままでした。

全国的にAEDの設置が進み、新潟県だけでも約7,500台が設置されているそうですが、十分には活用されていないようです。使ったことのない器械を使うのは勇気のいることです。そうであれば一度は使っておくことが重要で、ただ設置するだけではなく、何らかの形でそれを使う練習の機会を設けるべきでしょう。そうでないと「宝の持ち腐れ」になりかねません。

もしAEDが近くになかったり、使うことに自信がなかったりと言う場合には、とにかく胸骨圧迫による体外心マッサージだけでも始めて下さい。これまでは胸骨圧迫に加えて口対口人工呼吸法を併用することが推奨されて来ましたが、最近は胸骨圧迫だけでもOKというデータが示されています。
とにかく救急車が来るまで胸骨圧迫を続ける…、それが突然倒れた人を救命するカギなのです。

人間には寿命があり、いつかはお迎えが来るのですが、人生これからという若い人が事故や急な心臓病で命を落とすのは、本人にとっても周りの人々にとってもつらいことです。
救急車が到着する前に私達にできることがあるということをそれぞれが自覚すれば、もう少し救命率を上げることができるかもしれません。

 平成29年9月7日
病院長 藤原正博

※ 大修館書店より「よくわかるみんなの救急~ガイドライン2015対応」(坂本哲也 編)という書籍が出版されています。一度お読みになることをお勧めします。

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専門医制度の行方

最近の医療は益々専門分化が進んでいます。医師だけではなく、看護師もそうです。否、他の職種においても「専門……」「認定……」という資格を持つ人々がいます。
「一芸に秀でる」という言葉があって、それはそれで意味のあることだとは思いますが、私はちょっと心配しています。

医師の場合、これまでも専門医はおり、内科、外科、小児科など各学会が認定していました。個人で研鑽を積むと同時に指導医のいる医療機関で研修を受け、学会の主催する専門医試験を受けてその資格を取得するという形でした。
しかしこれまでは、専門医資格は名ばかりで、資格を持っていることに対するメリットはほとんどありませんでした。また専門医の乱立による質の低下が懸念されるようになりました。さらに患者さんの受診の指標にもなっていませんでした。
そこで、質を担保し、患者さんの受診のためのよい指標となり、国民に広く評価される専門医を育てるべく、日本専門医機構が設立され、紆余曲折の末、来年4月から新しい専門医制度が施行されることになりました。ただ実際にはいろいろ問題を抱えており、きちんと機能するのかどうか予断を許さないところがあります。

詳細は省きますが、私が一番懸念しているのは、専門医資格を取った医師が、自分は○○の専門医なので××のことは知りませんというような事態にならないかということです。その隙間を埋めるべく、「総合診療専門医」が新設されることになっていますが、どれだけの医師がその方向に進むのか、全く不透明です。

国が「地域包括ケアシステム」の構築を目指している以上、これからの医療は「在宅」が中心となることは間違いありません。そのために必要なのは一つの領域に偏った専門医ではなく、患者さんを一人の人間としてその全体を診ることのできる医師です。「総合診療専門医」がその役割を担うことが期待されているのですが、国の思惑通りに事が進むのか、注目する必要があります。

一時期、専門医機構が、今後は全ての医師が何らかの専門医になるべきという馬鹿げた提言をしたことがありますが、新しい専門医制度整備指針においては、専門医資格の取得は強制ではないとされています。質の高い専門医を育てるという考え方を否定するわけではありませんが、全ての医師が何らかの専門医というのは、ちょっとおかしい。

国は医療費削減のために急性期病床を減らすことに躍起となっています。さらに病院の役割分担を進めようとしています。つまり、将来は専門医が自分の専門領域だけを診ていればそれでいいという大規模病院は減っていく定めなのです。必要とされるのは、「在宅」の患者、あるいはいくつもの慢性疾患を抱える高齢者を診ることができる医師なのです。「総合診療専門医」を志す医師がどれだけいるのか…、それによっては将来の地域医療が混乱する懸念もあります。

人間は齢をとるとともに身体のいろいろなところが弱り、傷み、様々な病気を抱えることになります。一人の人が高血圧、糖尿病、高脂血症、骨粗鬆症などのいくつかの病気で治療を受けているというようなことは、けっして珍しくはありません。さらに脳梗塞だったり心不全だったり、あるいはがんという病気になったり…。そんなとき、私は高血圧が専門なので糖尿病はちょっと、とか言われれば困りますよね。
がんについては確かに専門性を要求されます。一般の医師が誰でも治療できるというものではありません。じゃあ、がんのことだけ知っていればいいかというと、けっしてそんなことはありません。たとえば化学療法後に白血球が減って感染症に罹患したときにどう対応するのか、もともと糖尿病があって、治療後に悪化して著しい高血糖になったときにどうするのか、抗がん剤の影響で心臓がダメージを受け、突然心不全になったらどうするのか等々、考えておかなければならないことが多々あるのです。
さらに治癒が望めなくなった時、患者さんにどう寄り添うことができるのか…。ここでできることはないのでよその病院へ、などと突き放すようでは、がん専門医とは言えません。

医療は「人と人」です。大切なのは病気にのみ目を向けるのではなく、病気を持った「人」に目を向けることなのです。専門医を育てることは悪いことではありませんが、専門医である前にまず一人の医師であるという立場をしっかりと自覚するべきでしょう。

それと同時に、皆さんがどういう医療を望み、どういう医師を求めるのかを、はっきりと意思表示することも大切です。とにかく病気を治してくれればいいと考えるのか、自分という一人の人間と真摯に向き合ってくれる医師を求めるのか…。それによりいずれ医療は皆さんの求める方向に収束していくはずです。

平成29年8月24日
病院長 藤原正博

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無用の用

夏の全国高校野球大会が始まりました。甲子園球場は高校球児全ての憧れの場所です。甲子園に出たい、あのグランドでプレーしたいという強い思いが、日々の苦しい練習を続けられる原動力です。
しかし実際に甲子園に出てプレーできるのは、ごく一握りの選手達だけです。ほとんどの高校球児は甲子園の土を踏むことなく、高校野球から離れていきます。今年の地方大会に参加したのは3,839チーム、その中で甲子園出場はわずか49チームです。

高校もそれぞれで、いわゆる強豪校、有名校には大勢の人が集まります。その学校の周辺だけでなく、市外、(都道府)県外からも入学してきます。 そのような高校では部員が100名を超えるところもあります。でも試合に出られるのは基本的に9名、ベンチに入れるのは地方大会では20名、甲子園では18名です。部員が多ければ必然的にあぶれるメンバーが出てきます。チームの監督の考え方にもよりますが、いくら頑張って練習をしても、3年間一度も試合に出られないという人もいるのです。

試合に出られないその子たちは、じゃあチームにとっては無用の存在なのかというと、けっしてそんなことはありません。彼らが一生懸命練習すれば、それを見ているレギュラー選手は気を抜けません。高校時代は練習すればするほど技量が上達します。レギュラー選手達も負けずに頑張ろうとします。そうでなければ追い越されるからです。その結果、選手全員がさらにレベルアップすることになり、チームの力が伸びることになります。
また練習のためには9人のレギュラーだけでなく、バッティングピッチャーなど他に大勢のメンバーが必要です。たとえ試合には出られなくとも、チームを下支えしていることは間違いないのです。

逆に野球部員が少なく、一校だけではチームが組めず、いくつかの高校が集まって合同チームをつくり、ようやく地方大会に出られるという場合もあります。
一校だけでチームが組めないということは、普段の練習さえままならず、対外試合もできないということです。試合で真剣勝負をすることで技術的にも精神的にも成長するのですが、彼らにはその機会さえ与えられないことになります。

条件はそれぞれですが、どんな状況であっても3年間野球部に籍を置いて頑張る子ども達に敬意を表したいと思います。

表題に掲げた「無用の用」という言葉は「役に立たないように見えるものでも、かえって役に立つこともある。この世に無用なものは存在しない」という意味の老子の言葉です。「老子」には「埴をうちて以て器を為る。その無に当たりて器の用有り」とあります。すなわち、「粘土をこねて器をつくる。器の中にある空間は一見無用に見えるが、その空間があるから器がつくれるのだ」という意味です。この言葉は高校時代の漢文の授業で習い、とても印象に残りました。当時の先生の説明は、「部屋というものは、四方に壁があるからこそ部屋として存在できるのだ」というような内容だったと記憶しています。さらに、歩くに当たっては30センチ位の道幅があれば十分だが、もしその道の両側が断崖絶壁だったとしたら、スタスタと歩けるだろうか、という問いを投げかけられたような気がします。

高校野球に「無用の用」を当てはめるのは不適切かもしれませんが、チームにとってレギュラー以外の選手はけっして無用ではありません。また選手個人にとっても、たとえレギュラーになれず試合に出ることができなくても、一生懸命野球に取り組むことはけっして無駄にはならず、必ず先の人生に役に立つはずです。
この世に無用なものは存在しないのです。いつか自分自身が主役になる日が来るかもしれません。そのときには是非わき役にも心を配り、その重要性を認識してほしいと思います。

この夏、甲子園を目指した全ての高校球児にエールを送ります。

 平成29年8月10日
病院長 藤原正博

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医師の働き方改革

電通の若い女性社員の過労自殺を受けて、政府は「働き方改革実行計画」をまとめ、2019年度からの実施を目指しています。
これは、時間外労働を原則月45時間とし、労使が合意した場合には年720時間(月平均60時間)を上限とするというもので、罰則付きです。ただし、医師については上限規制が5年間猶予されました。現状のままで規制が適用されると、応召義務が果たせなくなるおそれがあるから、というのがその理由です。

一般企業では午前8時から12時まで、1時間の昼休みをはさんで午後1時から5時まで、計8時間の就業時間、それ以降翌日までは基本的に拘束されることなく自分の自由に使える時間、もし所定の時間内に仕事が終わらない場合には時間外勤務として届け出るというのが普通ではないかと思いますが、病院に勤務する医師は違います。

病院の医師は平日日中は外来診療、入院患者の診療、検査、手術などに従事していますが、夕方5時に仕事が終わって帰ることはまずありません。医師によっては午前中外来診療、午後から検査、夕方以降入院患者の回診で、仕事が終わるのが夜8時、9時、手術が長引いた場合などは深夜に及ぶこともあります。
さらに論文を読んだり書いたり、学会発表の準備をしたり、各種証明書の記載をしたり、様々な検討会や会議に出席したりと、いろいろな業務があります。

基本的に主治医制(一人の患者を決まった一人の医師が診る)ですので、入院患者を受け持っている場合には24時間拘束されます(このあたりが他の職種と違うところです)。具合の悪い患者がいれば、休日であろうと夜間であろうと呼び出されます。実際に呼ばれることはなくても、緊張が解けることはありません。たとえ呼び出されなくても、ほとんどの医師は休日であっても病院に出て患者の診察をします。

また救急対応をしている病院においては、休日・夜間は基本的に当直医が診察に当たります。当直医の本来の仕事は病院内での緊急事態に対応することであり、ほとんど寝て過ごすものであるとされています。しかし当院を始めとして多くの病院においてはそのようなことは許されません。救急車で搬送される患者あるいは自分で直接来院する患者が後を絶たず、当直医は休むことができません。また必要であれば各科の専門医が呼び出されます。夜間当直の医師は眠ることなく働き続け、翌日は通常業務に就きます。一晩寝ずに翌日の仕事をする場合の集中力は、酒を飲んだ後のほろ酔い状態と同程度と言われています。ほろ酔い状態で診察をしたりメスを握ったりする…、考えただけでもゾッとしますよね。でもそれが現実なのです。日本の救急医療は医師達のこのような頑張りに支えられているのです。

日本の勤務医の平均労働時間は70~80時間と言われています。労働基準法で定められた労働時間は「一日8時間週40時間」ですから、これを大幅に上回り、30~40時間の時間外労働をしているということになります。月に直せば120~160時間ということになります。そういう状況で日本の医療が成り立っているわけですから、政府が言うように月45時間(例外的に60時間)を上限とするという罰則付きの規制が適用されれば、日本の医療が立ち行かなくなるのは明らかです。
今のような医師の働き方がいいというわけではありません。是正すべきであるのは確かです。そうでないと新潟市民病院の医師が過労自殺したというような事例が、いつか必ずまたどこかで起きることになります。

じゃあどうすればいいのか…。

まず医師数を増やす必要があります。全体の数もそうですが、特に病院勤務医の数です。しかしこのことについては昔から「日本の医師数は足りており、偏在が問題」と言って、国は真剣に向き合ってはきませんでした。最近になって医師の絶対数不足を認めるようになってはいますが、積極的に増員を図る対策を講じてはいません。医学部の定員増などで少しずつ医師数は増えてはいるのですが、すぐには医師不足を解決することはできません。

医師の負担軽減のためにたとえば米国のように日中と夜間の担当医を分ける、夜勤明けは休むというようにするとしたら、日本では医師の数が全く足りず、実現不可能です。またそういう体制を皆さんが了解できるでしょうか。主治医に対する信頼あるいは依存の裏返しなのでしょうが、死亡時に主治医が立ち会わなかったからということで、その主治医に土下座させる家族がいる(県外の某病院での出来事です)ような日本で、受け入れられるとはとても思えないのですが…。

もし夜間・休日の救急対応はしないということにすれば、応召義務との間で問題が生じます。都会のように病院がいくつもあって交替で救急対応ができるのであれば、当番日以外は一切対応しないということで医師の負担を減らすことはできます。しかし当院のように、一応輪番制はとっているものの、ほぼ毎日救急患者を受け入れなければならない病院の場合、医師は休むことができません。

新潟市民病院が労働基準監督署の是正勧告を受けて、外来は全て紹介制、救急患者は三次救急に限定という方針を示しましたが、それが医師の時間外労働の削減に繋がるのか、注視する必要があります。
ただそういう方針を示したことで、新潟市内の他の病院の負担が大きくなるのでは、と危惧しています。

皆さんは制限されることなく医療機関にかかれるのは当たり前と思っておられるかもしれませんが、その「当たり前」を支えているのは医師を始めとする医療スタッフの努力の賜物なのです。
医師不足解消の目処が立たない中、罰則付きの時間外労働規制が適用されれば、病院としては救急医療を縮小せざるを得ません。今は柏崎刈羽地域の救急搬送を断ることなく受け入れていますが、その一部をお断りする、あるいは市外の病院に紹介するという事態になりかねません。また救急車以外での飛び込み受診はお受けできなくなると思われます。
そうなれば皆さんに影響が及びます。しかし働き方改革については政府はなぜか本気のようです。そうであれば、どうすれば今の医療体制を維持しながら医師の労働時間を短縮するか、皆さんにも考えていただかなければなりません。そして皆さんのご協力が必要です。たとえば救急車の適正使用、不要不急の夜間・休日受診を控える、等々。

当院は年間2,400台前後の救急搬送を受け入れていますが、その半数近くは軽症で、本来救急車を必要とせず、あわてて受診しなくてもよかった方達です。また夜間・休日に自分で直接来院される方で入院が必要となったのは極一部です。そういった方達が平日日中に受診していただければ、当直医の負担はかなり減ります。
ただ実際には自分の症状が緊急を要するものか否かを自分で判断するのは難しいかもしれません。そんな時はかかりつけ医がいればそのかかりつけ医に、あるいは救急担当病院に電話で相談するのがいいと思います。

少なくとも発熱や感冒様症状で夜間・休日に病院を受診するのはやめた方がいいと思います。熱が出たということであわてて病院を受診しても、その時点では診断がつかないことが多く、当直医は「様子を見ましょう」と言って、せいぜい解熱剤を処方するぐらいで終わってしまいます。具合が悪い中わざわざ病院まで出かけて行っても、結局はあなたが損をするだけなのです。そんなことなら家で冷たいタオルで額や腋の下を冷やしながら安静にしている方が、ずっといいのです。翌日病院を受診することで手遅れになることなど、まずありません。

将来「当たり前」が当たり前でなくなるかもしれない状況の中で、医療側の努力だけで「当たり前」を維持することは困難です。皆さんのご協力をお願い申し上げます。

平成29年7月20日
病院長 藤原正博

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「早過ぎる死」「若過ぎる死」

歌舞伎役者市川海老蔵の妻でフリーアナウンサーとして活躍し、乳がんとの闘病をブログで発信、大勢の人に勇気を与えて来た小林麻央さんが亡くなりました。34歳でした。

乳がんは早期発見できれば治る可能性が大きく、10年生存率はStageⅠでは95.0%、StageⅡは86.2%ですが、転移のあるStageⅣでは14.5%と低く(全がん協のデータ)、他のがんと同様、進行した状態のがんを治すことは難しいのが現状です。
がんの早期発見は「がんもどき」を見つけているに過ぎないと主張する近藤 誠氏のような方もおられますが、とりあえず乳がんは早期発見が可能ながんです。それも自分で触ることで見つけられるがんです。マンモグラフィーによる検診も行われていますがそれを過信せず(日本人、特に若い人は、乳腺が発達したいわゆる高濃度乳房が多く、乳がんを見つけにくいと言われています)、自分は大丈夫という思い込み・油断を捨てて、自分のオッパイに関心を持ちましょう。

ところで若い方々が亡くなられると、よく「早過ぎる死」とか「若過ぎる死」というような言葉が使われます。じゃあ「丁度良い死」ってあるのでしょうか。

人間には寿命がありますから齢をとって亡くなる人が多いのは確かです。しかし、若い人であっても病気で亡くなる人はいます。小さい子どもであってもいわゆる小児がんに罹患し、亡くなることもあります。
「早過ぎる死」あるいは「若過ぎる死」という表現で若い人の死を悼むのは気持ちとしては理解できます。でもその裏には、「死ぬのは齢をとった人」「若い人は死なない」「自分は大丈夫」という思いがあるのではないでしょうか。
多くの方が、死は長く生きたその先にあるものと考えていらっしゃるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。若い世代であっても様々な病気で亡くなる人はいるのです。生と死は背中合わせであり、いつ死ぬかは誰にもわからないのです。

私は血液内科医で造血器腫瘍の治療を専門としています。がんは一般的には高齢者に多いのですが、急性白血病という病気は比較的若い世代で発症します。中には10代、20代の患者もいます。人生これからなんだから、ここで途切れちゃダメという思いで、私は彼らの病気をなんとか治したいと努力してきました。しかし残念ながら全ての人の病気を治すというわけにはいきませんでした。苦しい思いをしながら亡くなっていった方がたくさんおられます。どうして? 人生これからなのに…。彼らの命を救えなかった自分へのふがいなさと合わせ、運命の理不尽さに涙を流しました。
亡くなっていった彼らこそ悔しい思いをしたに違いないのですが、でもほとんどの方達が、私にとっては意外なほど冷静に自分のことを見つめていたような気がします。少なくとも主治医の前で泣き叫んだりして感情を露わにすることはなかったのです。どうしてこんなに落ち着いていられるの?と、私だけでなく病棟の看護師も驚嘆した患者もいます。自分のことよりも家族や友人、さらには病棟スタッフにまで優しい心遣いを示してくれた人もいます。今思い出しただけでも目頭が熱くなります。

彼らを見ていて、私は死というものを考えざるを得なくなりました。確かに日本人全体の平均寿命は延びていて、100歳を超えて長生きする人もいる。でもみんながみんな長生きするわけではない。いつか必ずお迎えは来るし、若くして亡くなる人もいる。自分だっていつ死ぬかはわからない。それなら死ぬときに後悔しないよう、毎日を大事にしっかり生きよう…。そう心に決めて、ここまで来ています。もちろん私は聖人君子ではありませんから、実際に病気で死ぬということになったときにはジタバタするかもしれませんが…。

多くの方が自分だけは病気にならない、自分だけは死なないと思っているように私には見えます。80代、90代の高齢者でも、まだまだ自分は長生きできると思っておられる方がいます。ここまで生きて来たんだからどうせならもっと、という思いなのでしょうね。中にはご本人はある程度覚悟ができているのにご家族が死を受け容れられない場合もあります。
長生きはめでたいことではありますが、いつか必ずお迎えは来るんですよ、と言いたくなることもあります。でもなかなか口には出せません。余計なおせっかいですもんね。

死というものを考えるのは重っ苦しいし面倒なことであることは確かです。普段はよそに置いておいても構いませんので、何かの時に「あっ、自分もいつか死ぬときが来るんだな」と思っていただくと、日々何気なく暮らしていることのありがたさを感じることができるのではないでしょうか。

「人生において重要なことは、いかに長く生きたかではなく、いかに日々を大切に生きたかということ」とどなたかがおっしゃっているようですが、そう考え日々実践していれば、何歳で亡くなったとしても、その人にとっては「丁度良い死」ということなのかもしれません。

 平成29年7月6日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

患者側と医療側との相互理解

多くの方々が医療は安全で確実なものだと考えておられるのではないかと思います。しかし残念ながらそれは幻想です。

自分の身体に何らかの不調を感じ、不安を覚えたとき、皆さんはその解決を求めて医療機関を受診します。そのとき、医師の診察を受け、いろいろな検査を受けることで問題が解決すれば、とりあえず皆さんは安心しますよね。かぜのようなすぐに治るものであればもちろんでしょうが、たとえがんだといわれたとしても、それに対しての心構えができます。しかし何だかわからないとなると、言い知れぬ不安に襲われると思います。
私は昔、「患者の前でわからないと言うな」と教育されました。「医者がわからないと言えば、患者は不安になる」と。しかし…。

皆さんは自分の心身の不調の答を求めて医療機関を受診します。原因を明らかにして、それを取り除いてくれることを期待します。医療側も原因をはっきりさせたい、それを取り除いて患者さんの状態を良くしてあげたいと思います。しかし実際にはそううまくいくことばかりではないのです。医療現場は曖昧さに満ち満ちています。医療というものは、もともと不確実で限界があり、また何らかのリスクを内包しているのです。

皆さんは思ったような答が得られないと医療に、と言うよりは「医師」に失望するかもしれません。その結果別の医療機関を受診することになったり、名医を求めて全国行脚することになります。そうすることで自分が期待した結果を得られればいいのですが、残念ながらほとんどそういうことはありません。
一方医療側も、患者さんの求めていることにきちんと答えられないときにはつらい気持ちになります。皆さんは医療者がそれぞれの現場でどう考えているか、思いを寄せたことがおありでしょうか。

不確実で限界があり、それなりのリスクを抱えた医療の実践にあたっては、皆さんと医療側との信頼関係を構築することが何よりも重要です。そしてリスクを受け容れる必要があります。そうでなければ、意識のない状態で自らの裸体をさらしてメスで切られるなんてことは、到底「あり得ない」はずです。
信頼関係を構築するにはどうすればいいか…。まず何といってもお互いをよく知ることです。相手のことを知り、理解しなければ、信頼関係なんて築けるはずがありません。皆さんに医療側の思いも知っていただきたいと考えてこれまでいろいろ情報発信をしてきましたが、十分とはいえません。

何とか皆さんにも医療側の思いを理解していただきたい…、そう思っていたところ、最近「医療者が語る答えなき世界」(磯野真穂 著 ちくま新書1261)という書籍が発刊されました。200ページ余の小著ですが、是非お読みになることをお勧めします。医療のそれぞれの現場で医療者がどういう思いでいるのかを理解していただく一助になるのではないかと思います。
指示に従わない患者に対する看護師の対応、療養型病院で働くケアワーカーの思い、高齢者の身体拘束に悩む看護師、手術室の話、新薬を前に臨床医が考えること、漢方薬の意義、腫瘍内科医の苦悩、寝たきり老人がほとんどの病院で働く理学療法士の思い、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者にかかわる看護師の思い、ソーシャルワーカーの目から見た高齢者医療、そして失語症の患者とかかわる言語聴覚士…。
皆さんと医療側との間の壁を少しでも低く薄くする、あるいは壊すことができて、相互理解に繋がるきっかけとなればいいのですが…。

また医療に従事しておられる方々にもお勧めしたいと思います。長く同じ現場にいると、新人の頃のようなフレッシュな感性を忘れがちになるのは止むを得ませんが、もう一度あの頃の気持ちを思い起こしてみませんか。

もちろん考え方は人それぞれですので、共感される方も反感を覚える方もいらっしゃると思います。それはそれでOK。大事なことは、医療というものを知り、お互いに相手を理解しようと思うこと。そしてその上で信頼関係を築くことに繋がっていけば、それに越したことはありません。

 平成29年6月22日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

物忘れ

第一生命保険株式会社が主催した第30回サラリーマン川柳コンクールの結果が発表されました(第一生命保険株式会社のホームページより)。
応募総数55,067句のうち、第1位に輝いたのは、なおまる御前さん(30代、女性)の「ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?」
世代間のギャップをコミカルに表わしているとして、女性の支持率が高かったそうです。
100位までの句が紹介されており、「ふむ、うまい」と感心させられる句がたくさんあります。傾向としては職場の上司に対する不満、妻への思い、高齢になって物忘れをするようになったことなどを詠んだものが多いようです。第2位の「久しぶり! 聞くに聞けない 君の名は」という身につまされるものもあります。「同窓会 みんなニコニコ 名前出ず」なんて、皆さんも経験があるのではないでしょうか。他にも「記憶力 ないから楽し 再放送」「備忘録 書いたノートの 場所忘れ」といった句も。
高齢者の元気な様子を詠んだ句もあります。「病院で サミットしている爺7」「ばあちゃんが オシャレにキメる通院日」「風邪気味だ 今日は病院 止めとこう」。なるほど。

