三たび、医療はチームなんだという話

熱戦を繰り広げた100回目の夏の甲子園、全国高等学校野球選手権大会は、大阪桐蔭高校が13対2で秋田の金足農業高校を破り、春夏連覇を果たして閉幕しました。
さすがの剛腕、金足農業の吉田投手も、猛暑の中の6連投には耐えられなかったようで、大阪桐蔭の強力打線に打ち込まれてしまいました。
吉田投手の今大会の総投球数は881球、1試合平均約150球です。これだけ投げれば疲労が蓄積するのは当然でしょう。彼の球を相手の選手がうまくとらえられない(空振りだったりファウルボールだったり)ために打たせて取ることができずに三振が多くなり、必然的に投球数が増えることになります。
ただ投球フォームがいいので幸い肩肘を傷めずに投げ続けることができましたが、他の投手ではこうはいかなかったかもしれません。
昔の高校野球は、金足農業のように好投手がひとりで投げ抜くというところが多かったのですが、最近は二人三人の投手を持っているチームが増えました。そうでないと、暑い中での連戦を勝ち抜けなくなっているからです。選手の負担を軽減する必要もあります。
でもそれができるのは大勢の部員がいる有名高校だけで、地方の、特に公立高校では難しいのが現実です。だから今回のように一人の剛腕投手を中心に勝ち上がって来た地方のチームが脚光を浴びるのでしょう。

金足農業が秋田県予選を勝ち抜き、甲子園でも決勝まで駒を進めることができたのは、偏に吉田投手の力が大きいのですが、彼だけではなく、一緒に戦った他の3年生8人もよくやったと褒めてあげたいと思います。
レギュラーは全員3年生、控えは全員2年生、そして県大会から全ての試合を9人の3年生だけで戦って来たというのも珍しいですね。試合に出る機会のなかった2年生はちょっと悔しいところもあったかもしれませんが、こういうチームは団結力が強まります。
すごい投手が一人で引っ張るチームはどうしてもワンマンチームとなりがちですが、金足農業の場合、そんな感じは受けませんでした。実際甲子園での戦いにおいても吉田投手が完封するというわけではなく、点は取られたけれどもチーム全員で取り返すという試合内容でした。

かつて日本文理高校が中京大中京高校との決勝戦で大差をつけられながらもあきらめず、9回2死から1点差まで追い上げた試合があり、胸を熱くしましたが、それに勝るとも劣らぬ感動を金足農業ナインは与えてくれました。ありがとう。

さて、野球少年ならぬ野球「老」年の野球談議はここまでにして、この先は医療もチームなんですよという話をしたいと思います。
今までもいろいろな機会でお話しをして来ました。このコラムでも以前取り上げたことがあります。「エェー、またかよ」とおっしゃらずにお読みいただけると幸いです。

医療においてはどうしても医師や看護師が目立ちます。確かに医師がリーダーシップをとらなければならないのは事実ですが、医療(特に病院医療)は医師だけではできません。
入院経験をお持ちの方はお分かりだと思いますが、病院では様々な職種の人が働いています。医師、看護師、保健師、助産師、薬剤師、診療放射線技師、臨床検査技師、リハビリ技士(理学療法士、作業療法士、言語聴覚士)、臨床工学技士、視能訓練士、管理栄養士、歯科技工士、歯科衛生士などの国家資格を持ったプロのスタッフ、さらに医療ソーシャルワーカーや医事課・総務課職員、受付や会計窓口の事務職員、建物・電気設備の保守に携わる人、そして院内の掃除をしてくれているビル管理会社のスタッフなど。
これらの様々な人々が病院での医療にかかわっているのです。ひとり、どんなに優れた医師がいたとしても、その医師だけでいい医療を提供することはできないのです。

かつて作新学院高校に江川 卓という剛球投手がいました。彼の球は当時の高校生には打てないと言われました。実際完全試合やノーヒットノーランを何回も達成しています。しかし作新学院は甲子園では優勝できませんでした。確か2回戦か3回戦で銚子商業高校に破れています。最後は押出四球で勝負が決まりました。当時の作新学院は江川投手のワンマンチームでした。失点したときにそれを取り返す力はチームにはありませんでした。
またまた野球の話になってしまいましたが、要は医師のワンマンチームではダメだということなのです。
医師も神ではありませんので失敗を犯すこともあります。それをチーム全体でカバーできなければ、患者さんにとってのいい医療を提供することはできないのです。

「名医」とか「神の手」と称される医師がいます。そしてそれを求めて全国行脚する患者さんがいます。気持ちはわからないわけではありませんが、時間と金の無駄遣いでしかないと私は思います。
きちんとしたチーム医療を提供している病院は、必ず皆さんの近くにあるはずです。自分の足元に目を向けてみて下さい。

医療は不確実で限界があります。「絶対」ということはあり得ません。そんな中皆さんが満足のいく医療を受けるためには、皆さんと医療側との信頼関係を築く必要があります。担当の医師との信頼関係はもちろん重要なのですが、できれば医師以外のスタッフも含めて病院全体の医療チームとの信頼関係を築くことができれば言うことなしです。

もう一つ大事なことを申し上げます。チーム医療の中心は患者さん、即ちあなただということです。あなたを真ん中にして、周りをご家族そして私達医療チームが取り囲み、必要なときに必要な人がかかわる…、それがチーム医療なのです。人任せではダメだということをご理解いただきたいと思います。

 平成30年9月6日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

たばこは有害無益、吸うのなら他人に迷惑をかけぬよう

厚生労働省の研究班によると、2015年度のたばこによる損失額は2兆500億円に上るとのこと。
その内