齢をとって物忘れが多くなるのは自然なことです。私も人の名前がなかなか出て来ない、顔はわかるんだけど…、なんてことはしょっちゅう。少し後になって、何かの拍子に思い出すというようなことはよくあることです。でもなかなか思い出せず、気になってイライラするのは、いいことではありません。まあ、そのうち思い出すさ、と気楽にいきましょう。
物忘れというとすぐに「認知症?」と考えがちですが、認知症の物忘れと老化に伴う物忘れとは異なります。認知症による物忘れは、ある一時期の記憶がスポッと抜け落ちてしまい、思い出すことがないと言われています。その時は思い出せなくても後になって思い出せるのであれば、とりあえず認知症の可能性は低いと考えてもよさそうです。

教科書的には加齢による物忘れは体験したことの一部を忘れる、たとえば食事で何を食べたかを忘れることがあっても、食事をしたことは覚えている、そして何を食べたか思い出そうとする、しかし認知症の場合は体験したことの全体を忘れる、すなわち食事したこと自体を忘れ、物忘れの自覚がない、そしてそのことが日常生活に支障をきたす、とされています。

私は常々人間は忘れることが必要なんじゃないかなと思っています。経験したこと全てを覚えていたら、頭の中がパンクするんじゃないかと思うのです。大事なこと、できれば楽しいこと、いい思い出を頭の中に残し、いやなことは忘れてしまう…、それによってうまく心のバランスをとることができる、そんな気がしています。
でも実際にはどうでもいいようなことばかり覚えていて、肝心なことを忘れてしまうような気もしないではないのですが…。

平成29年6月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

抗菌薬の適正使用

以前のコラムで抗生物質と耐性菌の話をしました。このまま抗生物質の濫用が続けば、抗生物質が効かない耐性菌が増え、それによる感染症のために死亡する人が増えるという話でした。
有効な対策が講じられなければ、2050年には全世界で年間1,000万人が薬剤耐性菌により死亡すると推定されています。
かなり前から世界で危機意識が共有されていますが、日本においては対応がやや鈍いという印象でした。ここにきて漸く厚生労働省も本格的に取り組む姿勢を見せ、その第一弾として「抗微生物薬適正使用の手引き」がつい最近公表されました。とりあえず急性気道感染症と急性下痢症が対象となっています。

※ 話を進める前に、言葉の整理をしておきます。「微生物」というのは細菌、真菌(カビ)、ウイルス、寄生虫などを意味し、「抗微生物薬」といのは病原微生物に対する治療薬のことです。「抗菌薬」というのは、抗微生物薬の中で細菌に対して作用する薬剤の総称です。「抗生物質」というのは、微生物その他の細胞の機能を阻止または抑制する作用を持つ物質で、微生物が産出する化学物質のことです。抗生剤と呼ばれることもあります。抗菌薬=抗生物質というわけではなく、抗生物質の中には抗がん剤(ドキソルビシン等)もあります。また抗菌薬には合成抗菌薬とよばれるものがあり、厳密には抗生物質とは異なります。

皆さんの多くが「風邪をひいた」と言って医療機関を訪れる急性気道感染症は、「感冒」「急性鼻副鼻腔炎」「急性咽頭炎」「急性気管支炎」の4つに分類されます。これら「風邪」に対して、医療機関ではこれまで多くの医師が経験的に(言い換えると、たいした根拠もなしに)抗菌薬を処方していました。しかし風邪の原因のほとんどはウイルスであり、細菌に対して作用する抗菌薬は、ウイルスには効果はないのです。従って「抗微生物薬適正使用の手引き」においては、「感冒に対しては抗菌薬投与を行わないことを推奨する」「成人では軽症の急性鼻副鼻腔炎に対しては抗菌薬投与を行わないことを推奨する。中等症または重症の場合のみアモキシシリン内服5~7日間投与を検討することを推奨する」「検査でA群β溶血性連鎖球菌が検出されていない急性咽頭炎に対しては、抗菌薬投与を行わないことを推奨する。検査でA群β溶血性連鎖球菌が検出された急性咽頭炎に対しては、アモキシシリン内服10日間投与を検討することを推奨する」「成人の急性気管支炎(百日咳を除く)に対しては、抗菌薬投与を行わないことを推奨する」と記載されています。つまり、ごく一部を除いて抗菌薬は必要ないと言っているのです。
皆さんの中には抗菌薬を服用した方が風邪が早く治ると考えている方がいるかもしれませんね。実際そう思って医師に抗菌薬を処方するよう要求する人がいます。しかしそれは全くの誤解でしかありません。抗菌薬を飲んでも風邪が早く治るわけではなく、むしろ下痢、皮疹などの副作用のリスクが大きくなるだけなのです。
抗菌薬の不適正使用はあなたにとって問題となるだけでなく、耐性菌を生み出すことによって全世界の人々に影響を及ぼすことになるのです。

米国では抗菌薬の使用はかなり厳しく制限されているようですが、日本においては比較的自由に使うことができます。上述したように風邪に対しても気軽に抗菌薬が処方されて来ました。言ってみれば無駄な薬の使い方ということになります。その結果MRSAを始めとする耐性菌の増加に繋がったのです。
MRSAという言葉は皆さんもお聞きになったことがあると思いますが、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌のことで、ほとんどの抗菌薬が効きません。MRSAによる感染症を発症すると治療に難渋しますが、それでもまだ有効な抗菌薬があるのでなんとか対応が可能です。
しかし、現在最も優れた抗菌薬の一つであるカルバペネムと呼ばれる抗生物質にもし耐性菌ができて広がったとしたら、その感染症に対しては私達はなす術がありません。そしてそれが現実となりつつあるのです。幸い日本ではまだ少ないのですが、欧米ではカルバペネム耐性菌の比率が10%を超えていると言われています。
カルバペネムが外来で安易に使われることはまずありませんが、入院患者で原因のはっきりしない感染症疑いの発熱に対しては、かなり使われています。止むを得ない場合もあるのですが、他の抗菌薬で対応が可能なら、カルバペネムの使用は避けるべきでしょう。これについては薬剤を選択する医師の側の問題です。

抗菌薬はフレミングがペニシリンを発見して以来、飛躍的な発展を遂げ、幾多の感染症から人類を救って来ました。しかしここにきて新たな抗菌薬の開発にブレーキがかかり、もう何年もの間、有用な新規抗菌薬は出て来ていません。
となると、私達は限られた薬剤を上手に使っていくしかありません。それが適正使用ということになります。

まず不要な抗菌薬は使わないこと。これには私達医療側が極力処方を控えるとともに、皆さんにもむやみに抗菌薬を要求しないようにしていただかなくてはなりません。必要な時に必要なものを必要なだけ使うという姿勢が重要です。
次に病原微生物をきちんと同定して、適切な抗菌薬を選択すること。その際できるだけ抗菌スペクトラムの狭い抗菌薬を優先使用すること(これは私達医療側に求められることです)。カルバペネムは抗菌スペクトラムの広い、即ち多くの細菌に対して効果があり、強い殺菌力を有する優れた抗生物質であるがために、熱が出て細菌感染が疑われると安易に使ってしまいがちです。しかしそうすることが耐性菌の増加に繋がり、将来の私達に危機をもたらすことになるのです。
もう一つ皆さんに守っていただきたいことがあります。もし抗菌薬が処方された場合には、途中で勝手にやめずに、7日とか10日という服薬期間を遵守していただきたいのです。症状が治まったからと言って途中でやめてしまうと、細菌を全部駆逐できず、細菌の耐性化に繋がる可能性があるからです。

抗菌薬は私達にとってとても大切な薬です。今だけ、自分だけではなく、人類の将来も慮って、上手に使いましょう。

平成29年5月18日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

老いを受け入れる、死を想う

平成24年に出版されてベストセラーになった「大往生したけりゃ医療とかかわるな~自然死のすすめ」の著者中村仁一氏が、最近続編を出されました。「大往生したけりゃ医療とかかわるな【介護編】~2025年問題の解決をめざして」です。同じく幻冬舎新書です。
目次をご紹介します。第一章:医療業界による¨マインドコントロール¨は凄い、第二章:「延命医療」と¨延命介護¨が穏やかな死を邪魔している、第三章:年寄りの手遅れで無治療の「がん」は痛まない、第四章:自然死なら「看取り」はどこでもできる、第五章:繁殖終えたら「死」を視野に生きる、かかわる、第六章:¨真打ち¨は「死に時」がきたら素直に受け入れよう、という内容です。

前著同様毒舌というか辛口の語り口なので、中には反発する方がおられるかもしれません。でも是非一度お読みになることをお勧めします。齢を取った方はもちろん、若い方であっても、自分の生き方を考える一つのきっかけになるのではないかと思います。

中村仁一氏は77歳で、いわゆる後期高齢者として自分の考えを述べておられますが、そこまでは達していない私にも十分共感できる内容です。否、私自身の考えに近いと言っても間違いではありません。医療は万能ではなく限界があること、医療に過度の期待を抱かないこと、死を意識すること、老いを受け入れること、身体が動かなくなる前に、自分のできること、やりたいことをやっておくこと、自宅で死ぬためには「世話され上手」になること、すなわち自分でできることは精一杯する、自分でできないことをしてもらった時にはお礼を言う、愚痴や弱音を吐かないの3点、等々。

私もこれまでに様々な機会をとらえて「人には寿命があって、いつか必ずお迎えが来る」と申し上げてきたのですが、多くの方々は死から目を背けようとします。
医師も「死」という言葉を口にすることをためらいます。病気を治すことを期待される大病院の医師、特に「名医」ともてはやされる人々はそうです。その人達にとって「死」は敗北だからです。斯くいう私も昔はそのように教育され、何とかして病気を治したいと思ってがむしゃらに頑張った時期があります。しかし頑張れば頑張るほど自分の、そして医療そのものの限界が見えてくるのです。全ての病気を治すことはできない、たとえ一つの病気を治すことはできても、人はいつか必ず死ぬという当たり前のことに気づかされるのです。

誤解のないよう申し上げておきますが、私自身は治る可能性があるのならばそのために全力を尽くしたいと思っています。しかしそうすることで再発・難治で治癒の可能性が低くなったがん患者さんや高齢の患者さんを、かえって苦しめる場合もあります。その際は患者さんの意向を尊重します。わずかな可能性にかけるとおっしゃるのならそれに従い、ここまで十分頑張ったからもういいよという方あるいはもう齢だから苦しい思いはしたくない、ここまで生きれば十分という方であれば、あとは苦痛緩和に努めながら、患者さんに寄り添うよう心掛けます。少なくとも都会の大病院の「名医」のように、もうここでできることはないから、あとは近くの病院へ、などとは決して言いません。

どうあがいても死すべき定めにある人間にとって、医療の役割は何なのでしょうか。それを医療側も患者側も、共に考える必要があると思います。医療というものをきちんと理解し、誤解を改め、その上でどのように医療と付き合えばいいのか、みんなで考える必要がありそうです。

人間は齢をとります。これは避けることのできない事実です。アンチエイジングという言葉もあり、見かけ上とても若く見える人がいることも確かですが、でもいつまでも若いままでいることはできません。一見若く見える人ほど急に年老いたりします。
医療の進歩や社会環境の整備により人間の寿命が延びてきたことは確かで、日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えています。100歳を超えて長生きする人も年々増加しています。しかし寿命の延長もどうやら限界に近づいているようで、ネイチャーという有名な医学雑誌にも、人間の寿命はせいぜい120歳という論文が掲載されています。

人間には寿命があり、寿命があるからこそ生きていることを大事にしなければならないのではないでしょうか。

中村氏は、人間は自分でものが食べられなくなればそれが寿命であり、鼻からチューブを入れたり胃瘻をつくったり、あるいは点滴で強制的に栄養補給をすること、さらに介護の現場でむりやり口にものを押し込むのは、本人にとっては拷問でしかないとまで述べています。
本人が予め事前指示書を残していて延命措置を拒否する意思が明らかであればいいのですが、そうでないとほとんどの家族はどんな姿でも構わないのでなんとか生きていてほしいと願い、延命措置を希望します。しかしこれは本人のことを考えない家族のエゴでしかないと中村氏は切り捨てます。
また延命措置にはお金がかかりますので、どうしてもそれを望むなら、公的保険からははずして全額自己負担でやるべき、とも述べています。逆に本人がどんな姿になっても生かしておいてほしいと事前に意思表示をしている場合は、保険適応とするのもやむを得ない、と。

皆さんがどうお考えになるかはわかりませんが、是非一度この「大往生したけりゃ医療とかかわるな【介護編】」に目を通していただいて、生きること、老いること、病気になること、そして死ぬことについて考えていただければ、と思います。

平成29年4月27日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

病院開設許可後80周年を迎えます

新年度となり、当院も66名の新人を迎えました。スタッフ全体の一割以上が入れ替わったわけで、かなり大幅な異動となりました。彼らが新しい環境に慣れて力を発揮するには、暫く時間がかかりそうです。皆さんにもご迷惑をおかけすることがあるやもしれませんが、どうかご容赦願います。

さて、当院はこの秋、開設許可後丁度80年を迎えます。これを記念して、いくつかの行事を企画しております。はっきりと決まりましたら改めてお知らせいたしますが、どうかお誘いあわせの上足をお運び下さい。

一つは日本人の死因第一位の「がん」を取り上げ、がんという病気とどう付き合っていけばいいのかを、何人かの講師をお迎えしてお話を伺った後、パネルディスカッションという形でみんなで考えてみたいと思っております。

もう一つは、柏崎の今後の医療を維持するためにはどうすればいいのかを、みなさんと一緒に徹底的に話し合う場を設けたいと思っております。

どうかご期待下さい。

平成29年4月13日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

柏崎地域の医療を守りましょう

柏崎のシンボルであったホテル「岬ひとひら」が、今月いっぱいで閉館とのこと。病院としていろいろと利用させていただいただけに、とても寂しい思いでおります。
他にも明治饅頭で有名な美野屋さんも閉店、またラーメンの一翔、居酒屋安兵衛も閉店、ついこの前できたばかりと思っていた丸亀製麺も、いつの間にかなくなっていました。紳士服のはるやまも、だいぶ前に閉店しています。ボーリング場の建物も取り壊されてしまいました。
それぞれに事情はあるのでしょうが、結局は柏崎での商売が成り立たなくなったが故の店じまいということ、柏崎で生活する者としては残念というしかありません。

客商売の店は、お客さんが来なければ商売は成り立ちません。努力しないからつけが回ったんだ、自業自得、と冷めた目でご覧になる方もいらっしゃるかもしれませんが、自助努力だけではどうにもならない部分があることも事実です。
JR柏崎駅から海岸に延びる潮風ロードも、その道路脇の店はシャッターが下りているところが多く、えんま市や民謡流しが行われる通りも、イベント開催時以外は閑散としています。人が集まる街にするためにどうすればいいのか、個人的な利害を捨てて、住民みんなで、行政も交えて検討する必要があるのでは、と思います。

今回このような話をしたのは、病院だっていつまでも今までと同様に存続できる保証はないんですよ、ということを皆さんに申し上げたかったからです。
柏崎では当院を中心として各病院、各診療所が力を合わせて地域完結型の医療を提供しています。しかし国や県は、将来は柏崎地域を長岡地域にくっつけて、一つの医療圏とすることを模索しています(コラム122をご参照下さい)。
急性期医療は原則として長岡が担当するということになったら、当院の規模縮小は避けられず、皆さんが今まで通りに当院で治療を受けることが難しくなります。柏崎から長岡までは高速道路を利用すれば30~40分で行けます。ただし雪が降ったりするとそうもいきません。救急搬送に1時間以上かかることになると、助かる命も助からないという事態を招く可能性もあります。

今回の地域医療構想策定にあたって、柏崎地域は長岡地域とは別に地域完結型の医療を提供する必要があると認知されたのは、柏崎地域の医療の完結率が高いからです。
もし皆さんが柏崎市内ではなく、長岡地域の病院を受診して、当地域内の医療完結率が低下すると、国や県の柏崎地域の急性期病床を削減しようという思惑に、絶好の口実を与えることになるのです。

病院は利潤を追求する客商売とは異なりますが、皆さんが病院を利用していただかなければ、経営は成り立ちません。今は病院といえども、経営不振でつぶれることがあるのです。

閉店した店の一部は人手不足が原因という話も伝わってきておりますが、病院も人手不足は深刻です。現時点ではギリギリの状態でなんとかやっておりますが、医師も看護師も他の職種も、燃え尽き寸前です。今は彼らの医療職としての使命感がそれぞれを支えていますが、いつまでもつかは定かではありません。

病院を利用していただきたいと言いながら、スタッフが燃え尽き寸前だというのは、矛盾しているかもしれません。泣き言を言うなとお叱りを受けるかもしれません。でもこれが現実なのです。

市民の皆さんの医療に対する要望と期待は重々承知しております。しかし医療資源は限られており、その中で皆さんの期待に応えるのは至難の業と言っても過言ではありません。今の柏崎地域の医療を維持するためには、皆さんに医療の現状を理解していただき、上手に利用していただくしかありません。

この4月以降、柏崎市のご協力で各地域の皆さんと話をする機会をもつことができそうです。是非ご参加いただき、医療の現状と問題をご理解いただき、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。皆さんと一緒に柏崎の医療を守っていきたいと考えております。

平成29年3月24日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

ファミリーマート、オープン!

2月27日に院内ファミリーマートが新装開店いたしました。もうご利用になられましたか?

病院内になぜコンビニが、とお考えになるのもごもっとも。でも全国的にはそれほど珍しいことではありません。病院によってはコンビニ以外にもスターバックスやタリーズなどのコーヒーショップが入っていたり、レストランがあったり、ところによっては様々な店舗が集まってショッピングモールを形成している病院もあるようです。
都会の大病院で外来患者数が多いところでは、待ち時間を有効に活用してもらおうということでショッピングモールをつくったという話を聞いていますが、いずれにしても、病院のイメージが昔とは変わって来ていることは確かです。

当院が現在地に新築移転したのは平成3年ですが、その数年位あとから病院のアメニティ(生活環境の快適さ)が注目されるようになりました。かつての病院はいかにも「収容所」というイメージが強かったのですが、患者さんの生活の場として病院を考え直そうという流れが生まれ、定着したのです。かつての8人部屋とか10人部屋なんてとんでもないということで、個室を増やし、多床室はせいぜい4人、ということになりました。さらに多床室であっても各ベッド脇に窓があって外の景色を見渡せるよう、病室の構造が工夫されるようになりました。当院は残念ながらそういう流れが沸き起こる少し前の建物であるため、「古い」部分がかなりあります。

大きな地震に2回揺さぶられ、いろいろなところが傷んでいて、雨漏りするところもあります。私としてはなんとか病院を新しくしたいと思ってはいるのですが、厚生連内にはもっと古い病院があり、まずはそちらが優先、順番からすると当院の建て替えはずっと先のことになります。それまでは今あるこの建物をうまく使っていくしかありません。
せめて療養環境の改善を図りたいと考えて、6床室を廃止して4床室にと思ったのですが、そうすると病床数がかなり減ってしまい、時期によっては入院の需要に応えられない可能性があることが判明し、実現できませんでした。

当院にショッピングモールを、というのは非現実的ですが、外来にお出でいただいた方に待ち時間の間にちょっとした買い物をしていただく、あるいは入院している方が病院「外」の雰囲気を味わっていただく、という点で、この度オープンしたファミリーマートはお役に立つのではないかと考えています。
また職員にとっても、お昼の弁当を調達するにあたって少し選択肢が増えてよかったかなと思っています。

店の宣伝をするわけではありませんが、上手にご利用いただければ、と思います。また病院内のコンビニということで、こういうものを扱ってほしいというご要望がございましたら、総務課までお知らせ下さい。店側に伝えます。

平成29年3月9日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

新型インフルエンザパンデミックへの危惧

全国的に猛威を振るったインフルエンザもそろそろピークを過ぎたようです。
しかし考えてみると、日本でインフルエンザが拡がるのは当然なのかもしれません。

インフルエンザはインフルエンザウイルスによる感染症で、主な感染経路は飛沫感染と接触感染です。
インフルエンザの患者さんが咳やくしゃみをすると、ウイルスを含んだ飛沫が飛び散ります。その飛沫を近くにいる人が鼻や口から吸いこむことでウイルスが気道に付着するというのが飛沫感染です。1回のくしゃみで4万個ほどの飛沫が飛び散り、2メートル以内にいる人はその飛沫を吸い込む可能性があると言われています。
接触感染というのは、患者さんの手にウイルスがついている状態で患者さんと握手をしたり、階段の手すりやドアノブなどウイルスが付着したものに触れたりすることで、ウイルスが自分の手にくっつき、その手で鼻や口に触れることでウイルスが侵入するというものです。

インフルエンザは「かぜ症候群」の一つで、基本的には自然治癒する疾患です。かぜは薬を飲んでも治りません。いわゆるかぜ薬はあくまでも症状を和らげるだけです。ところがインフルエンザだけは「効く」薬があって、インフルエンザと診断されるとその薬が処方されます。でもその薬はウイルスの増殖を抑えて症状を軽減するだけで、治すものではありません。
インフルエンザであっても他のかぜであっても、原則は自宅安静なのですが、日本の社会はそれを許してくれません。かぜくらいで仕事を休むなんて…、というのが多くの人々の考え方です。インフルエンザだけは医療機関での証明があれば一定期間休むことができます。
またインフルエンザは他のかぜに比べると症状がきついので、それを和らげるために薬に頼りがちです。
加えてテレビコマーシャルなどで「かぜかなと思ったら早めの」医療機関受診を呼びかけていることもあって、かぜ症状のある人々の多くがインフルエンザの診断と薬を求めて医療機関に集中します。
その結果どうなるか…。混雑した外来で待っているうちに患者さん自身の具合が悪くなり、さらに他人にうつす可能性があります。医療スタッフに感染するリスクが高まります。

インフルエンザは2~3日(場合によっては1週間くらい)の潜伏期間の後発症しますが、症状の出る少し前から発症後2週間くらいまでウイルスを排出します。迅速診断キットで陽性となるのは症状が出てから18~24時間後で、発症直後は陽性とならない可能性があります。熱が出た、それっということで医療機関を受診してもインフルエンザの診断がつかず、解熱剤を処方されて仕事に出る、段々具合が悪くなって再び医療機関を受診し、今度はインフルエンザと診断される…、その間にこの人はインフルエンザウイルスをあちこちに撒き散らすことになるのです。

幸い今の季節性インフルエンザはほとんどが治りますので、ワーッと流行してもさほど大きな問題とはならないかもしれません。
しかし将来強毒性の新型インフルエンザが流行するような事態となった場合には、多数の死者が出ることが予想されています。それを最小限にとどめるためには感染の拡大を防ぐ努力が求められるのですが、現在の人々の行動様式では、それを望むことはできません。
かぜ症状で診断と薬を求めて多くの人が医療機関に殺到、その結果、病気で体力が落ちている他の患者さんに感染し、その患者さんの命を危険にさらす、医療スタッフにも感染し、医療機関が機能しなくなる…。
症状があっても休まず仕事に出る、特に大都会では満員電車で身動きもできない状態で通勤していますが、そのときにインフルエンザに罹患した人が咳やくしゃみをすれば、その周辺の人々は撒き散らされたウイルスの侵入を避けることはできません。あっという間に感染が拡がることは火を見るよりも明らかです。

インフルエンザが疑われた場合には受診を控えるよう呼びかける国が多いのに、なぜ日本は「早期受診」なのでしょうか。政府が「プレミアムフライデー」とかを提唱しているようですが、そんなことよりかぜをひいたら休めるようにすることの方が、ずっと重要だと思うのですが…。

 平成29年2月23日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

健康食品について

「目・肩・腰に○○○○○」「糖・脂肪の吸収をおだやかにする○○○」「脂肪を代謝する力を高め、体脂肪を減らすのを助ける○○○○○○」といったコマーシャルを、たぶん皆さんもテレビでご覧になったことがあるのではないでしょうか。これらの商品を実際に使用している方もいらっしゃるかもしれませんね。
数え切れないほど多くの「健康食品」が市販されており、ある調査によれば日本人の約3割が毎日何らかの「健康食品」を利用しているそうです。

健康食品は大きく二つに分かれます。一つは国が制度を創設して表示を許可しているもので、特別用途食品、特定保健用食品(トクホ)、栄養機能食品、機能性表示食品の4種類があります。もう一つはそれ以外のもので、機能性食品、栄養補助食品、健康補助食品、栄養強化食品、栄養調整食品、サプリメントなどがあります。
特別用途食品というのは、乳児、妊産婦・授乳婦、病者など、医学・栄養学的な配慮が必要な対象者の発育や健康の保持・回復に適するという特別の用途の表示が許可された食品のこと。消費者庁の審査が必要です。
特定保健用食品(トクホ)は、健康の維持・増進に役立つことが科学的根拠に基づいて認められ、「コレステロールの吸収を抑える」などの表示が許可されている食品。「糖・脂肪の吸収をおだやかにする○○○」や「脂肪を代謝する力を高める○○○○○○」がそれに当たります。消費者庁の審査が必要で、許可マークがあります。
栄養機能食品は、一日に必要な栄養成分(ビタミン、ミネラルなど)が不足しがちな場合、その補給・補完のために利用できる食品のこと。
機能性表示食品は、事業者の責任において、科学的根拠に基づいた機能性を表示した食品のことです。

日本では健康食品がブームですが、健康食品が本当に役に立つのかどうかは十分には検証されていません。普通に食事が摂れていれば、今の日本で少なくとも栄養が不足することなどはないと思うのですが、どうしても健康食品を使用したいというのであれば、ご自身の責任で使っていただくしかないと思います。ただし甘い言葉に惑わされないように、お気をつけ下さい。

健康食品を使用するにあたってご注意いただきたいことがあります。
健康食品やサプリメントはいくら食べても害はないし、薬と違って副作用もない、とお考えの方がいるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。たとえばビタミンEは過剰に摂取すると出血性脳卒中の発症率が高くなることが報告されています。一時注目されたβ-カロテンも、過剰に摂取すると肺がんの発症率が高くなることが知られています。
ビタミンには水に溶けるもの(B、C)と溶けないもの(A、D、E、K)がありますが、水に溶けないもの(脂溶性ビタミン)は過剰症をきたす可能性があります。ビタミンAが過剰になると、頭痛、吐き気、嘔吐、脱毛、発疹など、ビタミンDが過剰になると、食欲不振、口が渇く、血中のカルシウム濃度が高くなって腎臓などにカルシウムが沈着するなどの症状を来たします。
また健康食品に含まれている成分に対してアレルギーを起こすこともあり、注意が必要です。
中には医療機関から処方される薬と一緒に健康食品を摂取している方がいらっしゃるかもしれません。しかし種類によっては薬の効果に悪影響を及ぼすものがあります。有名なのはビタミンKがワルファリンという血を固まりにくくする薬の効果を減弱することでしょうか。ワルファリンは脳梗塞の予防のためなどに使われますが、よかれと思って飲んでいたビタミン剤や青汁が薬の効果を弱め、脳梗塞になってしまったのでは、元も子もありません。
医療機関にかかっている方は、健康食品を使っていることを、必ず担当医に伝えて下さい。

健康食品はけっして安いものではありません。使ってみてあなたが効果を実感できるのであれば、使い続けてもいいと思います。でもある程度使ってみて効果がない場合には、思い切って止める勇気を持つことも必要です。
効くか効かないかわからないものに大金を投じるよりも、バランスのとれた食生活や運動をすることの方が、ずっと役に立つと思うのですが…。

 平成29年2月9日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

高齢者の定義

先日、日本老年学会と日本老年医学会から、高齢者の定義を現在の「65歳以上」から「75歳以上」にすべきという提言がなされました。さらに65歳~74歳を准高齢者、90歳以上は超高齢者とすることも、併せて提言されました。

多くの国で65歳以上を高齢者とするということになっているようですが、この定義には医学的・生物学的な根拠はないようです。しかし実際の医療現場では抗がん剤治療などで65歳未満と65歳以上とでは区別されています。65歳以上の場合は薬の量が減らされることが多く、また造血幹細胞移植のような強力な治療は初めから対象外とされます。でも最近は65を超えてもお元気な方が多く、64歳ならOK、65歳はダメと、はっきり線引きをすることが難しくなっているのが事実です。70代でも矍鑠(かくしゃく)としている方もおられます。確かに65歳以上を高齢者とするのは、実際の感覚に合わなくなってきているのかもしれません。

65歳になったら仕事は辞めて、年金をもらって隠居生活にはいるというのは、元気な高齢者にとっては物足りないことかもしれません。高度経済成長期にバリバリ仕事をしてきた世代の人々にとっては、仕事から離れることは寂しいことに違いありません。それなのに、自分ではそう思っていなくても周りから高齢者と言われると、何となくその気になってしまって、気力が萎えるかもしれません。
最近は企業も高齢者の雇用に理解を示し、65歳を過ぎても雇用を継続するところが増えているとのことです。働けるうちは働く、体力の限界を感じたら自分の判断で辞めるということにすれば、高齢者の能力をうまく活用できるのではないでしょうか。
もちろん、自分はこれまで身を粉にして働いて来たから、今後は家族とともにのんびり暮らしたい、あるいは地域の中でこれまでの経験を活かしたいと考えるのであれば、それはそれで尊重されるべきでしょう。

大事なことは、65歳以上の人々を「高齢者」という枠に押し込んで社会から隔離するのではなく、経験豊富な人生の先輩として、社会に貢献してもらう方策を考えるということなのではないでしょうか。

ひとつ気になることがあります。学会はあくまでも医学的な観点から高齢者の定義を見直すことを提言しているのですが、政府がこれ幸いとばかり年金支給年齢を遅らせたりすることがないだろうか、ということです。65歳以上の方がみんな元気で裕福な生活をしているわけではありません。年金をもらうために75歳まで働けと言われても、それができない人も大勢いるのです。高齢者の定義が変わることで、医療・福祉の政策面で後ろ向きとならないことを願います。

私も高齢者の仲間入りをして、この先どういう人生を送るべきか、時々考えます。若い頃は血液内科医としてがむしゃらに働きましたが、これからはそんなことはできません。病院長職を辞したあと、どこでどういう生活をするか、まだ具体的な方向は定まっていません。少しのんびりしたいなという気持ちもありますし、医師として地域に貢献できればなぁという思いもあります。さて、実際にはどうなることでしょうか。

私は医師としてこれまで大勢の方を見送って来ました。血液疾患患者は比較的若い方が多く、人生これからという10代、20代の方、働き盛りの30代、40代の方の死をたくさん見て来ました。そんな経験から自分だけが80、90まで生きられるとは思っていません。いつか(それがいつになるかはわからないけれど)自分もお迎えが来る、いつもそういう気持ちで日々を過ごしています。だから先のことを考えるときはせいぜい5年先までで、10年先を考えることはありません。死にたいとは思いませんが、いつお迎えが来てもいいように、一日一日を大切に過ごしたいと思っています。

高齢者の定義が75歳以上となるかどうかは置いておき、65歳を超えた方、是非自分の身体に目を向け、いたわってあげて下さい。これまで随分無理をしてこられたのではありませんか? 今まで病気をしたことがない人でも、これからもそうだという保証はありません。身体を大事にして、健康な「高齢者」となることを目指しましょう。そして、できれば「自分もいつかお迎えが来る」という気持ちをどこかに持っていていただけるといいのではないかと思います。余計なお世話かもしれませんが…。

平成29年1月26日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

地域医療構想と今後の柏崎の医療

あけましておめでとうございます。皆さんはどのような新年を迎えられたでしょうか。インフルエンザやノロなど各種ウイルス疾患が流行していますが、皆さんの体調は如何でしょうか。

私達は皆さんにいい医療を受けていただきたいと思っておりますが、そのためには皆さんに医療というものを理解していただく必要があります。医療にできることは何なのか、できないことは何なのか、今後の医療はどういう方向に進むのか、国は何を考えているのか、そして医療に伴うリスクなど、様々なテーマでその時々のトピックスを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。
2~3週ごとに更新していきたいと思っておりますので、お読みいただければ幸いです。
また何かご意見、ご感想がございましたら、私宛お寄せ下さいますよう、お願い申し上げます。

さて、今年の第一弾は「地域医療構想」について。
これについては前にも何度か触れているのですが、各地域での検討結果がまとまり、「新潟県地域医療構想(素案)」として提示されましたので、その内容を簡単にご紹介したいと思います。

国は、これからの人口減少、超高齢社会を見据えて、各地域での医療の在り方を考えなさいと言うのですが、これはあくまでも表向きであって、医療費削減のために金のかかる急性期病床をなんとか減らしたい、というのが本音です。
そんな中で、各都道府県がそれぞれの現状を踏まえて地域医療構想についての検討を進めて来ました。新潟県でも7つの二次医療圏単位での議論が行われ、それをもとに県の保険医療推進協議会専門委員会(地域医療構想策定部会)での検討が行われ、昨年12月に素案がまとまりました。

中越構想区域は長岡市、柏崎市、小千谷市、見附市、出雲崎町、刈羽村の6市町村で構成され、大きく長岡地域と柏崎地域とに分かれます。国が二次医療圏単位、病院単位での役割分担を求めていたことから、当初私は、急性期は長岡の病院が担い、当院はその後方病院となり、規模縮小を余儀なくされるのでは、と心配していました。しかし最終的には長岡地域と柏崎地域はそれぞれ地域内完結型の医療を提供しており、今後もそれを維持することが必要であることが認知されました。
たとえばその地域住民がその地域内の医療機関に入院している割合(完結率)をみてみると、疾患全体では長岡市は84.2%、柏崎市は80.3%です。これを救急医療に限定すると、長岡市は93.8%、柏崎市は88.2%です。柏崎市における8%の違いは、主に悪性新生物によるもので、柏崎市の完結率は70.2%、他の30%の人達は新潟市、長岡市の病院に入院しています。悪性新生物の場合はそれぞれの医療機関で対応できるもの、できないものがあるために止むを得ないと思いますが、救急医療がほぼ地域内で完結しているのはとても重要なことだと思います。

当院は年間約2,500台の救急搬送を受け入れています。都会のように断るなどということはありません。また柏崎市消防本部管内のデータによれば、通報を受けてから病院に収容するまでの平均所要時間は41.4分(平成26年)です。
もし当院が十分な救急対応ができなくなったとしたら、長岡市まで搬送される患者が増え、搬送時間は延びることになります。疾患によっては救命できなくなることもあり得ます。
柏崎地域はこの地域内での完結型医療体制を維持していかなければならないのです。

国は病院単位での役割分担を求めています。つまりある病院は急性期医療に専念し、患者の状態が落ち着いたら別の回復期・慢性期の病院に移る、という形です。大都会ならひょっとすると可能かもしれません。しかし柏崎地域では現時点において回復期・慢性期の患者を受け入れる医療機関や、在宅医療を支える体制は不十分です。また当院は基本的には急性期病院ですが、回復期・慢性期の患者も入院しています。その人達をよその施設に移して当院が急性期医療に特化するなどということはできないのです。
おそらくこういった状況は日本全国どこの地域でも同様だと思います。病院単位での機能分化・役割分担など、絵に描いた餅でしかないのです。

じゃあ今のままで全く問題はないのか、というと、そうでもありません。医師、看護師、薬剤師などスタッフ不足の中で頑張っている病院も、限界に近づいています。開業医も少なくて在宅医療をサポートするのも困難です。医療費も年々高騰し、国が危機感を覚えるのもわからないわけではありません。でも高齢化は進み、医療を必要とする人は今後も増え続けます。そんな状況にあって今後の医療提供体制をどうするのか…。他人事ではないのです。

今回の地域医療構想の策定は、ある意味チャンスだったのかもしれません。地域で、医療関係者だけではなく一般住民も交えて、みんなで医療について考えるいい機会だったのかもしれませんが、結果的には現状追認で終わってしまったような気がします。
国が「つくれ」と言うからとりあえずつくってみた、というのが正直なところかもしれません。でもこれで終わらせてしまってはダメです。今回の地域医療構想の策定にあたって大勢の方が関わったわけですから、今の、そして今後の医療についての問題意識を共有して、将来も持続可能な医療体制を構築するにはどうすればいいのか、みんなで考えてみるべきでしょう。

国民皆保険制度のもと、全ての国民が貧富によって差別されることなく平等に医療を受けられることに感謝し、今後もそれを維持するにはどうすればいいのかを、皆さんにも考えていただきたいと思います。

平成29年1月12日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

栄光の陰に~日本の基礎研究の危うい将来

大隅良典氏が今年のノーベル医学生理学賞に選ばれ、12月10日にスウェーデンのストックホルムで授賞式が行われました。
受賞の対象となった業績は、「オートファジーの仕組みの発見」。

「オートファジー」というのは、細胞が自分自身の蛋白質を分解し、新しい蛋白質の材料として再利用する仕組みのことです。大隅氏が1988年に酵母でオートファジーが起こることを確認したのですが、当時はそれほど注目はされなかったようです。その後研究が進み、オートファジーは哺乳類、昆虫、植物などあらゆる生物に共通の生命現象であることがわかっています。
また最近では、パーキンソン病やアルツハイマー病との関連も指摘され、新しい治療法の開発に繋がることが期待されています。

医学の進歩のためには基礎研究が重要なのですが、それを取り巻く環境が非常に厳しくなっています。

一つはお金の問題。研究のためにはお金が必要ですが、それを支えるのは国からの「運営費交付金」と「科学研究費補助金」。科学研究費補助金(科研費)は研究者個人を対象に研究テーマ別に募るものですが、すぐに結果や利益に結びつく研究に重点が置かれているため、基礎研究者には配分されにくいのが現状です。
基礎科学は運営費交付金に頼らざるを得ないのですが、その運営費交付金は減額の一途をたどり、最近は研究者一人当たり年間50万円程度にしかならないとのこと。これでは満足な研究などできるわけがありません。

もう一つは人の問題。研究者を目指す若者が減っています。
かつては医学部を卒業して医師になると、多くは臨床に進みましたが、一部は基礎医学の研究室に所属して研究者としての道を歩みました。
ところが新臨床研修システムが導入されてからは、全ての医師免許取得者は2年間の臨床研修が義務付けられることになりました。実際には臨床研修を受けずに基礎医学の道に進むことも可能なのですが、基礎医学者の収入は低く、生活のために健診などのアルバイトをしようということになると、臨床研修を受けていなければできないということになってしまったのです。そのためほぼ全ての医学部卒業生は2年間研修を受けることになりました。臨床現場は医師を志す者にとっては魅力的です。卒業時に基礎医学に興味を持っていた人でも、2年間の臨床研修の間にその興味が薄れてしまい、臨床に進む人が多くなり、基礎医学の研究者を目指す人は減ってしまいました。

さらにここにきて「新専門医制度」が発足することとなり、基礎医学にとっては大きなピンチを迎えています。まだ流動的な部分はありますが、最近になって骨格が固まって来たようです。
2年間の臨床研修の後、内科、小児科、外科、産婦人科などの専門医資格の取得を目指して研修を始めるわけですが、日本専門医機構は全ての医師に何らかの専門医資格をとることを勧めています。しかしこの専門医は、病理学を除くと全て臨床系の専門医で、基礎系は無視されています。
現在の医学界には基礎医学を大事にして研究者を育てようという姿勢はなさそうですので、本人によほどのモチベーションがない限り、基礎医学の道に進む人は出て来ないでしょう。
また優れた研究のためには若い柔軟な頭脳が必要と言われています。20代半ばで医師になり、その後5年以上臨床現場で訓練を受け、ある程度固定的な医学的概念を刷り込まれてしまうと、30代になってさて研究を、と言っても、その人に柔軟な発想を求めるのは難しいかもしれません。
iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥氏は、かつては整形外科医で、手術が下手で先輩からしょっちゅう怒られていたそうですが、基礎の研究者になって優れた業績をあげました。でもそんな人は滅多にいないのです。
今自分が研究していることが、いつか病気の原因解明や治療に結びつくかもしれない…、そう思って地道に研究に取り組む若い人が増えて、基礎医学の裾野が広がらない限り、日本の医学の将来は危ういと言っても過言ではないと思います。

すぐに結果に結びつかなければ無駄だといって切り捨て、効率を優先するような国あるいは社会では、将来ノーベル賞に繋がるような画期的な仕事など、けっして出てこないのではないかと思います。無駄かもしれないけれど、ひょっとするとものになるかもしれない…、そんな思いでおおらかに見守ってくれるような社会であることを願うばかりです。

 平成28年12月22日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

新語・流行語大賞

今年の世相を映した言葉を選ぶ「2016ユーキャン新語・流行語大賞」が発表されました。
年間大賞は「神ってる」。プロ野球広島カープの緒方孝市監督が、鈴木誠也選手の活躍を評して使った言葉です。
この他トップテンに入ったのは、「ゲス不倫」「聖地巡礼」「トランプ現象」「PPAP」「保育園落ちた、日本死ね」「アモーレ」「ポケモンGO」「マイナス金利」「盛り土」
ふーん、なるほど、という感じですね。
「神ってる」という言葉は、たぶん「神憑り」→「神憑る」→「神憑ってる」→「神ってる」という感覚で使われたのでしょうが、「神憑り」を動詞化した「神憑る」という言葉そのものが辞書には載っておらず、まさに「新語」ということになります。
日本語はもともと漢字、ひらがな、カタカナが混じり合い、しかも和製英語などもあってとても複雑なのですが、さらに様々な新しい言葉が生まれて、一層複雑化しています。

こんな言葉、知らないよ、というのが「ギャル流行語大賞」で選ばれた言葉。第1位が「沸いた」、以下「よき」「らぶりつ」「リアタイ」「最&高」「ソロ充」「やばたにえん」「ありよりのあり」「フッ軽」「きびつい」と続きます。皆さんはいくつご存知でしょうか。実際に使っておられる方、います?
因みに「沸いた」というのは、嬉しい!、最高!といった興奮状態の時に使用される言葉なのだそうです。他の言葉はどうせ私達には縁がなさそうですので、解説は省略します。

新しい言葉はインターネットを介してあっという間に拡がりますが、高齢者などインターネットに長けていない世代は取り残されます。その結果世代によって使う言葉が異なり、うまくコミュニケーションがとれなくなります。
時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、果たしてこれでいいのかなという疑問も湧いてきます。

社会を構成、維持するためには、コミュニケーションが重要です。医療の現場でもそうです。医療側患者側それぞれが、お互いを理解しなければなりません。そのためには言葉が必要ですが、お互いに通じる言葉でなくてはなりません。かつて(ひょっとすると今でも?)医療側は患者・家族と話をするときに専門用語を連発し、ひんしゅくを買いました。医療側がいくら一生懸命話しても、相手にわからない言葉で話したのでは、その思いは伝わりません。最近は医療側もできるだけわかりやすく話すよう努力はしているのですが、まだまだ不十分です。
逆に患者さんの側が医療側には理解できないような方言(これはこれで大切にしなければならないものだとは思いますが…)でしゃべったり、若い人が自分の世代でしか通用しない言葉を使ったりすると、やはり医療側との意思疎通を図ることができません。

以心伝心というわけにはいきませんので、コミュニケーションのためには言葉を大事にしなければなりません。新しい言葉がどんどん生まれることが悪いというわけではありませんが、仲間内ならいざ知らず、それ以外の人と話をする場合には、お互いに通じる言葉を用いるべきなのではないでしょうか。

平成28年12月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

自分で考えて意思表示をすることの大切さ

米国の大統領選挙が行われ、大方の予想を覆してドナルド・トランプ氏が勝利をおさめ、次期大統領に就任することになりました。過激な発言を繰り返したトランプ氏への風当たりは強く、戦前の予想では70%以上の確率でヒラリー・クリントン氏が勝つだろうと言われていたのですが、その予想は外れました。米国の民意はトランプ氏を選んだのです。
ここでは米国の選挙結果についてあれこれ論評するつもりはありません。申し上げたいのは、米国人の自分で考え、自分で決めるという姿勢が、国のトップをも変える力を持つことのすごさです。当初は泡沫候補とみられていたトランプ氏が、選挙戦が進むにつれて支持を拡げたのは、彼の主張に耳を傾け、自分でいろいろ考えた末、トランプ氏の主張に共感し、支持を決めた有権者がいるからです。
米国も日本同様、いわゆる組織票は重要なのでしょうが、個人の意思がそれを上回ったということでしょうか。

日本においても各政党の支持率は低く、選挙においてはいわゆる浮動票の行方が勝敗のカギを握っているのですが、日本では投票せずに棄権する有権者が多く、選挙結果は戦前の予想通りということがほとんどです。
投票率が50%に満たない場合、その選挙結果が本当に民意を反映していると言えるのか、常々疑問に思っています。主権者として自分の意思表示をするということは、とても重要なことだと思うのですが…。

医療の現場では、インフォームド・コンセントが重視されています。このことは前からしばしば申し上げているのですが、実際にはそれほど浸透しているとは言い難いのが現状です。
インフォームド・コンセントは適切な訳語がないため、そのままカタカナ語として使われていますが、基本的には患者さんの側の言葉です。すなわち、医療側から十分な説明を受けてその内容を理解し、自分で考えて自分で判断し、自分で決めて医療側に同意を与える、あるいは同意しないという一連の行為を言います。この「自分で」という部分が大切で、欧米人にとっては当たり前のことなのでしょう。でも日本人にとってはなかなか馴染めないようです。

医学医療はとても不確実なもので、限界があり、リスクも内包しています。そんな中で医療を実践するためには、患者側と医療側とのお互いの信頼関係が必須です。治療がうまくいくかどうかはやってみないとわからない、うまくいけばいいけれど、うまくいかなかったときにもその結果を受け入れる必要があります。うまくいかなかったら医療側が悪い、医療側に責任がある、それ、訴訟だ、ということでは、医療などできません。良い結果であっても望まぬ結果になったとしても、自分で決めた以上それを受け入れる、そんな潔さがインフォームド・コンセントなのかもしれません。

もしあなたが病気になったときには、担当医とよく話し合い、担当医から十分な情報を引き出した上で、どんな治療を選択するか、自分で考え、自分で決めて下さい。病気はあなた自身のもので、誰も取って代わることはできないのです。
でも、そんなこと言ったって…、自分は医療にはシロウトだし…、自分で決めろと言われても、そんなことムリムリ、とおっしゃるのなら、どんな結果になっても後悔しないような信頼関係を、担当医との間に築いて下さい。「おまえに命を預ける」という人間としての関係が築けるのであれば、それもまた潔いかもしれません。

自分で考え、自分で決めるという姿勢は、病気と対峙するときだけではなく、国の行く末を決める上でも重要で、しかも大きな力を持つということを、今回の米国大統領選挙が教えてくれたような気がします。

 平成28年11月24日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

男女共同参画社会

内閣府による「男女共同参画社会に関する世論調査」の結果が公表されました。
調査は今年の8月25日から9月11日の間に、全国の18歳以上の5,000人を対象として、調査員が個別に面接するという方法で行われ、3,059人(61.2%)から回答を得ています。

内容のいくつかをご紹介すると、社会全体における男女の地位の平等感については、男性の方が優遇されていると感じている人が74.2%、女性の方が優遇されていると感じている人が3.0%、平等という人が21.1%でした。
女性が職業を持つことについては、子どもができてもずっと仕事を続ける方がよいと答えた人が54.2%で、前回調査(平成26年)の44.8%を大きく上回りました。一方、女性は職業を持たない方がよいと答えた人も3.3%で、前回調査の2.2%を上回っています。
また子どもができたら仕事を辞め、子どもが大きくなったら再び仕事に就く方がよいと答えた人が26.3%、子どもができるまでは職業を持つ方がよいと答えた人が8.4%、結婚するまでは職業を持つ方がよいという人が4.7%という結果でした。
「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に賛成の人は40.6%、反対の人は54.3%でした。男女別にみると、賛成と答えた人は男性44.7%、女性37.0%、反対と答えた人は男性49.4%、女性58.5%でした。
賛成とする理由は、「妻が家庭を守った方が、子どもの成長などにとって良いと思うから」が60.4%、「家事・育児・介護と両立しながら妻が働き続けることは大変だと思うから」が45.6%、「夫が外で働いた方が、多くの収入を得られると思うから」が32.9%でした。
反対とする理由は、「固定的な夫と妻の役割分担の意識を押し付けるべきではないから」が52.8%、「妻が働いて能力を発揮した方が、個人や社会にとって良いと思うから」が46.8%、「夫も妻も働いた方が、多くの収入が得られると思うから」が40.6%でした。
さらに結婚して姓が変わった場合、働くときに旧姓を通称として使いたいと思う人は、31.1%で、男性39.5%、女性23.9%でした。若い人ほど旧姓を使いたいという人が多く、18~29歳では40.5%でしたが、高齢者であっても60~69歳で27.7%が使いたいと回答しました。

この結果を皆さんはどう解釈、評価されるでしょうか。
「夫は外で仕事、妻は家庭」という考え方は日本社会に根強く残っていますが、時代とともに少しずつ変わって来ているのも確かです。
ただ夫婦共働きが単に収入増のためだとしたら、ちょっとな、という思いもあります。

医療職についてみてみると、医師はこれまでは圧倒的に男性が多かったのですが、最近は女性医師が増えています。大学の医学部も学生が男女半々というところもあるようです。
余談ですが、医学部学生時代の私のクラスは100余名中、16名が女性でした。皆さん優秀で、卒業式のときにクラストップの成績で卒業証書を代表して受け取ったのも女性でした。卒業後も皆さんそれぞれご活躍になっておられます。
看護師は逆に女性の職業という印象でしたが、最近は男性看護師が増えてきています。かつては女性は「看護婦」、男性は「看護士」と呼ばれましたが、今は「看護師」に統一されています。
結婚あるいは出産を機に辞めてしまう方もおられますが、多くの方々が仕事と家庭を両立させて頑張っています。
これ以外の医療職についても、かつては比較的女性の多い職種(薬剤師、臨床検査技師、栄養士など)、逆に男性の方が多い職種(臨床放射線技師など)に分かれていたのですが、最近は男女差がなくなりつつあります。

私は「男らしさ」「女らしさ」があるのは自然なことと考えていますが、仕事をする上では男だから、女だからということで差別する理由はないと思っています。重要なのはその人の能力です。もちろん体格面での違いはありますから、何でもかんでも男女一緒というわけにはいかないかもしれません。
また性格的な向き不向きもあると思います。職種によっては男性向きあるいは女性向きというのもあるかもしれません。それを全て否定して、何でもかんでも男女平等と叫ぶのもどうかな、と思います。
妊娠・出産は女性にしかできないことですから、女性「性」は大事にする必要があると思っています。
今後真の男女平等社会を築いていくために必要なのは、これまでの男性優位社会に対する認識を改めることだろうと思います。男であること、女であることをそれぞれが自覚した上で、お互いを尊重し、お互いに敬意を払うことが大切なのではないかと思います。

ただ私としては一つ気になることがあります。子どものいる夫婦が揃って仕事に出るとしたら、しかも今の社会では当たり前と思われている残業もこなして、朝早くから夜遅くまで働くとしたら、誰が子どもの面倒をみるのだろうかということです。今は核家族化していて、昔のようにおじいちゃん、おばあちゃんが孫の面倒をみることはできません。保育所を整備する必要がありますが、仮に保育所が整備されたとしても、親と一緒にいる時間は確実に減りますので、そのことが子どもの成長、特にこころの成長にどのような影響を及ぼすのか…。親が常に傍にいるということは、子どもにとっては大きな支えであり、大切なことなのではないかと思うのですが…
また保育所に預けられた子どもが熱を出したりして具合が悪くなったとき、親(父親? それとも母親?)はどう対応するのか…。仕事を抜けて子どもに付き添うことが可能なのか…。そのことを職場が快く許容してくれるのか…。

男女共同参画社会という構想は当然のことなのでしょうが(労働人口を増やしたいという政府の思惑が透けて見えるようです)、働き方が今と変わらない限り、そして社会全体でサポートしようとする体制が整わない限り、実現するのは難しいかな、という気がします。
また実際に働く世代のことだけではなく、将来を担う子どものことも考えた社会の在り方(子育てを個人任せにするのではなく、社会全体として責任を負う)を、みんなで考える必要があるのではないでしょうか。

 平成28年11月10日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

人間の寿命

厚生労働省の発表によれば、平成27年(2015年)の日本人の平均寿命は男性80.79歳、女性87.05歳でした。
1890年代から50年間は男女とも40歳代だったものが、1947年に男性50.06歳、女性53.96歳と、初めて50歳を超え、以後現在まで平均寿命は延び続けています。
長生きしたい、という思いは、不老不死の秘薬を追い求めた秦の始皇帝以来、人間の変わらぬ願望です。

でも人間っていつまで生きられるのでしょうか。平成28年6月現在で、日本人の最高齢者は男性で111歳、女性115歳です。世界で最も長生きした人はフランス人の女性で、122歳だったそうです。
最近Natureという有名な医学雑誌に、人間の寿命はほぼ限界近くまで延びていて、今後122歳を超えて長生きする人はおそらくいないだろうとする論文が掲載されました。
ただ近年は老化のメカニズムが少しずつ解明されており、将来、老化を防ぐあるいは遅らせることが可能になるかもしれません。そうなるともう少し寿命が延びるかもしれません。でもそれが人間に幸せをもたらすのかどうかはわかりませんが…。

齢をとっても元気で矍鑠(かくしゃく)としていればいいのですが、現実はそうではありません。前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、平均寿命と健康寿命すなわち「健康上の問題で日常生活が制限されることなく過ごせる期間」とは10年位の差があり、晩年の10年間は何らかの病気のために日常生活が制限され、介護などが必要となっているのが現実です。
長生きしたいという思いを否定するつもりは全くありませんが、不老不死が望めない以上、ある年代になったらどういう生き方をするのか、そしてどういう死を望むのか、哲学的な思いに浸ってみるのも悪くないのではないでしょうか。

今の日本社会は長生きしたから幸せとは必ずしも言えない面があります。そんな中で高齢者はどう生きればいいのでしょうか。30代、40代で高度経済成長を支えた人々に対して、国はもう少し暖かい手を差し伸べることはできないのでしょうか。
かつての大家族制は崩れ、今は高齢夫婦の二人暮らし、あるいは高齢者の一人暮らしの世帯が多くなっています。そんな人々が悠々と安心して生活できるような地域社会を築くことが、国の役割ではないのかな、と思っています。
今後医療費の増加が続けば国の経済が破綻すると政府は言うのですが、国を支えるのは人、国民です。その国民が安心して生活できるよう下支えをしなければ、経済がどうの、国の発展がどうのと言っても、所詮は詮無いこと、と思うのは、私が政治・経済のセンスに欠けるが故なのでしょうか。

私もいわゆる高齢者の仲間入りをしました。残された人生はそう長くはないのかなと思っていますが、お迎えがいつ来るかは誰にもわかりません。「ああ、いい人生だった」と言ってあの世に旅立てればいいなと思っています。

平成28年10月27日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

未成年安楽死のニュースに触れて思うこと

ベルギーで未成年が安楽死した、という報道がありました。年齢や性別など詳細は明らかにされていません。ベルギーでは安楽死が合法化されており、未成年も肉体的な苦痛があって死が間もない患者で、親の同意があれば安楽死ができることになっているそうです。
日本では「安楽死」と「尊厳死」が混同して使われていることから、報道で「安楽死」と伝えられても、実際の状況がわからないとコメントの仕様がありません(安楽死と尊厳死については、コラム78をご参照下さい)。でも、死を選択しなければならないほど苦しかったことは事実なのでしょう。長く緩和ケアに取り組んで来た者としては、何とか苦痛を和らげる手立てはなかったのかな、と考えてしまいます。人生これから、という若い方が亡くなるのは心が痛みます。その死を傍らで見守るご両親のつらさはいかばかりでしょうか。

人間は確かにいつかはお迎えが来るのですが、それがいつなのかは誰にもわかりません。そしてほとんどの人は自分は当分は死なないと思っています。若い人はもちろんですが、かなり齢をとられた方も同様です。たぶんそれは人間にとっては重要なことなのだろうと思います。自分がいつ死ぬかがはっきりしたら、多くの人々はその恐怖感に押しつぶされてしまうかもしれません。
私はいつも、人間には寿命があるのだから、死を意識しながら一日一日を大事に、しっかりと生きましょうと、わかったようなことを言っていますが、口で言うほど簡単でないことは、自分自身も十分理解しています。人生、先が見通せないということは、ひょっとすると大切なことなのかもしれません。

しかしがんの末期あるいは神経難病のように、治癒が望めず、死と向き合わざるを得ない人がいることも事実です。その方達はいったいどのような思いで日々を過ごしているのでしょうか。

寿命が限られていることを知らされた人は様々な葛藤を抱えます。そして様々な思いを周囲にぶつけます。かつて精神科医のキューブラー・ロスが大勢のがん患者と面接をし、がんが治らないということを告げられるとまず衝撃を受ける、そしてその後否認、怒り、取り引き、抑うつなどの感情が表れ、最終的には受容に至る、ただいつの時にも一貫して希望を持ち続けるという心の過程を示しました。もちろん実際にはそれほど単純ではないのですが、常に希望を持ち続けるということが重要です。
その希望というのは、いつか新薬が開発されて自分の病気が治るかもしれない、というものであったり、娘の結婚式までは生きていたいというものであったり、自分が生きて来た証を何らかの形で残したいというものであったり、人それぞれです。
死の恐怖に押しつぶされて心が壊れてしまうという人はほとんどいないのです。人間の強さを感じます。
そうであれば私達医師は、患者さんに病状をきちんと伝え、残された時間をどう使うかは患者さんに任せ、患者さんの生き方をしっかりサポートすることが役割なのではないかと思います。病気を治せなくとも、傍にいて一緒に歩む、それが私達のなすべきことなのではないかと考えています。
一緒に歩むという気持ちがあれば、患者さんが苦しんでいるのを黙って見ているわけにはいかないと思います。少なくともどこかの大病院の医師のように、ここではもうやることがないからよその病院へ、などと言うことはないはずです。

冒頭の安楽死を選択した未成年、詳しい状況はわかりませんが、医師や他の医療スタッフと十分に心を通わせた上での最終的な選択であったことを、看取る機会の多い医師の一人として願っています。

 平成28年9月29日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

大地震に備える

先日イタリア中部で大地震が発生、多数の死傷者が出て、避暑地として名高いアマトリーチェの街が崩壊しました。また同じ日にミャンマーでも地震があり、貴重な仏教遺跡に大きな被害が出たとのこと。
日本でもついこの間熊本で大きな地震が起きたばかりですし、東日本大震災の大惨事は今も目に焼きついています。
柏崎地域に限っても、中越地震、中越沖地震と短期間のうちに大きな地震が相次ぎました。この先動く可能性のある断層が近くにあり、三度(みたび)、大きな地震に見舞われることも否定できないと言われています。
さらに今後30年以内にマグニチュード8~9の南海トラフ巨大地震が60~70%の確率で起こると予測され、また2020年までに首都直下地震の起こる確率は100%という予測もあります。

地震大国日本では以前より地震発生予知の試みがなされてきましたが、残念ながら正確に予知できたものはないようです。
2016年6月に政府の地震調査研究推進本部より「全国地震動予測地図2016年版」が公表されました。それによると今後30年間に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率は、関東から四国にかけての太平洋側で高くなっています。特に千葉市と横浜市では80%を超えています。3%以上であれば確率が高いとされる中で、80%を超える確率というのは、「絶対起こる」と言い換えてもいいのではないでしょうか。
ただし確率が低いからといって安心はできません。この報告書の中でも触れられていますが、全国どこでも強い揺れに見舞われる可能性はあり、実際熊本市の確率は7.6%とやや低めでしたが、あのような大きな地震が起こりました。

大地震に見舞われる確率をどうとらえたらいいのでしょうか。
先にも述べたように、首都直下地震は2020年までに100%の確率で起こるとも言われ、全国地震動予測地図でも今後30年間に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率が東京都庁では47%、さいたま市では55%、そして横浜市では81%となっています。
これだけ高い確率でありながら、該当地域の人々の危機意識は乏しいように見えます。政府もこういう地震が起こったらこれだけの被害が出るという想定(たとえば震源地を都心南部とするマグニチュード7クラスの首都直下地震の場合、死者最大2万3千人、負傷者最大12万3千人)はしても、じゃあそれに備えてどういう対策をとるのか、また実際に地震に見舞われたその時にどうするのかという具体的な対応策については示そうとしません。起こるわけがないと考えているのか、あるいは起こったら起こったで仕方がない、天災には逆らえないと開き直っているのか…。何としてでも国民を守るというのが政府の役割のはずなのに…。

被害想定にしても、首都直下地震で死者が最大でも2万3千人というのは甘すぎるのではないでしょうか。地震が起こる時間帯にも依るでしょうが、人口密集地で高層ビルが林立、耐久性が不安視されている首都高速道路網、網の目のようにはりめぐらされた地下鉄路線、そして広大なゼロメートル地帯…、そんな地域を襲う激しい揺れ、そしてさらに津波が押し寄せるとしたら…。人口密度の低い地域で発生した東日本大震災の時でさえ2万人近い死者・行方不明者が出たのですから、首都圏であればその何倍、何十倍にもなるであろうことは、容易に想像がつきます。
直下地震の場合は津波は発生しないという想定なのでしょうか。
因みに南海トラフ巨大地震が起こった場合には大津波が襲うことは間違いなく、死者は33万人と想定されています。
これだけの被害が想定されるのなら、それをできる限り少なくするための手立てを講じるのが政府の仕事なのでは、と思うのですが、そのような動きは伝わって来ません。

政府が国民を守らないのであれば、私達は自衛できるところは自衛するしかありません。自分の命は自分で守る、ということでしょうか。とは言っても、できることは限られますが…。
災害時の対応をコンパクトにまとめた「災害時ハンディ便利帳」という小冊子が世界文化社から出版されました。一度目を通した上で手元に置いておくと役に立つのではないかと思います。

日本人は親方日の丸的なところがあって、何かあっても国がなんとかしてくれると思いがちですが、地震を初めとする自然災害については、国の支援は期待できません。今までもそうであったように、「想定外」の一言で済まされてしまうのがオチです。

2020年は東京オリンピックが開催される年です。それまでに首都直下地震が起こる確率が100%…、なんだかとても不気味な感じがします。もちろん予測が外れて起こらなければそれに越したことはありません。リオデジャネイロオリンピックの感動が覚めやらぬ中で、4年後に是非また感動を味わいたいと思ってはいるのですが…。

「全国地震動予測地図」によれば、柏崎地域の今後30年間の大地震の確率は6~26%です。かなり高いと言うべきでしょう。2回の大きな地震を経験した私達としては、3回目もあり得ると考えて、できる備えはしておかなければならないと思います。

平成28年9月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

「患者力」という言葉をご存知ですか?

かつての医療は「お任せ医療」とか「パターナリズム」とか呼ばれて、医師が絶対的な権限を握っていました。医師は患者さんに対して「素人は黙ってプロである自分の言うことに従って入ればいい」という態度をとり、また患者さんも「自分は素人で何もわかりませんので、よろしくお願いします」と医師に全権を委ねていました。
その頃は患者さんが手に入れられる医療情報は限られており、知識格差が大きかったため、患者さんは医師に従わざるを得なかったのです。

それが徐々に患者さんにも情報が入るようになり、それに伴って医療の不確実性が明らかとなって来ました。同時に医療事故がマスコミで頻繁に報道されるようになり、それまでの医療に対する信頼が揺らぎ始めました。「お医者さんに任せておけば大丈夫と思っていたのに、そういうわけでもないんだ」と、人々が感じ始めたのです。

そうこうしているうちに米国から「インフォームド・コンセント」の概念が導入され、医療の在り方が大きく変化することになりました。
「インフォームド・コンセント」については前にもお話ししましたが、適切な訳語がなく、そのまま使われています。直訳すると「情報を提供された上での同意」ということになるのですが、実はその中に様々な要素を含んでいるのです。即ち、まず医療側が診断や治療に関して必要な情報を患者さんにわかりやすく説明をします。患者さんはそれをきちんと理解しなければなりません。その上で提示された治療法などについて自分で考え、納得し、選択・決断し、医療側に同意を与える、あるいは拒否するということになりますが、その一連の過程を「インフォームド・コンセント」と言うのです。
今までは「先生にお任せ」で済んでいたものが、自分で考え、自分で決めなければならなくなったのです。

米国においては、自由民権運動の高まりの中で、自分の権利を守るという意識から必然的に生まれて来たのがインフォームド・コンセントなのですが、日本においては人々の権利意識の高まりからというよりは、医療側が率先して取り入れたという面が大きいと思います。つまり医療というものが不確実で限界があるということがわかったことで人々の間に広がった不安感、不信感をなんとか収めようという医療側の意思が働いたということでしょうか。
その分当初は一般の人々には馴染みが薄く、自分で考えて自分で決めろなんて言われてもなぁ、と戸惑った人がほとんどだったと思います。でも時間をかけて少しずつ浸透し、今では当たり前の概念として受け入れられています(と思うのですが…)。

医療が不確実で限界があり、しかも少なからぬリスクを抱えていることが明らかになった以上、そのことを患者側も引き受けなければならなくなったのです。お医者さんに任せておけば全てうまくいくわけではないのです。医療側と患者側が十分に話し合い、お互いの信頼感を構築し、お互いが納得した形で医療行為を進めていく…、そのためのカギがインフォームド・コンセントなのです。

あなたが病気になって医療機関を受診すると、あなたが望もうと望むまいと、膨大な情報があなたに降り注ぎます。今まで病気なんてしたことがなく、病気の知識など何もなかったところに、これでもか、これでもかと情報が詰め込まれると、たぶんあなたは呆然とするに違いありません。でもここで落ち着いて膨大な情報を自分なりに整理する必要があります。そして疑問な点は医療側にぶつけ、さらに理解を深めましょう。その上で自分はどのような治療を受けたいか考える必要があります。ある病気に対する治療は複数存在するのが一般的です。この病気にはこの治療しかないということはまれです。医療側はあなたの状況を考えてこの治療がいいと提案すると思います。あなたがそれを納得できるのならその治療を選べばいいと思います。でも自分は別の治療を選択したいという希望があるのなら、それを率直に医療側に伝えて下さい。そして心ゆくまで話し合って下さい。医師は医療に関してはプロです。たくさんの知識と情報を持っています。それを上手に引き出し、利用して下さい。このような忌憚のない意見交換ができる関係を築くためのコミュニケーション能力を磨くことが大切です。
その上で治療法が決まったら、あとは医療側と協力しながら治療に取り組みましょう。選んだ治療が100%奏効するとは限りません。うまくいかない場合もあり得ます。その不確実性を許容する必要があります。100%でなければダメだということになると、医療は成り立ちません。結果については全てをあなたが引き受ける覚悟が必要なのです。

表題に掲げた「患者力」というのは、あなたがいい医療を受けるために必要な力なのですが、そんなに難しく考えることはありません。要は自分の病気を人任せにせず、自分のこととして捉えていろいろな知識を習得すること、そして医療側と良いコミュニケーションをとって、お互いの信頼関係を築くこと、それだけなのです。

患者力というものを理解する上で参考になりそうな書籍をご紹介します。表題は挑発的で気に入らないのですが…。

  • 「医者に手抜きされて死なないための患者力」 増田美加 著 講談社
  • 「一流患者と三流患者~医者から最高の医療を引き出す心得」 上野直人 著 朝日新書562

めんどくさいとお思いですか? 確かにそうですよね。私達日本人は信頼できる相手であれば、決断をその人に任せてしまうという面があるようです。
たとえば料理屋でおまかせコースというのがありますよね。あれは欧米人にとっては信じ難いことなのだそうです。自分が食べるものを人任せにして、しかも何が出てくるかわからないなんて、「信じられなぁ~い」ということらしいです。
同様に自分の体に関する医療行為を全部人任せになんてできないというのが欧米人の感覚なのでしょう。
でも一人の日本人としての私は思います。もし医師との間に揺るぎない信頼関係を築くことができて、その医師に自分の命を預けるという覚悟ができるのであれば、その医師にお任せというのもアリなのではないか、と。

 平成28年8月25日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

収入による医療格差への懸念

以前から米国においては収入と平均寿命が相関することが予想されていました。たとえば州別の健康保険カバー率と平均寿命をみてみると、健康保険カバー率が低い⦅即ち低収入のために保険に加入できない人が多い⦆州は平均寿命が短く、健康保険カバー率が高い州は平均寿命が長いというデータが示されています。そんな中で最近、「米国における収入と寿命との関係(The Association between Income and Life Expectancy in the United States, 2001-2014)」という論文が米国医師会雑誌に掲載されました。
それによると、トップ1%の超富裕層の平均寿命は男性87.3歳、女性88.9歳であるのに対して、ボトム1%の最貧困層の平均寿命は男性72.7歳、女性78.8歳で、超富裕層とは男性で14.6年、女性で10.1年の開きがあったとのこと。
さらに調査した14年間で、所得トップ5%の平均寿命は男性で2.34年、女性で2.91年延びましたが、所得ボトム5%は男性0.32年、女性0.04年のわずかな延びにとどまっています。

収入の違いがなぜ寿命に関係するのかは、生活環境などいろいろな要素があるとは思いますが、収入により受けられる医療内容が違ってくる、言い換えれば低所得者は高額の有用な医療を受けることができない、そのために治る病気も治らない、ということも、一つの理由かもしれません。

米国の医療費が高いということは皆さんもご存知だと思いますが、それをカバーする保険は基本的には民間保険です。そしてその保険料は高額で、低収入の人はこれまで保険に入ることができませんでした。またいろいろな種類があって、保険によってはカバーする医療内容に違いがあります。
そんな状況を改善するはずだったいわゆるオバマケアによって、米国民の全てが保険加入を義務付けられましたが、それは日本の国民皆保険とは全く異なります。オバマケアにおいては、米国民それぞれがそれぞれの収入に応じて保険を買うのです(保険に入らないと罰金が科せられます)。低所得者が買える保険では、当然ながらカバーする医療の範囲は限られることになります。オバマケアによる国民皆保険は国民の健康保持のためではなく、民間保険会社の保険販売の道を拡げただけ、と言うのは、言い過ぎでしょうか。

翻って日本の保険制度がどうなっているかを確認してみましょう。
皆さんひとり一人が保険料(個人により額が若干異なりますが、少なくとも米国の保険料よりはずっと低額です)を納めていることはご存知ですよね。その保険料は国が拠出する分と併せてプールされ、保険者(市町村国保、協会けんぽ、健保組合、共済組合)が管理します。あなたが医療機関にかかり、検査や治療を受けることでかかった費用は、一部(原則3割)をあなたが負担し、残りは保険者がプールしてあるお金から医療機関に支払うのです。しかも高額療養費制度というものがあって、自己負担が約8万円(上位所得者の場合は約15万円)を超えた分については保険でカバーされます。また医療機関についても、自分がかかりたいと思うところに自由にかかることができます。保険証1枚さえあれば、収入の多寡にかかわらず、全ての国民が平等に高いレベルの医療を受けることができるのです。
日本の皆保険制度は社会保障としての意味合いが大きいと言えます。

この世界に誇るべき国民皆保険制度が、米国の圧力によって(?)少しずつ変容しようとしています。
今年の4月、患者申出療養制度がスタートしました。これは、欧米では認可されて使われているが日本では認可されていない薬を患者が使いたいと思った時に、特定の医療機関に申し出ることで厚生労働省が迅速に審査をし、その申し出者に限定して使用を認める、というものです。当然自費になります。そしてこれまでの評価療養とは違って、将来その薬が保険に収載されるのかどうか、全く保証はありません。この制度を利用する人は高額の自己負担が可能な一部の富裕層に限られます。あるいは「そのとき」に備えて民間保険に加入する人が増えるかもしれません(これこそ米国の保険会社の思うつぼです)。
そうしてこの制度を利用する人が増えていけば、医療費を減らしたい国としては、無理に保険収載はしないという方針をとることが予想されます。自費で大勢の人が利用できるのであれば、わざわざ国が金を出す必要はないからです。そうなると所得が低くてお金を払えない人はその薬を使うことを諦めざるを得ない…、そして医療の格差が拡大してゆく…。
これまでは所得にかかわらず全ての国民が同じ医療を受けることができたのに、ひょっとすると今後は所得の多寡によって受けられる医療に差が出てくるかもしれない…、ちょうど今の米国のように…。
それは皆さんが望むことなのでしょうか。

「米国の圧力によって」という言い方をしましたが、米国においては医療はビジネスなので、日本進出を目論む米国企業にとっては皆保険制度は邪魔なのです。これまでも米国が日本政府に様々な要求を突き付け、皆保険制度に風穴をあけようとしてきたことが知られています。そして最終兵器ともいうべきものがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)なのです。(ここでは詳しい話はしませんが、関心のおありの方は、堤 未果著:「沈みゆく大国アメリカ」二部作をお読み下さい。)

当たり前と思っていると、その当たり前の大切さが見えにくいのですが、国民皆保険制度も失ってみて初めてその大切さがわかるものなのかもしれません。でもいったん失ってしまったら、取り返しがつかないのです。
今後の医療情勢について、是非皆さんも注意を向けていただきたいと思います。

 平成28年8月4日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

在宅死

自宅で死を迎える人の死亡者全体に占める割合について、市町村別にまとめたデータ(2014年)が厚生労働省から公表されました。人口5万人以上の自治体で最も多かったのが兵庫県豊岡市の25.6%、最も少なかったのが愛知県蒲郡市の5.5%でした。
新潟県についてみてみると、最も多かったのが粟島浦村の40.0%、最も少なかったのが津南町の5.1%でした。新潟市は9.2%、長岡市は12.7%、上越市は12.9%、そして柏崎市は8.9%、刈羽村は16.7%でした。
全国平均は12.8%。因みに同年の病院死の割合は75.2%となっています。
各市町村で差があるのはそれぞれ事情があるからでしょうが、ここではコメントはしません。

ところで国がこのようなデータを公表する意図は、いったいどこにあるのでしょうか。

国は医療費削減のために入院病床を減らすことに必死です。急性期病床がターゲットではありますが、医療需要の少ない患者さんを病院から在宅に移行させることにも積極的です。多くの方が「最期は自宅の畳の上で迎えたい」と願っているのだから、家に帰るのが当然でしょ、というわけです。
家に帰って自立した生活を送れる人であればいいのですが、実際には今療養病床に入院している方達は、他者の介護を必要とする人がほとんどです。その方達が家に帰ったとき、いったい誰が面倒をみるのでしょうか。核家族化が進み、高齢者のみの所帯が増えています。高齢者の一人暮らしがかなり多くなっているのも事実です。昔のように家族の中の誰かが面倒をみるというわけにはいかないのです。
国は医療と介護の連携を謳ってはいますが、現実にはほとんど進展していません。国は政策は掲げても、実際の対応は市町村に丸投げなのです。今回このようなデータを出したのは、在宅医療への対応が遅れている市町村の尻を叩くためだったのでしょうか。

仮に在宅での療養が可能であったとしても、亡くなるときに家族がそのまま自宅で看取るのは、けっこう大変です。まず第一に「自分はここで死ぬんだ」というご本人の固い決意と、「何としてでも私達が家で看取る」というご家族の覚悟が必要です。しかし人の死に慣れていないと臨終間近の様々な症状に不安を抱き、ついつい救急車を呼んでしまいがちです。そういう家族の思いをかかりつけ医や訪問看護師などが支えなければならないのですが、実際にはなかなかうまくいきません。
救急車で病院に運ばれると、病院のスタッフは救命に全力をあげることになりますので、点滴をしたり、場合によっては気管内挿管後人工呼吸器に繋いだり、ということになって、ご本人の意思とは違った形での死を迎えることになります。

自分の死に方を選ぶのは難しいのですが、ある程度の年齢になったら自分はどう死ぬかということを考えておいてもいいのではないかと思います。何も国の意向に左右されることはありません。在宅死でも病院死でも、どちらでも構わないのです。ただし自分の頭の中に置いておくだけではダメです。ご家族とよく話し合っておく必要があります。
もし一人暮らしの場合には、あなたを支えてくれている周辺の人々にしっかりと自分の思いを伝えましょう。できれば「孤独死」は避けたいものです。

死はある意味生の総仕上げと言ってもいいかもしれません。「終わり良ければ総て良し」という言葉がありますが、せっかくの人生を台無しにするような死に方はしたくない…、少なくとも私はそう思っています。

平成28年7月21日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

熱中症の話 その2

6月は急に暑くなり、熱中症で救急搬送される方が続出しました。体が暑さに慣れていないと、急な温度変化にうまく対応できないため、熱中症になりやすいと言われています。
7月に入り、これから本格的な夏を迎えますが、この夏はラニーニャ現象のために猛暑になると予想されています。熱中症には十分ご注意下さい。熱中症の病態や対処法については平成25年7月11日付のコラム54をご覧下さい。

ところで皆さんは「屋内なら熱中症にはならない」と思っていらっしゃるのではありませんか? 実はそうではありません。先日、「熱中症で死亡、9割が屋内」という記事が朝日新聞に掲載されました。その内容をご紹介します。
東京都監察医務院の調査によると、東京23区内で平成23年から27年の5年間に熱中症で死亡した人は365人(男性219人、女性146人)、そのうち約90%にあたる328人が屋内で見つかっていたそうです。その中でエアコンが設置されていたのは160人、しかし138人は発見時に使われていなかったとのこと。
また65歳以上が290人、一人暮らしは203人。死亡推定時刻は日中が142人、夜間が104人となっています。

高齢になると暑さ、寒さの感覚が鈍って来ます。夏の暑い日にもかかわらず、長袖を着て厚着をしているお年寄りって、けっこういらっしゃいますよね。エアコンなんて嫌い、という方もいます。そうなると熱が内にこもって気づかぬうちに脱水状態となり、変だなと思った時には身動きできず、そのまま亡くなられるということになります。周りに誰かいればいいのですが、一人暮らしだと誰も気づいてくれないかもしれません。

熱中症は早期の対応が重要です。病状が進んでしまうと救命は難しくなります。熱中症による屋内での死亡が多いのも、早期に発見されることが少ないためと思われます。
そうなると予防が大切です。できればエアコンを利用して温度調節をすること、どうしてもエアコンは嫌だというのであれば、窓を開けて風が通るようにし、扇風機で風を流すこと。また意識して水分を補給すること。のどが渇いたときはもちろん、のどの渇きを感じなくともまめに水分をとるようにすることが重要です。

人間は確かにいつかはお迎えが来るのですが、交通事故や自然災害、あるいは自分で予防できる熱中症などで、不本意な死に方をすることは避けたいものです。

平成28年7月7日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

「色」の力

私達が目にする周囲のものには、みんな色がついています。空は青く、雲は白~灰色。周辺の田んぼの稲は緑を増しつつあります。それが秋になると黄金色になります。病院の建物は白っぽい色です。いろいろなお店はそれぞれ趣向を凝らして赤、青、緑など、様々な色で自己主張をしています。部屋の天井や壁は白色系がほとんどで、家具は茶系が多いようです。雨上がりの空には七色の虹が美しいアーチをかけます。
色がついているのなんて当たり前、と思いますよね。でも、じゃあ空が青いのはなぜ? 雲が白いのはなぜ? と問いかけられると、きちんと答えられる人は少ないと思います。そんなこと、考えたことない、という人がほとんどですよね。

私達が色を認識できるのは、網膜に錐体と呼ばれる3種類の知覚神経(S錐体:青を知覚、M錐体:緑を知覚、L錐体:赤を知覚)があり、それぞれが知覚した波長が混ざり合って脳に解読されるからです。
太陽や電球やろうそくなどの光源から発せられた光は、物体に当たると一部が通過し、一部が反射します。この反射した光を私達の網膜の知覚神経が感知するのです。ただし人間の目が感知できるのは380~780nmの範囲の波長のみで、これよりも波長の長い赤外線や、逆に波長の短い紫外線は見ることができません。

さて、難しい話はこれくらいにして、色にはそれぞれ特性があることをご存知ですか?
たとえば青。青は自由の象徴であり、また鎮静効果もあるそうです。それ故不眠に悩む人の寝室には青がお勧め。ただし青は憂鬱な気分をもたらす色でもあることから、気分の落ち込みやすい人と朝起きるのが苦手な人には青は禁物。仕事に関しては自由な感性を与えてくれる色なので、何かアイデアを見つけなくてはならない人達に最適、パソコンの画面背景を空色にすると効果絶大、なのだそうです。
他にも「刑務所の独房をピンク色に塗ると、収監者が暴れなくなる」「サッカーの試合では、黒いユニフォームを着ると反則をとられやすい」「ウエイトレスが赤い服を着ると、受け取るチップの額は2倍になる」「暖色の外装の店は、入りたいという気持ちを起こさせる」等々、様々な事実が示されています。ほんとかな、と思うかもしれませんね。でも本当らしいのです。

このような色の持つ力について、学術的な裏付けのもと、詳細に記述された書籍を皆さんにご紹介したいと思います。

◎ ジャン=ガブリエル・コース著(吉田良子訳)「色の力~消費行動から性的欲求まで、人を動かす色の使い方」 CCCメディアハウス発行

是非一度お読みいただければ、と思います。あなたの生活を豊かにし、仕事に役立つアイデア(色の使い方)が見つかるかもしれません。

平成28年6月23日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

専門医志向の落とし穴

医療ガバナンス学会という学会があり、そこが発行しているメールマガジンがあります。その第114号に以下のような内容の文が載りました。

希少がんの一つである肉腫(詳細については不明)の女性患者で、発症後11年が経過、その間にがん専門病院で19回の手術と6回の放射線治療、5クールの抗がん剤治療を受けられたとのこと。徐々に容態は悪化しているようなのですが、今年の1月以降息苦しさが増強したそうです。当初は肺にある腫瘍が大きくなったことが原因かと考えていたのですが、そうではなくて、抗がん剤治療時に使用したアドリアマイシンという薬の心毒性に基づく心不全だったことがわかりました。病状は悪化して、呼吸困難のために一人では立つことも歩くこともできなくなり、友人に車椅子を押してもらってやっとのことで外来を受診したそうです。これに対してがん専門病院がどう対応したか…。利尿剤を処方し、自宅で休養するよう指示しただけだったそうです。入院させなかった理由は、ベッドに空きがないからということと、この病院でできることは点滴だけだから、ということだったそうです。それにしても心不全でアップアップしている患者をそのまま帰宅させるなんて、ちょっと信じ難いことです。当然ながらこの患者さんはその日の夕方、救急病院に搬送されて緊急入院となったそうです。
この患者さんは最後に、「医療者にはもっと患者目線でものを考えていただき、自分の病院で治療ができないのであれば、治療可能な他の病院や医師に早急に繋いていただくなどの対応を、切に希望します」と述べられています。至極当然です。

長年がんの治療(抗がん剤療法)に携わって来た者にとっては、なんとも情けない、残念な話です。
抗がん剤は昔に比べると大幅な進歩を遂げ、また副作用対策も向上してはいますが、今なお様々な有害事象があります。アドリアマイシンによる心筋傷害はよく知られており、用量依存性であるために総使用量が規制されています。しかしその規制量の範囲内でも発症することがあります。有効な予防法はなく、いったん心筋傷害が発症すると、治す手立てもありません。心不全症状をいかにコントロールするか、が鍵となります。

有害事象が問題になるのは何もアドリアマイシンに限ったことではありません。ほぼ全ての抗がん剤に何らかの有害事象が生じ得ると考えて間違いありません。私達がん治療に関わる医師は、抗がん剤の効果はもちろんのこと有害事象にも十分気を配らなくてはなりません。極端な言い方をすれば、抗がん剤を投与するのは、教科書に従えば医学部の学生にだってできるのです。私達がん治療医の役割は、抗がん剤の有害事象をできるだけ少なくする手立てを講じ、もし有害事象が発現した場合には、それに対して適切な対応をすることなのです。もし自分でうまく対応できないのであれば、それができる医師あるいは病院を紹介するのは当然ですし、自分で抗がん剤を扱うことからは手を引くべきかもしれません。冒頭で述べたがん専門病院の担当医は責められてしかるべきです。

最近の医療は複雑化し、専門分化の傾向が顕著です。また患者さん自身も専門医志向が強くなっています。これはこれで必ずしも悪いことではありません。ただし、患者さんが一つの病気だけを抱えている場合に限りますが…。
若い方であればそういうことはあり得るかもしれません。でも齢をとるにつれ、いろいろな病気を抱えることになります。高血圧であったり糖尿病であったり、いわゆる生活習慣病を持つ方が多くなります。がんそのものが生活習慣病の一つですから、がんに罹るということは、他の生活習慣病も抱えている可能性が高くなります。そうなると、がんの治療だけをやっていればいいというわけにはいかなくなります。患者さんが抱えている他の病気にも配慮しながらがんの治療をしなければならないのです。また先述したように、抗がん剤による有害事象にも対応しなければなりません。そのとき「自分はがんが専門だから、他の病気やがん以外のことは知らない」ということになったら、患者さんは戸惑うばかりです。「私の専門外のことについては、別の適切な医師に相談します」とでも言うのであればまだしも、専門外の出来事については関知せずというような医師には、自分を預けることなどできませんよね。

以前、専門医と一般医(総合医)についての話をしたことがありますが、専門医はどうしても「病気」に目が向きがちです。あなたがそれでいいというのであれば話は別ですが、あなたが自分という一人の人間を診て欲しいと望まれるのであれば、普段はいわゆる総合医(現時点では一般開業医)と、「かかりつけ医」としてうまく付き合うことをお勧めします。健康管理も含めていい関係を築き、もしその先生の手に余る場合には適当な専門医を紹介してもらう…、それが一番いい医師との付き合い方だと思います。

現時点で病気と縁のない方には理解しづらいかもしれませんが、病気になってしまった! たいへんだ! それ、大きな専門病院へ! という思考は、実はあなたにとっては損なのです。予め診断がついている場合は別ですが、新たに診断が必要となった場合、あなたのことを何も知らない病院の専門医が、ひょっとしたら自分の専門外の病気かもしれないあなたの病気を確実に診断するのは、実はそう簡単なことではないのです。専門医はけっして全知全能ではありません。それどころか、自分の専門以外のことについては知識不十分なことが多いのです。もちろん例外もありますが…。
普段は身近なかかりつけ医、必要なときには専門医というように、上手に使い分けていただきたいと思います。

私共の病院も基本的には専門医の集まりです。でも特定の病気(たとえばがん、循環器病など)の専門病院ではありません。総合病院としてほとんどの病気に対応しています。がんについて言えば、県から「がん診療連携拠点病院に準ずる病院」の指定を受け、他のがん診療連携拠点病院に劣らぬ医療を提供していると自負しております。
また二次救急を担当する病院なので、当直医は自分の専門外の患者さんにも対応します。そしてそれを可能としているのは普段の情報交換と学習です。都会の大病院とは違ってお互いの垣根は低いですから、疑問や不明なことについては率直に相談し合い、定期的に学習会を重ねて専門外の病気についての知識習得に努めています。もちろん自分の手に負えないと判断したときには、各専門科の拘束医師を呼び出すことになっています。ですから皆さんには安心して当院をご利用いただきたいと思いますが、ただできれば普段はお近くの開業医の先生をかかりつけ医としていい関係を築いていただき、必要なときに当院を利用していただくというのが最も効率的ではないかと思います。
前から申し上げているように、当院は必ずしも医師数が十分とは言えず、みんながギリギリの状態で頑張っているというのが実態です。そんな中で専門医の能力を活かすためには、限られたものを必要なところに集中しなければなりません。なんでもかんでも病院、ということで大勢の患者さんが受診されると、専門医が専門外の病気の診療に追いまくられ、疲弊し、本来の能力を発揮することができなくなる可能性があります。役割分担が必要なのです。

このコラムを書いているのは、皆さんにいい医療を受けていただきたい、そのためには医療というものを知っていただく必要がある、という私の思いによるのですが、如何でしょうか、少しはお役に立っているでしょうか。
今回の話は、必ずしも専門医がベストではないのですよ、ということをお伝えし、皆さんの医療とのかかわり方を考えていただくきっかけになれば、ということが主眼です。
専門医と一般医(総合医)との役割分担がうまくできれば言うことはありません。でも実際にはそれが難しい地域も存在します。柏崎地域においても近くに開業医がいない所があり、病院を利用せざるを得ない方々が大勢います。それはそれで止むを得ないと思います。ただその際には、病院のメリット、デメリットを十分理解していただいた上でご利用いただきたいと思います。

我が国の医療費は年々増加を続け、今では年間40兆円を超えています。国はその抑制に必死です。このままでは日本経済が崩壊するという国の主張には、私自身は必ずしも同調できませんが、このまま無制限に増え続けてもいいというわけでもありません。節約できるところは節約すべきと考えています。
また医療資源には限りがあります。それを皆さんにもわかっていただいて、上手に利用していただかないと、我が国が世界に誇る国民皆保険制度が崩壊する可能性があります。
保険証1枚さえあれば、いつでもどこでも、好きな医療機関にかかれて、それなりのレベルの医療を受けられる今の制度を維持するのか、それとも貧富の差によって受けられる医療に違いの出てくる米国型の医療に移行することをよしとするのか、決めるのは皆さんです。

平成28年6月2日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

血圧計の話

日本高血圧学会から出されているガイドラインによれば、「収縮期血圧が140 mmHg以上、かつ/または拡張期血圧が90 mmHg 以上の場合に高血圧とする」とされています。皆さんが普段口にされる「上の血圧」とか「最高血圧」というのが収縮期血圧、「下の血圧」あるいは「最低血圧」が拡張期血圧です。この基準を満たす高血圧の方が、日本全国で約4,300万人いるそうです。
一昨年の4月、日本人間ドック学会が血圧の基準範囲を提唱し、147/94 mmHgまでは正常としたため、一時期高血圧の診断、治療に混乱をきたしましたが、世界的には140/90 mmHg以上を高血圧とするのが一般的なようです。

血圧を測るには、手術時のように血管内にセンサーを挿入して直接動脈圧を測定する方法と、間接的に測定する方法とがあります。間接法は普段私達が診察時に使っている水銀血圧計によるものと、皆さんが家庭で使っておられる自動式血圧計によるものなどがあります。

水銀血圧計が発明されたのは100年以上前で、現在まで診察室で血圧を測定する際に使われて来ました。血圧の単位がmmHgなのはそのためです。上腕にカフと呼ばれる袋状のベルトを巻き付け、送気球(ポンプ)を操作してカフを加圧します。肘関節屈側中央に聴診器を当て、カフ圧を徐々に下げながらコロトコフ音という拍動音を聴いて血圧を測定します。最初に聴こえる拍動音をコロトコフ音第Ⅰ相といい、この時の血圧が収縮期血圧です。カフ圧を下げ、拍動音が聴こえなくなった時をコロトコフ音第5相といい、この時の血圧が拡張期血圧になります。
一方自動血圧計は、カフ内にマイク等の音響センサーを設置し、カフの加圧、減圧を自動的に行いながら拍動音を感知するというものです。現在では技術の進歩により、精度・信頼性は水銀血圧計と変わらないとされています。ただし、指や手首に巻いて測るタイプは正確性に疑問があり、避けた方がよいとされています。

皆さんは何気なく血圧を測っておられると思いますが、高血圧学会のガイドラインには、こうして測りなさいという測定条件が示されています。
まず診察室での血圧測定の場合は、静かで適当な室温環境で、背もたれ付きの椅子に座って数分の安静後、カフを心臓の高さに維持して坐位で測定する、急速にカフを加圧した後、2~3 mmHg/秒で排気する、1~2分の間隔をあけて少なくとも2回測定する、安定した値を示した2回の平均値を血圧値とする、厚手の上着の上からカフを巻いてはいけない、厚地のシャツをたくし上げて上腕を圧迫してはいけない、聴診者は十分な聴力を有する者で、かつ測定のための十分な指導を受けた者でなくてはならない…。これを全て順守していたら、病院の外来診療は回りません。実際、ほとんどの健診や診療現場では無視されているとのこと。私も一部の患者さんを除いて腹部触診後、仰臥位のままで血圧を測ることがほとんどです。間隔をあけて2回測るようなことはしていません。
じゃあ診察室血圧は無意味なのかというと、そうではありません。若干精度管理に問題はあっても、その時点での患者さんの血圧であることに変わりはなく、事実、自動血圧計が普及する前は、診察室血圧が高血圧症の診断・治療の指標として使われてきたのです。
家庭での血圧測定の場合は、測定環境は診察室での測定と同様で、朝起床後1時間以内、排尿後、服薬前、朝食前、坐位1~2分安静後、1機会原則2回測定し、その平均をとる、と記載されています。皆さんはこの条件を守っていますか? 2回測定するのが大変なら、1回でもいいですよ、ということになっています。また1回目と2回目の測定値に乖離があって、心配だからもう一度測ってみたという場合は、3回の測定値の平均をその時の血圧値とする、とも記載されています。

診察室での血圧測定の精度管理が無視されているせいか、最近は家庭血圧あるいは自由行動下血圧の方が重視される傾向にあります。ただ高血圧の基準が若干下がり、診察室血圧に基づく場合は140/90 mmHgであったものが、家庭血圧では135/85 mmHgとなっています。

このコラムでは「高血圧症」の話はしませんが、白衣高血圧(診察室で測定した血圧が高くても、診察室外血圧は正常)あるいは仮面高血圧(診察室血圧は正常だが、診察室外血圧が高い)の診断のためには、診察室血圧と家庭血圧の両者を測定する必要があります。どちらか一つでいいというわけではなく、両者を上手に組み合わせて利用するべきでしょう。

ところで100年以上使われてきた水銀血圧計ですが、水銀の環境への影響から新たな製造が中止となり、現在使われているものもいずれ回収されることになりました。皆さんの中には医師に水銀血圧計で血圧を測ってもらうことに安心感を抱かれる方もいらっしゃると思いますが、ちょっと残念かもしれませんね。
前回のコラムで人工知能の話をしましたが、血圧測定も将来機械に取って代わられるものの一つと言えそうです。

 平成28年5月19日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

人工知能と医療

将棋においてコンピュータが人間のプロ棋士を破るという話題はかなり以前に報道されましたが、ゲームの中で最も難しいとされる囲碁において、負けるわけがないと思われていた人間の、しかも世界で一番強いとされるプロ棋士が、人工知能「アルファ碁」に完敗し、大きな話題となりました。予想を上回る進化を遂げている人工知能の今後と、将来における人間とのかかわりが、改めて注目されています。
また最近の報道によれば、人工知能は小説を書くこともできるそうです。小説って、作家の創造力がものをいう分野のはずなのに、ホント? という感じです。

昨年12月2日に、株式会社野村総合研究所が、10~20年後には日本の労働人口の約49%が人工知能やロボットで代替可能になるという推計結果を発表しました。それによると、芸術、歴史学・考古学・哲学・神学など抽象的な概念を整理・創出するための知識が要求される職業、他者との協調や他者の理解・説得、サービス志向性が求められる職業は、人工知能等での代替は難しい傾向があり、一方、必ずしも特別の知識・スキルが求められない職業、およびデータの分析や秩序的・体系的操作が求められる職業については、人工知能等で代替できる可能性が高い傾向があるとのこと。(それぞれどのような職業が含まれるのかは、文末の「参考」をご覧下さい。)

さて、では医療はどうなるのでしょうか。野村総研の分析では医師、助産師、リハビリ技士、医療ソーシャルワーカーは人工知能等による代替可能性の低い職業とされています。診療情報管理士や事務員は代替可能性の高い職業とされています。看護師、薬剤師についてはどちらにも記載がありません。しかし現時点でも様々なロボット技術が医療現場には導入されており、いずれ人工知能に取って代わられる部分が出てくることは間違いありません。
患者さんがどういう病気なのか診断することは医師の重要な仕事ですが、この分野はおそらく人工知能の果たす役割が増加すると思われます。実際IBMが開発したワトソンという人工知能の診断正答率は、人間の医師を上回ったとのこと。診断の精度が向上するのはいいことではありますが、人工知能が苦手とし、医師でなければ診断できない分野があることも事実ですから、全て機械任せというわけにはいかないと思います。
また治療に関しても、今のようなガイドラインが重視される状況では、膨大な情報を記憶できる人工知能の方が、人間の医師よりは素早く的確な方針を立てることが可能でしょう。

でも前から申し上げているように、医療は基本的には「人と人」なのです。

ガイドラインやそのもとになっているエビデンスは集団を対象としたものです。集団と集団を比較したときに、こっちの方がよさそうだということであって、全ての人にとって良いというわけではありません。エビデンスを十分吟味した上で、目の前の患者さんにとって最も良いと思われる治療を選択するという作業が、はたしてコンピュータにできるのでしょうか。医療の現場においては、医師の経験と直感がものをいう場面が少なくありません。
また患者さんの中には、「先生の顔を見て、先生の話す言葉を聞くだけで安心します」とおっしゃる方もいらっしゃいます。このような関係を機械との間で築くことができるのでしょうか。

百歩譲ってたとえ医師の仕事が人工知能に取って代わられたとしても、看護師の患者さんに対するケアを、機械が代行することはできないと考えています。患者さんの思い、心に寄り添って手を当てる、これこそが医療の原点だからです。

将来の医療が実際にどうなるのかはわかりませんが、重要なのは機械か人間かの二者択一ではなく、お互いが協力しながら、人間が上手に機械を使いこなすということなのではないでしょうか。

「人間は考える葦である」というパスカルの有名な言葉があります。「人間は葦のようにひ弱なものであるが、思考を行う点で他の動物とは異なっている」という意味です。人工知能がどこまで進化するのかはわかりません。ひょっとすると自分で学習し、創造する能力まで身につける可能性もないわけではないのですが、人間が自ら考えることを放棄しない限り、人間が機械に滅ぼされることはないと信じています。

平成28年4月21日
病院長 藤原正博

【参考① 人工知能やロボット等による代替可能性が高い職業(50音順)

IC生産オペレーター、一般事務員、鋳物工、医療事務員、受付係、AV・通信機器組立・修理工、駅務員、NC研削盤工、NC旋盤工、会計監査係員、加工紙製造工、貸付係事務員、学校事務員、カメラ組立工、機械木工、寄宿舎・寮・マンション管理人、CADオペレーター、給食調理人、教育・研修事務員、行政事務員、銀行窓口係、金属加工・金属製品検査工、金属研磨工、金属材料製造検査工、金属熱処理工、金属プレス工、クリーニング取次店員、計器組立工、警備員、経理事務員、検収・検品係員、検針員、建設作業員、ゴム製品成形工、梱包工、サッシ工、産業廃棄物収集運搬作業員、紙器製造工、自動車組立工、自動車塗装工、出荷・発送係員、塵芥収集作業員、人事係事務員、新聞配達員、診療情報管理士、水産練り製品製造工、スーパー店員、生産現場事務員、製パン工、製粉工、製本作業員、清涼飲料ルートセールス員、石油精製オペレーター、セメント生産オペレーター、線維製品検査工、倉庫作業員、惣菜製造工、測量士、宝くじ販売人、タクシー運転手、宅配便配達員、鍛造工、駐車場管理人、通関士、通信販売受付事務員、積卸作業員、データ入力係、電気通信技術者、電算写植オペレーター、電子計算機保守員、電子部品製造工、電車運転士、道路パトロール隊員、日用品修理ショップ店員、バイク便配達員、発電員、非破壊検査員、ビル施設管理技術者、ビル清掃員、物品購買事務員、プラスチック製品成形工、プロセス製版オペレーター、ボイラーオペレーター、貿易事務員、包装作業員、保管・管理係員、保険事務員、ホテル客室係、ミシン縫製工、メッキ工、麺類製造工、郵便外務員、郵便事務員、有料道路料金収受員、レジ係、列車清掃員、レンタカー営業所員、路線バス運転者

【参考② 人工知能やロボット等による代替可能性が低い職業(50音順)
アートディレクター、アウトドアインストラクター、アナウンサー、アロマセラピスト、犬訓練士、医療ソーシャルワーカー、インテリアコーディネーター、インテリアデザイナー、映画カメラマン、映画監督、エコノミスト、音楽教室講師、学芸員、学校カウンセラー、観光バスガイド、教育カウンセラー、クラシック演奏家、グラフィックデザイナー、ケアマネージャー、経営コンサルタント、芸能マネージャー、ゲームクリエイター、外科医、言語聴覚士、工業デザイナー、広告ディレクター、国際協力専門家、コピーライター、作業療法士、作詞家、作曲家、雑誌編集者、産業カウンセラー、産婦人科医、歯科医、児童厚生員、シナリオライター、社会学研究者、社会教育主事、社会福祉施設介護職員、社会福祉施設指導員、獣医師、柔道整復師、ジュエリーデザイナー、小学校教員、商業カメラマン、小児科医、商品開発部員、助産師、心理学研究者、人類学者、スタイリスト、スポーツインストラクター、スポーツライター、声楽家、精神科医、ソムリエ、大学教員、中学校教員、中小企業診断士、ツアーコンダクター、ディスクジョッキー、ディスプレイデザイナー、デスク、テレビカメラマン、テレビタレント、図書編集者、内科医、日本語教師、ネイルアーティスト、バーテンダー、俳優、鍼灸師、美容師、評論家、ファッションデザイナー、フードコーディネーター、舞台演出家、舞台美術家、フラワーデザイナー、フリーライター、プロデューサー、ペンション経営者、保育士、放送記者、放送ディレクター、報道カメラマン、法務教官、マーケティングリサーチャー、漫画家、ミュージシャン、メイクアップアーティスト、盲・聾・養護学校教員、幼稚園教員、理学療法士、料理研究家、旅行会社カウンター係、レコードプロデューサー、レストラン支配人、録音エンジニア

カテゴリー: 院長の部屋

がん治療における緩和ケア

前回のコラムで、大病院でがんの治療を受けていた患者さんが、種々化学療法で効果が得られず、担当医に「ウチではもうやることがないので、あとはホスピスなどで緩和を」と言われて途方に暮れ、がん難民となる、という話をしました。緩和ケアというものが今なお医療現場では十分理解されていないんだなぁと思わざるを得ません。

緩和ケアの対象は何もがん患者だけではありませんが、ここではとりあえずがんに限定して話をすることにします。

まず皆さんは緩和ケアをどのようにとらえていらっしゃるでしょうか。どこかの大病院の医師が言うような、抗がん剤が効かなくなった後の姑息的な対症療法、即ちターミナルケア? もしそう考えておられるとしたら、それはとんでもない勘違いです。確かに昔はそうとらえられた時期もありました。でもその後のがん治療の進歩の過程で、緩和ケアは、がん治療における基本的部分を占めるものであることが認識されるようになったのです。
平成19年に策定され、24年に見直された「がん対策推進基本計画」においても、「がん患者とその家族が可能な限り質の高い生活を送れるよう、緩和ケアが、がんと診断されたときから提供されるとともに、診断、治療、在宅医療など様々な場面で切れ目なく実施される必要がある」とされています。

今でこそがんの約半分は治る時代となっていますが、昔はがんは治らない病気でした。それが一部のがんを治せるようになったことで、医療側はがんを治すのが当たり前、治せなかったら医学・医療の敗北(私も昔、そう教えられました)、という大きな誤解を抱くようになってしまったのです。がんを治すためにあらゆる手を尽くす、ということになったために、がんという病気を抱えている「患者さん」に目がいかなくなってしまったのです。
手術後に何か生活に支障をきたす事態になったとしても、「命が助かったのだからいいんじゃないの」「そのくらい、我慢しなさいよ」、抗がん剤で患者さんが苦しんでいても、「抗がん剤は副作用があって当たり前」「副作用が強く出るのは効いている証拠」などと強弁し、患者さんの抱える苦痛から目を背けてきたのです。さらにがんが治らないということになると、そのがんを抱えている患者さんそのものに関心がなくなってよそよそしくなる…、残念ながら一時期(ひょっとすると今でも?)そういうことがありました。
でも現在のがん医療においては、患者さんの苦痛を緩和することの重要性が強調されるようになっています。

がんの患者さんは様々な苦痛を抱えます。がんという病気そのものによる身体的な痛みが出ることもあります。今までできていたことができなくなることでのつらさを感じます。高額な治療費に対する不安、家族や仕事への思い、その他諸々の社会的苦痛を感じます。この先自分はどうなるのかという不安、いらだち、恐れ、孤独感を抱き、様々な精神的苦痛を味わいます。生きる意味を自問したりするいわゆるスピリチュアルな苦痛もあります。自身の力だけでこの苦痛から抜け出すことは困難です。私達医療側の人間は、患者さんの様々な苦痛を理解し、患者さんの思いを支えなければならないのです。

そうかといって大上段に振りかぶる必要はありません。実は緩和ケアというのは、「すぐそこにある当たり前の医療」なのです。たとえばかぜをひいて熱がある、のどが痛い、咳が出て夜眠れないなどの症状があれば、解熱鎮痛薬や咳止めの薬を使います(誤解のないように申し上げますが、これらはあくまでも対症療法であって、かぜそのものを治すものではありません)。これは医師であれば普通にできることです。そしてこれが緩和ケアに他なりません。
がんだからといって、特別構える必要はないのです。がんの患者さんが抱える苦痛を理解し、その苦痛を和らげるための知識と技術を持つことは、全ての医師に求められることなのです。少なくともがんの治療に関わる医師であれば、外科医であろうと放射線科医であろうと、あるいは抗がん剤を使う腫瘍内科医であろうと、緩和ケアの知識と技術は身につけておくべきです。そういう知識と技術を持たず、患者さんではなくがんという病気しかみていない医師には、がん医療に携わる資格はないと私は考えています。
ただし、がんの患者さんを医師ひとりで支えるのは困難なので、看護師、薬剤師、臨床心理士、リハビリ技士、医療ソーシャルワーカーなど、様々な職種が、その時々に応じて関わる必要があります。病院によっては「緩和ケアサポートチーム」を組織しているところもあります。当院にもあります。

緩和ケアの本来のあり方を理解しているならば、「ウチではもうやることがないので、あとは緩和へ」というような言い方はけっしてしないはずです。このような言い方をするからそれを聞いた患者さんは、「ああ、自分は放り出されて、もうすぐ死ぬんだ」と絶望してしまうのです。
医療の役割って何なのでしょうか。病気を治すというのも確かに一つの役割ではあると思います。でもそれだけではなく、病に苦しむ患者さんと共に歩みながら、患者さんの希望を支えることも大切な役割で、そしてむしろこちらの方が重要なのではないかと私は考えています。病気を治すことが希望だと言われてしまうと、それを支えるのは難しい場合もありますが、たとえ病気が治らなくとも、患者さんは何らかの希望を持っているはずです。それを支えることであれば、私達も少しはお役に立てるのではないか…、そんなふうに考えています。

緩和ケアが特別視される理由の一つに緩和ケア専門医、ホスピス、ビハーラ、緩和ケア病棟の存在があります。これらの意義を否定するわけではありませんが、一般の人々にとってはちょっと違和感を覚えるものかもしれません。緩和ケアを提供する特別な施設というのはどうやら日本独特の考え方のようで、欧米では在宅での緩和ケアが一般的と言われています(もちろん施設ホスピスもないわけではないのですが…)。病院の医師から「では、あとは緩和ケア病棟へ」と言われると、今までとは違った何か特別なことをやることになるのか、と考えてしまうのは当然かもしれません。

緩和ケアが特別視されるもう一つの理由、それは一般の方々(および、ひょっとすると一部の医療者)のモルヒネに対する過剰な意識です。モルヒネ=麻薬=末期=中毒になって頭がおかしくなる、というのがたぶん一般の方々のイメージではないかと思います。
モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルなどのいわゆる麻薬は、実はとても優れた鎮痛薬なのです。がんの痛みは普段の診療で使われる一般的な鎮痛薬ではうまくコントロールできない場合があります。そんな時、麻薬は役に立ちます。日本では痛みを我慢するのが美徳のように考えられてきた面がありますが、がんの痛みは我慢しても何のメリットもありません。死ぬまで痛みはとれませんし、強い痛みはその人の人格を崩壊させることさえあります。強い痛みに苦しんで早くあの世に逝きたいと言っていた患者さんが、痛みがとれたことで生きる意欲を取り戻すこともあります。痛みを我慢するのは損なのです。
欧米ではかなりの量の麻薬が使われていますが、日本での使用量は少ないままです。患者さんの苦痛を和らげるために、もっと積極的に使う必要があります。欧米ではがん以外の病気による痛みのコントロールにも使われています。
痛みに対してモルヒネを使うことで中毒になることはありませんので、ご心配なく。

がんという病気になった時、治る可能性がある場合は頑張って治す努力をしましょう。もちろん、高齢などの理由で治すために苦しい思いをすることを望まない方もおられるかもしれませんので、それはそれでその方の意思を尊重すべきです。
がんが治らないとなった時、まずその事実を受け止めることが必要です。けっして「がんになってお先真っ暗」ではありません。人間には寿命があるのですが、それまでは意識しなかった死を意識し、残された人生の中に自分なりの希望を見出し、充実した時間を過ごすことは、けっして絵空事ではありません。大事なのはがんという病気につぶされず、がんと共に自分らしく生きることなのです。私達医療者は、そんなあなたを全力で支えます。緩和ケアはそのための一つの技術であり、けっして特別なものではないのです。

モルヒネによる痛みのコントロールを例に挙げましたが、がん患者さんは他にもいろいろな苦痛を訴えます。吐き気や嘔吐、下痢、便秘などの消化器症状、呼吸困難や咳などの呼吸器症状、そして様々な精神的苦痛…。緩和ケアはそれらに対しても対応する術を有しています。

緩和ケアはすぐそこにある当たり前の医療です。何も肩肘張って構えるようなものではないのです。がんの治療を受けているあなたと共にあることをご理解いただければ幸いです。

平成28年4月7日
病院長 藤原正博

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がん難民を生み出すもの

前回のコラムでEBM(Evidence-based medicine~根拠に基づいた医療)の話をしました。ちょっと難しかったかもしれませんね。でもエビデンスのみにこだわると、表題に掲げたがん難民を生むことになりかねません。

最近よく耳にするのは、大病院でがんの治療を受けていた患者さんが、種々化学療法で効果が得られず、担当医に「ウチではもうやることがないので、あとはホスピスなどで緩和を」と言われて途方に暮れた、という話です。
大病院には大勢の患者さんが治癒を求めて集まりますから、治癒を望めない患者さんをいつまでも置いておけないというのが大病院の言い分でしょう。でも患者さんにしてみれば、それまで治ることを期待し、信頼していた大病院から引導を渡され、放り出された、という思いになるのも当然だと思います。
なぜこのような事態が起こるのでしょうか。大病院側にもいろいろ事情はあるのでしょうが、原因の一つはエビデンスへのこだわり過ぎ、そしてもう一つは国の医療政策の問題(役割分担、効率化)ではないかと私は考えています。

がんの治療は手術、放射線照射、化学療法(抗がん剤治療)が三本柱です。それぞれの役割、治療全体に占める比率は時代とともに変わって来てはいますが、今なお重要な地位を占めることは間違いありません。(近藤 誠氏のように一切のがん治療を否定される方もいますが、ここでは言及しません。)中でも化学療法の最近の進歩は著しいものがあります。
場合によっては三本柱を組み合わせることもあります。

抗がん剤には様々なものがありますが、使う側が好き勝手に使っていいというわけではありません。現在の化学療法には、がんの種類に応じて「標準療法」というものが設定されています。これはエビデンスに基づいた現時点で最も効果が期待できる治療法ということです。言い換えれば現時点での最良の治療法ということになります。標準ということは、さらに上のプレミアム治療があるのかとお考えになるかもしれませんが、けっしてそうではありません。
ただ、誤解のないように申し上げておきますが、標準治療で全てのがん患者さんが治るわけではありません。いくつかの治療法の中で、他の治療法に比べてより有効で、有害事象も少ないものが標準治療とされているのであって、効く人もいれば効かない人もいるのです。人によっては他の治療法の方が効くという可能性もあります。
標準治療もたった一つということではなくて、いくつかの選択肢があるのが普通です。

がんと診断され、化学療法が必要となったときにはまずファーストラインの治療として標準治療が選択されます。それで十分な効果が得られない場合にはセカンドラインの治療、さらにはサードラインの治療と進みます。ただこの辺りまで来ると、治癒を望むことは難しくなります。それ故大病院は「ウチではもうやることがない」と言うのでしょうが、医療側としてできることはいくらでもあります。治すことは叶わないにしても、がんの進行を抑えたり、緩やかにしたり、あるいは苦痛緩和のための対応をしたり…。お互いの信頼関係ができているのなら、患者さんの傍にいて話を聞くだけでもいいのです。これらの対応にはひょっとするときちんとしたエビデンスはないかもしれません。でもエビデンスがないからできない、やってはいけないということではないのではないか、と私は思うのです。エビデンスは重要です。でも医療はそれだけではないと思うのです。

エビデンスがないと切り捨てるのは簡単です。でも大学病院やがんセンターなどの専門病院は、標準治療では効果の得られない患者さんに対して、じゃあそのあとをどうするのか、ということを考えるべきではないでしょうか。
がん診療連携拠点病院が整備されたことで、国の言うがん治療の「均てん化」(どの地域でも同レベルの治療を受けられる)はある程度達成されつつあります。今や余程変わった医師でなければがんの化学療法に際してはまず標準治療を選択します。大学病院やがん専門病院が標準治療だけやって、効かなくなったらハイ、サヨナラでは、専門病院としての意味がないのではないでしょうか。標準治療の効果が得られなくなった時こそ新たな治療法開発に向けて、試行錯誤を繰り返す、そして新たなエビデンスをつくり上げる、それこそが専門病院の使命ではないのでしょうか。

患者さんの側にも考えていただきたいことがあります。医学・医療には限界があり、残念ですが全ての病気を治すことなどできません。がんについて言えば、せいぜい治せるのは半分です。現時点でのベストの治療を行ったにもかかわらず治癒が望めなくなった場合にどうするのか、そのことを是非考えておいていただきたいのです。
限りなく治癒にこだわり続けると、結局苦しむだけということになりかねません。あるいは風評に流されて、いわゆるがん難民ということになります。
何が何でも治すために命を賭けるというのなら、私も反対はしません。それがその人の生き方なのでしょうから。でも最期の最期まで抗がん剤治療を続けると、身体がボロボロになります。苦しんで苦しんで、結局は亡くなっていくという方がほとんどなのです。

大病院の対応を批判する文章を書いてきましたが、たぶん大病院も医療の効率化という国の締め付けのもと、心ならずも患者さんを追い出すような形をとらざるを得ないのだろうと思います。でもそうであればそれまでの間に患者さんとよく話をして、がん難民をつくり出さない努力をすべきだろうと思います。

エビデンスは集団と集団との比較で導き出されたものです。でも医療は基本的には「個」が対象です。そのあたりの兼ね合いがとても難しい。何が何でもエビデンスではなく、目の前の患者さんにどう対応するのが一番いいのかを考えてみる必要があると思います。実はそれが本来のEBMなのですが…。

 平成28年3月24日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

エビデンスとEBM

エビデンスというのは「証拠」とか「根拠」という意味です。EBMというのは「Evidence-based medicine (科学的)根拠に基づいた医療」のことです。皆さんも言葉くらいは耳にされたことがあるかもしれませんね。

今の医療はEBM全盛で、何かというとエビデンス、です。医療行為の実践にあたっては、その行為が患者さんにとって有用であるという裏付け(つまりエビデンス)が必要なのは当然です。私達がやっていることはなにもそれぞれが勝手に思いつきでやっているわけではありません。それなりのエビデンスに基づいてやっているのです。問題はそのエビデンスの質です。

最も質の高いエビデンスは「ランダム化比較試験」とされています。ある治療の有効性を証明するために、その治療を受ける人と受けない人をコンピュータなどで全く無作為に決定し、治療効果を比較する方法です(このランダム化比較試験を複数まとめたメタ解析と呼ばれる研究が、さらに上位に位置付けられています)。
次が「非ランダム化比較試験」。治療を受けるグループと受けないグループに振り分ける際、何らかの理由で無作為に割り付けられない場合です。
三番目が分析疫学的研究の「コホート研究」と呼ばれるものです。コホートというのは集団のことですが、ある集団において病気に関係のありそうな項目を予め調べておいて、その後どのような違いが出てくるかを追究するという研究方法です。
分析疫学的研究にはもう一つあって、「症例対象研究」と呼ばれます。病気の人達と病気でない人達との間で、たとえば過去の生活でどんな違いがあったのかを比較して、病気の原因を探るというような研究です。
五番目が「記述研究」と呼ばれるもので、一人ないしは数人の患者さんについて詳しく記述した症例報告がそれに当たります。
最も質が低いとされているのは、患者データに基づかない専門家個人の意見です。

かつては疾患の病態生理を解明し、その理解に基づいた治療が最善であると考えられていたのですが、必ずしも実際の臨床効果には結びつかないことがわかりました。たとえば心筋梗塞の患者は致死的な不整脈を伴って突然死をきたす可能性が高いので、不整脈を有する場合には予防的に抗不整脈薬を投与し、突然死を防ぐのがよいと考えられていたのですが、ある臨床研究で抗不整脈薬投与群の方が投与しない群よりも突然死が多いという結果が示されたのです。これによりEBMの重要性が認識され、心筋梗塞患者への抗不整脈薬投与は慎重に適応を検討するという方向になりました。
つまりそれまでの「なんとなく正しそうな」治療から、エビデンス(臨床試験の結果)に基づいた治療に方向転換をしたのです。

ただし、医師がひとりで全てのエビデンスを収集することなど不可能ですので、各専門学会がそれぞれの専門分野の診療に関するエビデンスを網羅的に収集して分析し、診療ガイドラインを作成して学会員に提供しています。一部は学会員以外にもインターネット上で公開されています。

じゃあ診療ガイドラインに従って患者さんの治療をしていれば、即ちそれがEBMで、問題がないのか、というと必ずしもそうとは言えないのです。
エビデンスは患者をグループに分けて結果を比較したもので、必ずしも個々の患者を識別して得られたものではありません。つまり統計上の平均値に過ぎないのです。たとえ同じ病名であっても、それぞれの患者で年齢、性別、生活環境、習慣は異なり、病状も一人ひとり異なります。「この薬は◇◇病に効果がある」というエビデンスがあったとしても、それが自分にも効くという保証はないのです。あくまでも平均値ですから、当てはまる人が多いのは確かですが、当てはまらない人もいるのです。
実際の治療にあたっては、効果だけではなく副作用の危険性、医療費の負担、患者さんの価値観など、多くの要素を考慮する必要があります。
患者さんによってはとてもよく勉強しておられて、「自分の病気には〇〇がいいと本に書いてありましたので、是非それを使って下さい」とおっしゃる方がいます。でもEBMを理解している医師であれば、はい、そうですか、とはけっして言いません。その○○が本当にその患者さんにとって有用なのか、十分検討する必要があるからです。その結果○○はその患者さんには合わないと判断すれば、患者さんのご希望に沿えない場合もあります。

おわかりでしょうか。エビデンスは良い医療を提供するための一つの大切な情報ではあるのですが、それが即EBMというわけではないのです。エビデンスは臨床研究の結果、EBMは一人ひとりの患者に対して何が一番良いのかを検討する、実際の医療現場での行動様式なのです。

最近の若い医師でこのあたりのことを誤解している人もいるようです。「この薬はあなたの病気に効くというエビデンスがあるので、あなたにはこの薬を使います」というのは、EBMではないのです。こういうエビデンスがあるという情報を提供した上で、あなたと一緒にあなたにとって一番いい医療が何なのかを考えてくれる医師、そんな医師だといいですね。

でも実際には医師は忙しすぎて、十分な時間をとって皆さんと向き合うのが困難なのが現状です。また皆さんも医師にいろいろ質問をするのは申し訳ないと思っていらっしゃるのか、ほとんど質問をされません。基本的に医師は皆さんにとって何がいいのかを考えながら診療をしていますので、皆さんが今の自分の状況に満足していらっしゃるのであればそれでいいのですが、もし何か疑問を感じるようなことがあった場合には、是非担当医に訊いてみて下さい。病気はあなた自身のものです。あなたが納得のいく医療を受けられることを願っております。

平成28年3月3日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

感情表出とコントロール

アンガーマネジメントという言葉をご存知ですか? アンガーは怒り、マネジメントは対処とか制御という意味です。日本アンガーマネジメント協会という組織があって、そこが「アンガーマネジメント大賞2015」というものを発表しました。

それによると「上手に怒りの感情をコントロール・対応した有名人」第1位はプロサッカーの三浦知良選手。以下大塚家具代表取締役社長の大塚久美子氏、アーティストのGACKT、ラグビーワールドカップ日本代表、フィギュアスケートの浅田真央選手と続きます。
三浦選手の話はご存知の方が多いと思いますが、野球評論家の張本 勲氏が某テレビ番組(あの「あっぱれ!」とか「喝!」とかいうやつです)で、「若い選手に席を譲ってやらないと…」と引退を促すようなコメントをしました。それに対して三浦選手は、「『もっと活躍しろ』って言われているんだなと思う。『これなら引退しなくていいって、オレに言わせてみろ』ってことだと思う」と穏やかに対応しました。自身が感情をコントロールして対応することで、怒りの感情をむやみに連鎖させなかった点が高く評価されたとのこと。
GACKTが選ばれた理由については私は知らなかったのですが、彼がフランスでレストランに入った時、アジア人用の特定の席に座らされるという人種差別にあったのだそうです。その際彼は、店員に対して「大きな声で、わかりやすく理由を説明してくれ」と笑顔で抗議をしたとのこと。上手に感情をコントロールし、毅然と自分の意思を伝えた点が評価されたようです。

一方「怒りの感情をコントロールできずに、失敗してしまった有名人」第1位は、あの「ナッツ姫」、元大韓航空副社長チョ・ヒョナ氏が選ばれています。第2位は大塚勝久氏、第3位は森 喜朗氏、第4位は橋下 徹氏、第5位は佐野研二郎氏の順です。

人間は怒りだけではなく喜びや悲しみなど様々な感情を抱きます。場合によってはその感情を率直に表現することも大事なのですが、怒りをストレートに相手にぶつけるのは、必ずしもいい結果を招きません。
特に医療現場において患者を中心としたチーム医療を実践するためには、それぞれが自分自身の感情をコントロールすることが求められます。いつも心穏やかでいたいとは思っても、現実にはなかなかそうもいきません。腹立たしいことはいくらでもあります。でもその都度その怒りを爆発させていたのでは、人間関係はうまくいきません。グッとこらえることも必要です。
しかしただ我慢するだけではストレスがたまります。怒りの感情が湧いたときに、ちょっと時間を置き、自分は何に怒っているのか、その原因は何なのか、自分にも問題はないのかということに思いを馳せ、相手の気持ちにも配慮することができれば、口に出す言葉も変わってくるでしょうし、対応も違ってくるのではないかと思います。

とは言っても実際には難しい。私みたいに短気で、考えていることがすぐ顔に出るようだと、周囲の人との良好な関係を築くのはたいへんです。昔に比べれば少しは感情のコントロールができるようになったかなとも思うのですが、かなり周囲に迷惑をかけているのではないかと反省しています。

怒りはあまり表に出さない方がよさそうですが、悲しいときは遠慮なく涙を流す方がいいと私は思っています。
かつて医師は患者さんが亡くなったときに涙をこぼしてはいけないと教えられました。でもけっしてそんなことはない。患者さんやご家族と一緒に病気と闘い、なんとか治って元気になってほしいと願っていたその願いが叶わず、患者さんが亡くなられたとき、医師は例外なく深い悲しみを覚えます。そんなとき、ご家族と一緒に涙を流すことが、なぜいけないのでしょうか。もちろん亡くなり方によってはいかにも大往生で、みんなが笑顔で見送る場合もありますが、悲しいときには涙を流す、それが人としては当たり前の感情表現なのではないかと思います。
特にご家族の場合、悲しみを無理に押し込めてしまうことは、けっしていいことではありません。泣きたいときにはしっかりと泣くことが、その後の悲しみとの付き合い方にもいい影響を及ぼすのです。
よく周囲の人が「いつまでも泣いてばかりいないで、早く元気を出して」という励まし方をしますが、これはやめましょう。むしろしっかり泣く方が大事で、周囲の人にはそれを暖かく見守っていただきたいと思います。

喜びを爆発させるという言い方をしますよね。確かに誰かが喜んでいる姿を見ると、自分もうれしくなります。
高校野球で長打を放った選手が塁上でこぶしを突き上げる動作をしばしば見せます。その気持ちはわからないでもありません。でも、ちょっとなぁ、という思いもあるのです。高校野球は教育の一環、なんて言うと古臭いと非難されそうですが、でもただ勝てばいいというわけではないということには賛同していただけるのではないかと思います。勝ちたい、甲子園に行きたいという思いは元高校球児としてはよく理解できます。勝負事ですから負けるよりは勝つ方がいい、確かにそうですね。でも勝負事の中にあっても、相手に対する気遣いというのは必要なんじゃないかな、と思うのです。打たれた投手はどういう思いでいるのでしょうか。ちょっとだけでもそういう気遣いを見せてくれれば、と思うのは、甲子園の土を踏めなかった者のひがみでしょうか。

平成28年2月18日
病院長 藤原正博

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7対1看護基準を取得します

前から申し上げているように、医療は「人と人」、いい医療を提供するためには「人」が必要です。しかし当院は仕事の内容に比し、医師、看護師、薬剤師などのスタッフが不足しています。少ない中でなんとかいい医療を提供しようとみんなが頑張っているのですが、行き届かない部分があり、皆さんにはご迷惑をおかけしているかもしれません。お詫び申し上げます。

柏崎刈羽地域の基幹病院として、それに相応しい体制を整えたいと厚生連本部と協議を重ねて来たのですが、これまでは厚生連全体の人手不足のため、なかなか実現できないままでした。
ここにきて漸く厚生連の他病院からの応援を得て、看護体制だけは7対1看護基準を取得することができるようになりました。医師、薬剤師については不足のままです。
7対1看護というのは、単純に言うと、1日24時間を平均して患者さん7人に対して看護師1名が勤務しているということです。たとえば50床の病棟の場合、最低でも7人の看護師が日勤で必要になります。そして24時間3交替制なので、7×3=21名の看護師が必要です。さらに休暇をとる人がいたり、病欠だったりする人もいますので、実際にはもっと多くの看護師が必要になります。

今まで当院は10対1という看護基準でしたが、それを7対1にするためには国が指定する様々な条件をクリアしなければなりません。7対1看護基準に相応しい業務内容であることを、国に示さなければならないのです。
人が増えれば当然人件費も増えます。病院の収入はほとんどを診療報酬に依存していますので、増えた分は診療報酬の増額で補填してもらわなければなりません。実際10対1よりも7対1の方が診療報酬は高く設定されています。医療費削減に躍起となっている国は、できれば7対1の病院は減らしたいと思っており、認定条件を厳しく設定しているのです。
そんな中で当院はこの2月から看護師を増員して7対1の体制をとり、その実績をもって3月から国の認可を受けたいと考えております。これで漸く実際の業務量に見合った人員を配置できそうです。

ただ国の意向は、7対1の看護基準をとるのであれば、急性期病院としての使命をきちんと果たしなさいよということなので、急性期治療を終えて退院が可能となった場合には、速やかに退院していただく必要があります。7対1看護基準取得の条件の一つに、「平均在院日数18日以内」というのがあるからです。この4月の診療報酬改定により、さらに短縮される可能性もあります。かつてのように「病院でのんびり」とはいかない時代なのです。もともと国は「在宅」を推進していますので、7対1に付けられた条件もその流れの中でのものということになります。

病院に入院すると、特に高齢者の場合はどうしてもベッド上で寝て過ごす時間が長くなり、筋力が低下します。病気はよくなって退院OKなんだけれど、歩けなくなってしまった、ということがしばしばあります。そのために入院が長引くことになります。私は患者さんには寝ていないで歩くようはっぱをかけています。優しくないな、とご不満の方もいらっしゃるかもしれませんが、筋力を落とさず家に帰るためには、とても大事なことなのです。もちろん安静が必要な場合は別です。
病院は生活の場ではありません。病気が良くなったら自宅に戻るのが一番!
しかしみんながみんな歩いて自宅に帰れるわけではなく、慢性期病院に移ったり、施設に入所したりする方もおられます。ところが現状では病院を退院したあとの療養の場の整備が十分とは言えず、それをどうしていくかが喫緊の課題です。
都会であれば急性期病院と療養のための病院をはっきり分けることも可能かもしれませんが、柏崎を含め地方の病院においては、クリアカットに分けることが難しいのが実情です。そのため、必要な治療は終了したにもかかわらず、入院を続けざるを得ない場合もあります。核家族化が進んだ現代では、自宅で家族がめんどうをみるというのも容易なことではありません。施設に入所するにしても、すぐには入所先が見つからないのが現状です。

高齢者にとっては生きづらい時代、と言ったら言い過ぎでしょうか。いかに財政上の問題があるとはいえ、これまでの日本の経済成長の原動力となってきたいわゆる団塊の世代の人達、あるいは戦争で苦労された方達に対して、もう少し国として暖かい手をさしのべることはできないのでしょうか。

平成28年1月28日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

自分で考える

皆さん、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

長年女子サッカー界を牽引して来た澤 穂希選手が昨年末引退を表明、その最後の試合となった皇后杯決勝戦では、自らヘッディングシュートを決め、1対0でアルビレックス新潟レディースを降し、INAC神戸を優勝に導きました。
その澤選手が現役を引退したことで、女子サッカー日本代表チームなでしこジャパンの佐々木則夫監督が危機感をあらわにしています。
サッカーはピッチ(フィールド/グランド)上では11人がプレーするチームゲームです。ひとりだけ優れた選手がいても、他の選手に力がなければチームとして戦い、勝つことはできません。逆にスター選手ばかり集めても、それぞれが協力し合わなければチームとしては機能しません。ひとりひとりが役割を分担し、さらに全体をまとめるリーダーがいることで、チームは力を発揮するのです。
サッカーに限らず、野球もラグビーもバスケットボールも、そして他の全てのチームゲームがそうだと思います。
なでしこジャパンの選手達ひとりひとりは優れた能力の持ち主であることは間違いありません。でもこれまでは澤 穂希というカリスマ的な力を持った選手が中心にいて、周りの選手達は彼女に引っ張られてきたという面があることも事実です。実際澤選手は、周りの選手達に、「苦しいときは私の背中を見て」と言い続けて来たそうです。
その澤選手が抜けることで、なでしこジャパンはどうなるのでしょうか。佐々木監督は言います。今後は選手ひとりひとりがそれぞれの能力を高めなければならない、と。そしてひとりひとりが自分で考えなければならない、と。自分で考え、他の選手の思いを理解し、チーム全体としての意思疎通を図る必要があるというわけです。澤 穂希というスーパースターが抜けた穴を埋めるためには、チーム全体のレベルアップが必要なのです。

ひとりひとりが自分で考えるというのは何もサッカーに限ったことではありません。「チーム=組織」という見方をすれば私の職場である病院もそうですし、皆さんがお努めになっていらっしゃるそれぞれの会社だって同様です。もっと大きな単位で考えれば、私達は柏崎市や刈羽村、新潟県、そして日本という国の一員であるわけですから、市・村民、県民、国民として、ものを考えなければならないのです。

現在の医療の基本的理念は「インフォームド・コンセント」です。医療側には十分な説明をすることが求められ、患者側はその説明をよくきいて、きちんと理解し、自分で考え、選択・決断し、そして医療側に同意を与える、という一連の過程を言います。しかし欧米人とは違ってどちらかというと「寄らば大樹の陰」あるいは「親方日の丸」的な傾向の強い日本人にとって、自分で考え、自分で決めるという行動は苦手なようです。
相手を心底信頼し、自分の命を預けてもいいと考えるのなら、全てお任せというのも一つの考え方でしょう。でも実際には100%信頼を置ける相手なんてそうはいません。自分で意思表明をせずに全部お任せということになると、任された側に謙虚さがあればいいのですが、そうでないと「黙って俺のいうことをきいていればいい」となって暴走する可能性があります。

このことは何も医療に限りません。私達は市・村民、県民、国民としても自分で考え、意思表示をする必要があるのではないかと思います。

一部大企業の業績が好調であることが伝えられる反面、高齢者、女性、子供の貧困が話題となり、格差が広がっていることがうかがわれます。かつて「一億総中流」と言われた時代がありましたが、遠い過去のものとなってしまいました。今後の日本はどういう方向に向かうのでしょうか。米国のように1%の超・富裕層が国の経済や政治を支配する社会になるのでしょうか。政府は「一億総活躍社会」なるスローガンを掲げていますが、あまりに現実とかけ離れているような気がしてなりません。
安倍首相が言うトリクルダウン説(民間企業が強くなって経済が活性化すれば、初めは一部の資産家や企業に富が集中するが、そのうちそこから社会に広く富がしたたり落ちて、国全体が豊かになる)が、現実のものとなるとはとても思えません。実際米国では富はしたたり落ちず、富の偏在が進み、貧富の差が拡大したとのこと。経済が成長すれば、本当に国民は幸せになるのでしょうか。
今後の日本を考えるのは政治家ではなく、私達自身なのです。自分のため、そして将来を担う子供たちのために、自分で考え、意思表示をしてみませんか。
人口減少問題、安全保障問題、エネルギー問題、社会保障問題、農業と食の安全の問題、憲法と立憲主義の問題など、考えなければならないことはたくさんあります。
8月には参議院議員選挙、10月には新潟県知事選挙、12月には柏崎市長選挙、刈羽村長選挙が予定されています。私達の1票はささやかな1票ではありますが、大事な1票でもあります。きちんと権利を行使したいものです。

医療分野における今年最大の注目点は「地域医療構想の策定」です。年々増加する医療費をどう抑制し、今後の人口減少を踏まえてどう病床を再編するか、各都道府県単位で検討が始まっています。
新潟県は若干遅れていますが、いずれ県全体の大枠が決まり、その後各地域毎の話し合いが行われることになります。問題はその「地域」です。国は二次医療圏を想定しているようですが、私は反対しています。新潟県の今の二次医療圏は範囲が広すぎて、その中で医療再編が行われるとしたら、多くの地域住民に対する医療サービスが低下することは目に見えているからです。柏崎刈羽地域は、これまで通りこの地域内での完結型医療を維持しなければなりません。私は常々そう申し上げてきているのですが、この機に皆さんにも是非この地域の医療の在り方を考えていただきたいと思います。
柏崎市、刈羽村は長岡市、見附市、小千谷市、出雲崎町と一緒になって二次医療圏を構成しています。急性期医療に対応する大きな病院は長岡市に位置し(急性期医療を担う病院は、二次医療圏に一つか二つあれば十分、と厚生労働省の官僚が発言しています)、当院はちょうど小出病院のように規模を縮小して回復期病床主体の病院となる…、それで皆さんは了解できますか?
私がいくらひとりで「柏崎地域はこの地域での完結型医療が必要」と力んでみても、皆さんがそう思わないのであれば、当院が現状を維持し続けることは困難です。要は地域の皆さんがどういう医療を望み、どういう医療を必要と考えるのか、全てはそこにかかっているのです。

年頭の挨拶で私は職員に話をしました。病院の医療はチーム医療であり、それぞれがプロとしての自覚を持って、どういう医療を提供すべきか、自分で考えてほしい、病院は地域の方々に利用してもらって初めて存在価値があるのだから、どうすれば地域の方々に当院を利用してもらえるのか、それぞれで考えてほしい、と。
私達はこれからも地域の皆さんに「いい医療」を提供していきたいと思っています。そのために私達は努力を続けますが、皆さんにも手を貸していただきたいのです。柏崎刈羽地域完結型の医療を実践していくために、何か皆さんにもできることはありませんか?
また、当院に対しての要望がございましたら、是非お聞かせ下さい。

 平成28年1月7日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

今年1年の終わりに

東5階病棟は、小児科・内科・眼科の混合病棟です。内科は内分泌・糖尿病内科・血液内科・呼吸器内科・消化器内科等の混合病棟です。生まれたての赤ちゃんから時には100歳をこえるお年寄りの方が入院することもあります。病棟内も社会の人口構図の縮図のように、少子高齢化が顕著に表れており、これからの社会がどのようになっていくか不安を感じます。
最近、糖尿病の教育入院された患者さんが、退院される時に「5年前に入院した時と比べてずいぶん病院も変わったね よくしてもらった ありがとう」と言ってお帰りになりました。スタッフ一同その言葉に感謝しつつ、更によい看護が提供できるよう心がけてまいりたいと思います。
今年も残りわずか、皆様の健康をお祈りしつつ、次の年が平安な年であることを願っております。

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今年のクリスマスはアンパンマンの飾りつけでした。

 

 

 

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まぼろしのキャラクター食いしん坊くんです。
小児科岡田副院長そっくり食いしん坊君は、いつも岡田副院長の白衣胸ポケットにいるよ!

 

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病棟のよう怪ウオッチ・・・  まだまだ人気です

 

 

 

 

東5階病棟 師長 大倉里美

カテゴリー: 看護部の部屋

「いい医療」を受けるために

平成23年4月に始めたこのコラムも、いよいよ100篇目となりました。ご愛読(していただいているかどうかはわかりませんが)に感謝申し上げます。

このコラムを書き始めたのは、混沌とした医療情勢の中で、皆さんに満足のいくいい医療を受けていただきたい、そのためには医療というものを知っていただかなければならない、という思いからだったのですが、果たしてどれだけお役に立てたでしょうか。

医療はもともと不確実で限界のあるものです。またリスク(危険性)もあります。そんな中で医療を実践するためには、患者側と医療側とのお互いの信頼関係を構築することが必須です。

自分は死なない、病気にはならないと考えている人は論外ですが、逆に病院にかかれば100%正しい診断がついて、100%治ると思うのは、幻想でしかありません。もちろん医療の力により治せる病気もあります。しかし全ての病気を治せるわけではありません。場合によっては思わぬ合併症や事故のため、寿命を縮めることもあります。医療には不確定要素が多く、やってみなければわからないという部分が多々あるのです。
こんな話をすると、不安になる方もいらっしゃるかもしれませんね。でも皆さんにいい医療を受けていただくためには、事実を事実として理解していただかなくてはなりません。認識のギャップを埋める必要があります。私達医師が皆さんの病気を治すために努力をするのは当然ですが、私達は全知全能の神ではありません。皆さんが私達に「完璧」を求めても、私達はそれにお応えすることはできないのです。

皆さんが「いい医療」を受けるためのカギ…、それはまず第一に、人間には寿命があり、年齢とともに身体は弱り、そしていつか必ずお迎えが来るということを理解すること。そして病気をせずに生涯を終えることなどあり得ないので、どこかで病気になるかもしれないことを自覚し、自分の身体に注意を向けること(たとえばがんの場合、早期の段階で何らかのサインがあることが多いと言われています)。健診を上手に利用して、病気の早期発見を心掛けること。医療が必要になったときにはプロとしての医師他医療スタッフに敬意を払いつつ、人として対等な、いい人間関係を築くこと。医療の限界を知り、過度な要求・期待をしないこと。病気を治そうという強い意思と、きっと治るという希望を持つこと。治癒を望めない場合は、病気と上手に付き合いながら、毎日を大切に一生懸命生きること。
口で言うのは簡単ですが、実際にはなかなか難しいことばかりですね。

101篇目は来年1月の予定です。今後も皆さんと一緒に医療を考えるために、様々な内容で話をさせていただくつもりです。
皆さんにとっても、また私達にとっても「いい医療」を提供すべく、スタッフ一同心を合わせて努力をして参りたいと思います。

かぜ、インフルエンザの時期となりました。どうかご自愛下さい。よいお年をお迎え下さい。

 平成27年12月10日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

病気に対する差別意識

この11月から外科外来北側に化学療法センターをオープンしました。これまで、内科、外科、泌尿器科でバラバラに行われていたがんの外来化学療法を、一か所にまとめ、患者さんにより良い環境で治療を受けていただくためのものです。
ところがある患者さんから苦情が寄せられました。「これでは自分ががん患者であることが周りに知られてしまう。」というものでした。入口に「化学療法センター」と掲示してありますので、そこに出入りするとなると、確かにそうかもしれません。患者さんの中には自分の病気を人に知られたくないとお考えの方もいらっしゃるので、そのあたりの配慮不足についてはお詫びしなければなりません。とりあえず入口付近に観葉植物を置いて、「化学療法センター」という掲示が目立たないようにいたしました。

がんに限らず、自分の病気のことを他人に知られたくないとお考えの方は確かにいらっしゃいます。でも、何故なのでしょうか。もちろん病気は他人に誇るようなものではありませんし、わざわざひけらかすようなものでもありませんが、そうかといって隠さなければいけないものでもないはずです。
病気を隠したがる最大の理由、それは周囲の人々の病者に対する差別意識なのだろうと私は考えています。その最たるものがハンセン病であり、水俣病であったわけです。差別意識の根底にあるのは病気に対する「無知」と、自分だけは病気にはならないという「勘違い」。

人はいつか必ず死を迎え、そしてほとんどの人が死ぬまでの間に何らかの病気に罹ります。自分だけ病気にならないということはあり得ないのです。にもかかわらず、大勢の人々は自分だけは死なない、自分だけは病気にはならないと思っているように見えます。

がんという病気は昔から差別の対象となって来ました。でも考えてみて下さい。今では二人に一人はがんという病気に罹ると言われる時代です。今は元気そうに見えても、あなただっていつかがんという病気になるかもしれないのです。たとえあなたはならないにしても、あなたの家族や友人・知人ががんという病気に罹るかもしれないのです。そうなったときに、周りから差別されることに、あなたは耐えられますか? その差別を受け入れることができますか?

戦争で戦う兵士ならば、病弱な人は役に立たないといって切り捨てられるかもしれませんが、一般社会は戦場ではありません(ビジネスの世界は戦場に例えられることもあるようですが…)。そこで暮らす様々な人々が互いに手を取り合い、助け合って生きて行くことこそが大切なのではないでしようか。病気や障害を持った人々を切り捨てるような社会に、けっして明るい未来はないと思います。

がんという病気がなぜ差別の対象となるのでしょうか。死ぬ病気だから? 苦痛が強く、周りで見ているのも気の毒だから? 他に何か理由がありますか?
死ぬ病気は他にいくらでもあります。がんだけが特別視される理由はありません。否、がんは最近では半分は治る時代です。「治らない病気」というイメージは変わりつつあります。
「がんサバイバー」という言葉があります。サバイバーというのは「生存者」という意味で、「がんで死ぬはずだったのに運よく生き残った人」というイメージの言葉で、私は嫌いです。がんは死ぬ病気と思われているから、このような言葉が出てくるのでしょう。
がんの患者さんが様々な苦痛を抱えるのは事実です。でもそれも緩和ケアの知識・技術の進歩、定着により、かなり和らげることができるようになっています。昔のように耐え難い痛みにもがき苦しんで亡くなるというようなことはないのです。
今、がん患者の社会復帰がうまくいかないことが問題となっています。せっかく治療を終えて状態がよくなっても、前の職場が受け入れてくれない、あるいは新たに職を探そうとしても、がんを患っていたということで就職を拒否される、等々。
また化学療法を外来で受けながら仕事を続けたいと思っても、会社からはそれとなく肩たたきをされるとかいう話もあります。

病気である、ないを別にしても、社会には様々な人がいます。そのことを認め、お互いに尊重し合うことで初めて、社会が成り立つのではないでしょうか。こうでなければならない、そこから外れた人は排除するという考え方が如何に危険であるか、今更私が言うまでもないことです。

ここまで私がこのコラムを執筆してきた一番の理由は、皆さんに医療というものを知っていただきたい、そして医療と上手に付き合っていただきたいという思いからです。あえて病気そのものの解説は避けて来ました。病気は多様性に富み、同じ病名がついていても、その病状は患者さん一人一人みんな異なるからです。教科書的な記載はある程度役には立ちますが、あくまでも一般論です。あなたに当てはまることもあるし、当てはまらないこともあるのです。
今何らかの病気に罹っておられる人は、是非ご自身の病気を理解するための努力をして下さい。病気を理解するためにはそれなりの勉強が必要です。自分の身体のことなのですから、全部人任せというわけにはいきませんよ。勉強をして、その知識を基に、担当医と話をして下さい。そしてあなたにとって一番いい治療を選択して下さい。

もし可能なら、自分の病気のことを周りの人々に伝え、できることはやり、できないことは手を貸してもらうという形をとれないでしょうか。確かに勇気がいることですね。周りの人々が理解してくれなければ、あなたがつらい思いをするだけかもしれません。
でも、いつまでも病気を隠さなければならない社会が続くことは、あなたにとっても、またいつか病気になる人にとっても、いいことではないと、私は思うのですが…。
がんもそうですが、喫緊の課題は認知症への対応です。認知症という病気は地域全体での対応が求められます。医療機関にかかれば済むというものではないからです。認知症こそ周りに病状を伝え、周りの人々の手を借りなければならない病気なのではないかと思います。そのためには周りの人々が認知症という病気を理解しなければなりません。そして、ひょっとしたらいつか自分も、という思いを持って患者さんに対応することが求められるのではないかと思います。

病気でない人が、自分もいつか病気になるかもしれないという思いを持って、病気、そして病者に対して暖かい手をさしのべる社会、そんな社会が実現するといいなぁ、と思っています。

 平成27年11月12日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

看護について語り合っています!

西4階病棟は、外科、泌尿器科、皮膚科、歯科の混合病棟です。さまざまな病気を抱えた方が入院してこられます。治療や看護も多岐に渡り、多くの経験をさせてもらうことができ、やりがいのある病棟です。
同じ部署で働いている人が、どんな経験し、何を大切にして看護を行っているか知り合うために今年度から週1回、「看護を語る会」と称し、自分の忘れられない看護体験を語り合う場を設けています。語ってくれたスタッフの知らない一面に触れることができ、毎回ワクワクしながら参加しています。
10月、市内の高等学校の米山登山が行われました。市外の病院から当院に就職してくれたスタッフが救護ボランティアとして参加してきました。「柏崎の人が、米山を大切に思っている気持が分かった気がします」と嬉しい一言!
米山は標高993m、佐渡弥彦米山国定公園に指定されており、新潟県の代表的な名山と言われている本当にきれいな山です。山頂までは途中、ブナ林を抜け、ややきつい登りもありますが、柏崎市街を見下ろし、空と日本海の境界が溶け込み幻想的な風景や、佐渡を見渡すことができます。
旅行やスポーツなど、思い思いの休日は心と体をリフレッシュし、感性を磨きます。そしてまた患者に寄りそった看護を行い、素敵な経験を語り合っていきたいと思います。

西4階病棟 金泉まゆみ

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カテゴリー: 看護部の部屋

外来棟を増築しました

外来棟増築工事が終了し、11月4日から運用を開始します。これまでの工事期間中、外科外来を受診された方および入院中の患者さんには騒音でご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。

さて、増築された建物ですが、1階はがん化学療法センターと新型インフルエンザ等特別な感染症に対応する外来診察室、2階は健診センターと一部は医局、看護部長室などの管理部門となっています。

がんは最近では慢性病の一つとして捉えられており、もちろん治る可能性のあるものに対しては入院の上徹底的な治療が行われますが、治癒を望むことが難しい場合には、患者さんのQOL(生きることの質)を維持しながら病勢のコントロールを図る、というのが一般的な考え方です。
がんの治療は手術、放射線療法、化学療法(抗がん剤治療)が主体です。近藤 誠氏のようにがんの治療は無意味で放置すべきという論を唱える人もいますが、ここではその真偽は置いておきます。少なくとも私はがんの治療の有用性を認識しています。
最近の抗がん剤の進歩は著しく、かつては有害事象ばかり目立って効果を疑わざるを得ないものが多かったのですが、分子標的薬を中心とする今の抗がん剤は違います。もちろん副作用はないわけではありませんが、以前よりはずっと有用性を増しています。
白血病や悪性リンパ腫などの造血器腫瘍は抗がん剤治療により治る可能性があります。しかし残念ながら多くの固形がん(胃がん、大腸がん、肺がんなど)は抗がん剤だけで治すことは困難です(それ故早期発見が重要ということになります)。しかし延命効果はあります。ただしどこかで抗がん剤が効かなくなる時期がありますので、どこまで治療を続けるのか、その見極めが大切です。効果がないのに抗がん剤治療を続けることは、体力を奪ってQOLを低下させ、寿命を縮めることになります。抗がん剤治療はそのやめ時が重要なのです。

これまでは抗がん剤治療を行うためには入院が必要と考えられていましたが、副作用対策の進歩もあって、外来でも十分可能となりました。また先述したようにがんは慢性病と考えられ、治療も長期にわたることが多いので、できるだけ日常生活を維持しながら治療を継続することが求められるようになりました。今では大勢の方が外来で抗がん剤治療を受けておられます。
当院でも以前から内科、外科、泌尿器科の各科それぞれで外来化学療法が行われて来ましたが、必ずしもいい治療環境であったとは言えず、患者さんにはご迷惑をおかけしておりました。今回各科別々であった外来化学療法を一か所にまとめ、ゆったりした環境で治療を受けていただくべく、化学療法センターを増築いたしました。専従の看護師を配置して、患者さんの様々なご相談にも対応したいと思っております。

2階には健診センターを配置しました。これまでは受診者の皆様に病院の検査部門をあちこち動いていただかなくてはならず、またきちんとした更衣室もない状況で、ご迷惑をおかけしておりましたが、今後は内視鏡検査以外の検査はセンター内で実施することができるようになります。
受け入れ能力の問題で、当院の人間ドックを希望される方全てのご要望にはお応えできないのですが、今後はできる限り一日の受診者数を増やせるよう、努力をして参りたいと思います。

健診については前にも申し上げたことがありますが、是非目的意識を持って受けていただきたいと思います。すなわち、自分の健康の維持・管理に役立てて下さい。高血圧、糖尿病などのいわゆる生活習慣病は、あなた自身の努力によりコントロールが可能です。受けっぱなしはダメです。健診の結果をどう活用するか、それが大事です。また一つ一つの数字に一喜一憂することはやめましょう。極端な異常値については精密検査が必要になりますが、正常範囲から少しずれた程度なら、経過をみることで十分です。もちろん気になるようであれば、別に医療機関を受診して医師にご相談下さい。大切なのは毎年健診を受けて、異常とされた結果の経過をみることです。私達人間はロボットとは異なります。検査の数値は変動するのが当たり前なのです。その変動が正常範囲のものなのかあるいは異常なのかは、医師が判断することになります。
それともう一つ、これも前に述べたことがありますが、自分は大丈夫と思って健診を受けたら異常を指摘された、そんなはずはない、と動揺される方がいます。たとえば便潜血検査で陽性となり、大腸がんの可能性があるので精査を受けて下さいという通知を受け取り、頭が真っ白。大腸の内視鏡検査を受けるにも予約が何か月も先と言われて、心配で心配で…。結局は痔だったことが判明しても、ストレスで体調を崩してしまった、などということがないわけではありません。何もないことを健診で確かめたいという気持ちもわからないわけではありませんが、生涯病気にはならないという人はそうはいません。いつか自分も病気になるかもしれない、健診はそれを早くみつけるため、という思い(あるいは覚悟?)で受けていただければ、と思います。

当院の名称を「刈羽郡総合病院」から「柏崎総合医療センター」に変更した理由の一つは、将来は消化器病センター、循環器病センター等を設置し、既存の糖尿病センターも含め、各種疾病に対する診療の充実を図りたい、それぞれのセンターを集約したものが「総合医療センター」、という思いからだったのですが、今回の化学療法センターと健診センターも、その構想の中に位置付けられるものです。
今後も市民の皆様の健康を守るために、職員一同心を合わせて努力して参りたいと思います。

 平成27年10月29日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

イグ・ノーベル賞って…

今年のノーベル賞が発表され、大村 智氏が医学・生理学賞を、梶田隆章氏が物理学賞を受賞しました。地道にコツコツと努力を積み重ねて来られたことに対して、心より敬意を表します。
毎年有力候補に挙がっている作家村上春樹氏は、残念ながら今年も文学賞受賞はなりませんでした。

皆さんはノーベル賞についてはもちろんご存知だと思いますが、では「イグ・ノーベル賞」については如何でしょうか。
イグ・ノーベル賞というのは、「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられるもので、1991年に創設されました。もちろん本家のノーベル賞をもじったものであることは間違いありません。
同賞には工学賞、物理学賞、医学賞、心理学賞、化学賞、文学賞、経済学賞、学際研究賞、平和賞、生物学賞などの部門があり、これまでに世界中の大勢の方々が受賞しています。日本人は1992年に「足のにおいの原因となる化学物質の特定」という研究に対して資生堂研究員が医学賞を受賞したのが最初です。
その後様々な日本人研究者が様々な賞を受賞しています。おもしろいものをいくつかご紹介しましょう。

1999年に牧野 武氏が「夫のパンツに吹きかけることで浮気を発見できるスプレーを開発した功績」に対して化学賞を、2003年に廣瀬幸雄氏が「ハトに嫌われた銅像の科学的考察(兼六園内にある銅像にハトが寄り付かないことをヒントに、カラス除けの合金を開発)」に対して化学賞を、2012年に栗原一貴氏と塚田浩二氏が「自身の話した言葉をほんの少し遅れて聞かせることで、その人の発話を妨害する装置を発明したこと」に対して音響賞を、2014年に馬渕清資氏他北里大学グループが「床に置かれたバナナの皮を、人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究」に対して物理学賞を、そして今年は木俣 肇氏が「キスやセックスによりアトピー性皮膚炎やアレルギー性鼻炎の患者のアレルギー反応が弱まることを示した研究」に対して医学賞を、それぞれ受賞しています。
いろいろな人が、いろいろなところで、いろいろなことを研究しているんだなぁと驚かされます。中にはこんなことを研究して何の役に立つの?と思うようなものもあるのですが、研究者にとってはそれなりの意味、理由があるのでしょう。凡人には考えの及ばぬところです。
何か疑問を抱き、その疑問を解決するために研究をし、答がみつかるというのが研究者としての醍醐味なのでしょう。そしてその研究成果が社会の役に立てば言うことなしなのだろうと思います。でもそうそううまくはいきません。成功よりは失敗の方が多いと思います。失敗にめげずに信念を貫き通す…、それが研究者にとって大切なことなのだろうと思います。そしてそれを見守る周囲の人々の暖かい目が必要です。すぐに成果が出ないような研究は金の無駄遣いだからやめろ、となったのでは、けっしてノーベル賞受賞には結びつきません。

ちょっと話は変わりますが、少し前、文部科学省が全国の国立大学に文系学部の廃止を求める通達を出したとのこと。教育学部や文学部などの学部は経営効率化のために切り捨て、理系学部に予算を投じて、企業の求める人材養成に沿った学部の充実を図るべきだということのようです。私は耳を疑いました。何を馬鹿なことを、と思いました。これに対して日本学術会議が反対声明を出しました。当然です。国はいったい何を考えているのでしょうか。大学の役割って何なのでしょうか。単に企業に対して人材を供給する機関でしかないのですか?

医学部は一応理系とされています。確かに生物学や化学の知識は必要です。そして解剖学や生理学、薬理学、病理学などを学びながら人間の構造を理解していきます。その上でさらに臨床医学の知識を身に着けていくことになります。でも医師として約40年の経験を積んできた今思うのは、医師、特に臨床医にとっては、文学や社会学や倫理学あるいは哲学といった、むしろ文系に属する学問的知識と素養こそが必要なのではないか、ということです。医療は人と人です。医師は患者の身体の仕組みだけではなく、心や人間性を理解しなければなりません。生物学や化学、数学などいわゆる理系の知識だけでは、人間を理解することはできないのです。
教育は人を豊かにし、社会全体を豊かにするもののはずですが、このままでは効率性のみが優先される偏ったものになってしまうのではないだろうか…、そんな危惧を覚えます。

話を戻して研究についても、様々な人が様々なテーマで研究をすることに意味があるのであって、すぐに社会に(というよりは企業に)役立つことを目的にした目先のものだけを追求するようになっては、研究のレベルダウンは避けられないのではないかと思います。
今回イグ・ノーベル賞の話をしたのは、世界的に脚光を浴びるノーベル賞の陰に、地道に研究を続けている人々がいて、効率的ではないかもしれないけれど、それらが社会の発展を支えているのだということを、皆さんにわかっていただきたかったからです。

医学領域においても多くの様々な研究が行われています。その成果が論文として公表されますが、医学・医療に変革をもたらすような画期的なものはごく一握りでしかありません。多くの研究はほとんど人の目に触れることなく埋もれてしまいます。しかし一見無駄であるかのような研究が、後日重要な発見に結びつくということがあるのです。
今研究に取り組んでいる人達には、一時の流行に惑わされず、信念を持って自分の道を歩んでほしいと思います。

平成27年10月15日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

慢性腎臓病セミナー in柏崎2015

8月30日(日曜日)あいにくの雨の中、慢性腎臓病セミナーが開催されました。
通常、健康な人でも加齢と共に腎臓機能は低下していきます。そのため、生活習慣を見直し、新たな国民病といわれている「慢性腎臓病」を可能な限り予防・啓蒙活動により抑えていくことが必要です。
講義では、一般的に注目されている「塩分」について医師・栄養士より講演がありました。話題になったのは、「お漬物」や「お味噌汁」・「ラーメン」といった皆さんの食卓に多く上がる献立です。その他にも濃い味や外食時の塩分表示の見方などの説明があり、会場からたくさんの質問がありました。
はたして、参加された方はあれから「減塩」「食塩1日6g」されていますか?
私は、減塩することで、3大疾患への危険性も低下し結果ダイエットにもなる事を改めて実感しました。
現在、「味が薄いから、美味しくない」を「体を大切に長持ちさせる」「季節の繊細さをわかる人になる!」へ置き換え日々を過ごしています。いずれ常用している血圧の薬がいらないと言われる日を目標にしています。
高血圧は、人生の長さを決める大きな要因になっていると文献で読んだことがあります。
侮れない病気です。時折外来で、「大きな病気はありませんが、血圧の薬は飲んでいます」と話されていますが、大きな病気の入り口です。
皆さんも自分の体と相談しながら、適正な量や味付けでより長く楽しい時間を過ごしていただきたいと思います。

透析室師長 武田文子

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カテゴリー: 看護部の部屋

日本語を大切にしましょう

最近、ある企業では社内の公用語を英語にしたとのこと。また某大学医学部では、教授回診やカンファレンスを全て英語を使ってやっているそうです。私達の母語である日本語を使わずに、英語をコミュニケーションの手段とするメリットはどこにあるのでしょうか。

世界には様々な言語があります。人種としては中国人が最多ですので、中国語を話す人が世界で一番多いのかなと思うのですが、中国語にもいろいろあるようです。
政治やビジネスの世界では、どうやら英語が共通言語となりつつあるようです。かつて英国が世界各地に植民地をつくり、英語を広めたというのが基礎にあるのでしょうが、最近はむしろ米国の「力」が背景となっているような気がします。

グローバリズムとかグローバリゼーションという言葉をお聞きになったことがあると思います。地球主義とか国際化などと訳されますが、これは資本主義が生き残るための必然的なものとされています。どういうことかというと、現在の世界経済の主導権を握っている株式会社は、右肩上がりの経済発展を前提としたものであるからです。先進国においては自国内の右肩上がりの経済膨張は終わりをつげようとしており、株式会社としては、自らの存続を賭けて、右肩上がりの成長を期待できる「未開地」へ乗り出していくことになるからです(「グローバリズムという病」平川克美、2014年)。
米国が盛んにグローバリゼーションを謳うのは当然で、日本でも主として大企業の経営者達が、需要の低迷している日本国内ではなくて、アジアなど他の国々に販売ルートを拡げて自分達の利益を増やそうとしている、そのための掛け声がグローバリゼーション、と言うと、怒られるでしょうか。
経済に疎い私が言うのもなんですが、グローバリゼーションを成功させるためには共通の言語が必要で、それが英語であれば米国にとっては好都合ということなのでしょう。世界(というよりは米国)の動きに遅れをとりたくないと考える日本企業のトップ達が、英語に習熟することを求めるのは当然なのかもしれません。

このような財界の思惑を受けて、政府は小学校低学年からの英語教育を導入しようとしています。その試みが今後の日本社会にどのような影響を及ぼすのか、想像もつきません。母語である日本語をきちんと身につけ、さらにその上で英語を使いこなせるのであれば、いうことなしなのでしょうね。でもそんなことが可能なのでしょうか。
言葉はお互いのコミュニケーションのための手段です。私達日本人は日本語で話をすることで、お互いの意思疎通を図ります。相手が米国人であれば止むを得ず英語を使います。でもその際、全く抵抗なく、苦労することなく英語を使いこなせる人がどれだけいるでしょうか。いわゆる帰国子女で、子供のときから英語環境に身を置いていた人ならいざ知らず、日本にいて、米国人同様に英語を使いこなせるだけの能力を身につけるのは至難の業です。かなりの努力と時間を要します。たぶんそれが可能なのは、それなりの能力を持った一部の限られた人達になるであろうことは、想像に難くありません。そうなると、その一部の人達がグローバリゼーションの主導権を握って有利な立場に立ち、他の人々はその人達の言いなりにならざるを得ない…、その結果、格差が拡大する…、そんな指摘もなされています。
また言葉はその国の文化と密接に関連しています。もし日本が英語圏に組み込まれるとしたら、日本語を基盤として築かれてきた日本文化が変質、崩壊していくことは、避けようがないと思われます。

さて、前から度々申し上げているように、医療は「人と人」です。医療側と患者さん側とのお互いのコミュニケーションが最も重要です。良好なコミュニケーションのためには言葉が必要です。以心伝心というわけにはいかないのです。お互いの母語、即ち日本人であれば日本語で話をすることにより、お互いを分かり合えるのです。
ただその日本語も、最近大きく変貌しつつあります。もともと方言もあって、地域外では意味が通じないという言葉もあるのですが、それとは別に、若者達の間で頻用される短縮語や、英語の語句をカタカナで置き換えて使ってみたり、一見英語のようだけど実は和製英語だったり、使い慣れた人でないと理解できない、つまりコミュニケーションが成り立たないような日本語が出回っているのです。
医療現場においても、医療従事者の間では当たり前の言葉ではあっても、一般の方々には理解できないものがあります。私自身はできるだけ皆さんにわかりやすい言葉を使っているつもりですが、ついつい専門用語が出てしまうことがあります。他の医師が患者さんやその家族と話をしているのを聞いていて、これでは患者さん・家族には伝わらないのでは、と思うこともあります。いくら一生懸命話しても、その内容が相手に伝わらなければ意味がありません。不確実な医療行為の実践にあたっては、相互理解が重要で、後で何か問題が起こった時に、そんなことは聞いていない、いや、きちんと話したはずだ、となったのでは、お互いに不幸です。

英語を公用語とすることを考える前に、日本語をもっと大切にするべきなのではないか…、私はそう思っています。

そういえばこんな話を聞いたことがあります。日本人は日本国内で英語で話しかけられると、何とか英語で答えようとしますよね。それが日本人の優しさなのかもしれませんが、フランス人の場合は自国内で英語で話しかけられると、たとえ英語を理解していても返事をしない、と。何も意地悪だからではなく、フランスにいるのならフランス語をしゃべるのが当然でしょ、ということのようです。
私達日本人も、もっと母語に対するこだわり、誇り、自負心を持ってもいいのではないでしょうか。

 平成27年9月17日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

“タイちゃん”誕生

今年度、看護部キャラクターを募集したところ4名の応募がありました。看護部管理会議で討議の結果、キャラクターは“タイちゃん”に決定いたしました。

海の柏崎の鯛茶漬けは、全国どんぶり選手権でグランプリを獲得しています。
そこで、柏崎地域唯一の急性期総合病院として“タイ”にちなんだキャラクターが誕生しました。

私たちは、柏崎総合医療センター理念を“タイ”で行動に結び付けていきます。
1.患者さんが最善の医療を受けられるように努力していきタイタイちゃん4
2.温もりのある医療を提供していきタイ
3.患者さんの知りたいと思う気持ちを大切にしていきタイ

 

そして、看護部理念の
患者さんの立場に立ち思いやりのある看護を提供していきタイ・・・
と考えています。

“タイちゃん”は、看護部の思いを伝えるキャラクターとしてこれから活躍していく予定です。みなさんからの応援をよろしくお願いします。

 部長室

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カテゴリー: 看護部の部屋

産科医療崩壊の危機!

まず地域住民の皆様にお詫びをしなければなりません。先日当院のホームページに掲載いたしましたが、心ならずも当院での分娩を制限させていただかざるを得ない事態となってしまいました。
当院では年間350件前後のお産を2名の常勤産婦人科医で扱って参りました。週1回は新潟大学からの応援を得ておりますが、ほとんど毎日のように拘束され、休みも満足にとれないような状況でここまで頑張ってきました。もともと当院ほどの規模であれば、産婦人科医は最低でも3名は必要なのですが、新潟県のみならず全国的な産婦人科医不足のため、増員が叶わぬまま現在に至っております。そしてこの度、事情により常勤医が1名となり、今まで通りにお産を扱うことが不可能となってしまいました。当面は新潟大学から短期間交替での応援をいただけることになっておりますが、今後の体制については不透明です。
お産に限りませんが、地域の皆様の医療上のご要望にお応えすることが当院の責務と考え、ここまで努力してきたつもりですが、結果的に皆様にご心配、ご迷惑をおかけすることとなってしまい、申し訳なく思っております。心からお詫び申し上げます。
医師不足という私個人の力ではどうにもならない問題が根底にあるため、楽観的なことは申し上げられませんが、なんとか従来通りの体制に戻すべく、努力をして参りたいと思っております。

日本全体の医師不足の中でも、産婦人科医(特に産科医)の不足は深刻です。新たに産婦人科医を志す若い医師も年々減少しているようです。長時間労働を余儀なくされること、訴訟リスクが高いことなどが、その理由として挙げられています。これに対して日本産科婦人科学会は、この6月に「産婦人科医療グランドデザイン2015」を作成、現状の評価をした上で今後の方向性を示しています。
要は分娩取扱病院の集約化。それによって産婦人科医の勤務条件を改善し、産婦人科を専攻する若手医師を増やしたい、ということです。同学会の小西郁生理事長が、産婦人科医療改革公開フォーラムの席上、「(医師の)ワークライフバランスの保証が大事であり、そのためには『どの市町村でもお産ができる』という考え方は捨ててもらいたい」と発言しているように、主眼は医師の処遇改善であり、住民のお産についての希望は全く考慮していません。

かつては自宅での出産が当たり前だったのですが、1970年代以降はほとんど全てが病院・診療所での出産となっています。特に最近は高齢出産が増え、リスクが高いために、医療機関できちんと管理しなければならないケースが多くなっています。
皆さんはお産は安全だと思っていらっしゃるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。妊産婦死亡は日本では出生10万当り3.9人(2011年)ですが、英国は5.0(2010年)、米国は18.7(2008年)で日本の5倍です。日本だからこそ比較的安全にお産ができるのです。それに貢献してきたのが産科医なのです。でもその産科医が足りない!
このまま産科医不足が改善されなければ、産科婦人科学会が言うように、分娩取扱病院を集約化する方向に進むのは避けられないかもしれません。問題はどういう形で集約するのかということです。

今、医療全体が機能分化、役割分担を求められ、これから各都道府県ごとに地域医療構想が策定されることになります。たぶん産科医療もその中に組み込まれることになると思います。国の意向は二次医療圏単位での医療の再編成なのですが、前から申し上げているように、新潟県の地理的条件を考慮すると、今の二次医療圏は広すぎます。柏崎地域は長岡市、見附市、小千谷市、出雲崎町と一緒になって一つの二次医療圏を構成しているのですが、柏崎市街から長岡市の病院までは30km以上の道のりがあり、高速道路を使っても1時間弱かかります。冬、雪が降れば、もっと時間がかかります。郊外にお住まいであれば、さらに時間がかかることになります。産科も含めて救急医療は時間との勝負です。悠長に構えてなどいられないのです。
もともと今の二次医療圏は、東京などの都会を念頭に、人口約20万程度を目安に、ということで決められたもので、新潟県も国の意向に沿って平成18年にそれまでの13から7つに減りました。当然ながら一つの医療圏は広大となり、細かい医療サービスを提供することが困難であることは、想像に難くありません。二次医療圏を変更したのは47都道府県中わずか8県で、他の都道府県は住民サービスに支障が出るとのことで、従来通りとしています。本当は見直しが必要と思われる都道府県ではなく、なぜ新潟県が率先して変更したのか、私には理解できません。
新潟県は二次医療圏の見直しをするつもりはないようなので、せめて地域医療構想策定にあたっては二次医療圏にこだわらず、住民への医療サービスという観点で考えてほしいと思っています。

産科だけではなく、耳鼻咽喉科、眼科、胸部外科の常勤医が不在で、市民の皆様にはご迷惑をおかけしておりますが、当院としてはなんとか皆様のご要望にお応えすべく、職員一同、一丸となって努力して参りたいと思っております。どうかよろしくお願い申し上げます。

 平成27年8月27日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

はじめまして感染管理認定看護師の徳原伸子です。

感染管理とは急性期病院、慢性期医療施設、外来クリニック、透析センター、外科センター、在宅医療など医療を提供する場にいる患者・家族・訪問者や医療従事者など全ての人を医療に関連した感染から守るための組織的な活動のことを言います。感染管理認定看護師の役割は、多職種と協働しながら、医療に関連した感染の予防と管理を推進することです。地域の皆様に安心して柏崎総合医療センターを利用していただけるよう、さらに病院のスタッフも安心して仕事ができるようにするのが私の仕事ともいえます。

徳原伸子さん

病院のスタッフは手袋やエプロンをしていますよね。採血の時にも手袋、おむつを交換する時にも手袋。どんな時に着けるのかというと、汗以外の体液など(便・尿・痰・傷・粘膜など)を取り扱う時、触る可能性がある時は手袋やエプロン、マスク、ゴーグルなど必要に応じて着けています。これは私たち病院のスタッフを守るためだけではありません。患者さんや家族の方を守るためにも必要なことです。「この患者さんは感染症があるから、この患者さんはインフルエンザだから・・・」というように検査にたよって感染予防を行うと、私たちの知らない未知の感染症や潜伏期間中の感染症に気が付かずに感染が拡がってしまうかもしれません。そのため汗以外の体液(便・尿・痰・傷・粘膜など)は感染性があるものだ!と思って対応すれば、他の患者さんのところに病院スタッフが病原菌やウイルスを運ぶことはないはずです。
私は昨年度、日本看護協会看護研修学校で1年間の認定看護師教育課程を修了し、認定審査に無事合格しました。今年度より感染管理認定看護師として本格的に柏崎総合医療センターの感染管理に取り組んでいます。私はこれから地域の皆様が柏崎総合医療センターをもっともっと安心して利用していただけるように活動していきます。さらに病院の中だけでなく、地域の皆様の健康増進のため感染予防を題材とした講演などもお受けしていきたいと思っています。地域全体で協力して、柏崎・刈羽地域を感染症から守っていきましょう!

防護服

カテゴリー: 看護部の部屋

西3階病棟より

西3階は回復期リハビリテーション病棟です。
病気や怪我で入院した患者さんの中には、後遺症により入院前に自分で出来ていた事が出来なくなってしまう方がいられます。そのような患者さんが点滴などの治療を終え、自宅退院を目指してリハビリに励んでいる病棟です。多くは整形外科、脳神経外科の患者さんです。
一般病棟とは構造が違い、病棟内にリハビリができるリハビリコーナーがあり、主に専従のリハビリスタッフ(理学療法士2名、作業療法士1名)が、日々患者さんの状態を見ながらリハビリを行っています。患者さんも「早く良くなって帰りたい」と話し、一生懸命に努力をされています。その姿を見て「私も頑張る」「あの人あそこまで良くなったんだ」と刺激を受けリハビリを頑張る患者さんもいて、活気に満ち溢れています。

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そんなリハビリコーナーが食事のときには食堂に変わります。当病棟では基本食事はリハビリコーナーとデイルームで摂って頂きます(無理には誘いません)。隣の患者さんや同じテーブルの患者さんと話をしながら摂る食事は、病院食とはいえ3割増し?でおいしく感じられると思います。お話をしているうちに仲良くなって、病室の垣根を越えて集まって話をされている患者さん同士も見受けます。

さらに「○○さん今日退院だけど、お見送りしたいから帰る時に声をかけて」と仰る患者さんや、外来リハビリに来院された際に病棟に来られ「○○さんに会いに来た」と仲良くなった患者さんに会いに来られる方もいます。
看護師に会いに来て下さる方も大勢おられます。その時には、勤務している看護師がどこともなく集まり懐かしさに花が咲き、笑顔の絶えない会話が続きます。
看護師は毎日カンファレンスを行い患者さんの事について話し合い、医師、リハビリ、メディカルソーシャルワーカーと連携を取り、患者さんの退院後の生活を見据えながらケアを行っています。そして、リハビリから歩行訓練時などのアドバイスをもらい、リハビリが介入していない時間に積極的に訓練を行っています。時には悩みながらもチームワーク抜群の医療スタッフで頑張っています。

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医療スタッフで忘れてはいけないのが伊藤医師です。御年○○歳ながらパワフルで、看護師に叱咤、叱咤しながら!?患者さんの意向を最も大切とし、親切・丁寧な治療、説明をして下さっています。特に整形外科の医師ですので、病棟の多くを占める整形外科患者さんへの説明や手術後の経過、今後の回復の見込みなど患者さんだけでなく、看護師にも指導して下さる大切な存在です。

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西3階病棟
小熊 衛雄

カテゴリー: 看護部の部屋

サマータイム ~時間を操作することの是非

皆さんは「サマータイム」をご存知でしょうか。欧米を中心に、夏の間、時計の針を1時間進めるという制度です。たとえば米国では、3月の第2土曜日午前2時(現地時間)に時計の針を1時間進めて3時とし、11月の第1日曜日午前3時に1時間戻して午前2時としています。ヨーロッパでは3月と10月の最終日曜日午前1時に変更が行われています。

なんでこんなことをするのかというと、
① 明るい時間を有効に使えるので、照明の節約になる
② 交通事故や犯罪が減る
③ 活動時間が増えることで、経済が活性化する
④ 余暇を充実させることができる
といった理由が挙げられています。
しかし省エネ効果については否定されていて、確かに照明用の電気消費量は減少するものの、冷房用の電気消費量が増加し、全体としてはむしろ電気消費量は増加することが示されています。
また時刻切り替え時にむしろ交通事故が増加するという報告もあります。
ロシアでは切り替え時に心筋梗塞で死亡する人が増え、2011年を最後に廃止されています。
日本でも1948年から1951年にサマータイムが実施されましたが、残業が増えるなどの労働条件悪化のため、1952年以降は廃止されました。

サマータイムを本格的に導入したのはドイツとイギリス(共に1916年)と言われていて、第一次世界大戦に伴う資源節約が目的でした。米国でも1918年に導入されたようですが、不評で2年で廃止。それが第二次世界大戦中に再び復活。これも資源節約が目的でした。なぜかそれが現在まで継続しているようです。
米国ではサマータイムのことを「デイライト・セイビング・タイムDaylight saving time(昼間の光を無駄にしない時期)」と呼ぶようですが、確かに昔は省エネに寄与したのでしょうが、冷房など各種電気機器が発達した現代社会においては、ほとんど意味がないと言ってもいいのかもしれません。
それなのに日本では、経済産業省や日本経済団体連合会がサマータイムの導入に積極的です。その目的は経済の活性化。サマータイム導入により本当に経済が活性化するのかどうかはわかりませんが、フランスでは否定されているようです。少なくとも余暇を楽しむことの下手な日本人労働者においては、長時間労働に繋がるであろうことは、想像に難くありません。

最近政府が「ゆう活」なるスローガンを打ち出し、勤務時間を1時間程度前倒しして朝早くから働き、夕方からは家族や友人との時間を楽しむ、「夏の生活スタイル変革」を提唱しています。将来は、一旦頓挫したサマータイムの導入を、という思惑が透けて見えます。とりあえずは内閣府の職員から、ということのようですが、果たして一般社会に受け入れられるのでしょうか。私には甚だ疑問です。たぷん残業時間が増えるだけなのではないでしょうか。仮に夕方早く仕事が終わったとしても、その後の時間を楽しめる人がどれだけいるでしょうか。
また、時間が1時間早くなったことで、就寝時刻も1時間早めてスッと眠りにつき、朝は1時間早くパッと目覚めるということが可能なのでしょうか。

結局なんだかんだで寝る時刻は変わらず、朝だけ早く起きなければならなくなり、大事な睡眠時間が削られることになるのでは、ということが危惧されます。コラム81でもお話ししたように、大人は約7時間の睡眠が必要と言われています。睡眠不足が続くと集中力が低下します。そのため仕事上のミスが増えます。これによる損失を考えると、政府や経済界が目論む経済活性化には必ずしも結びつかないのでは、と思うのですが…。

いずれにしても、自然を人為的に操作しようとすること自体が人間の思い上がりであり、いつか必ず自然のしっぺ返しを食う…、私はそんなふうに考えています。

 平成27年8月12日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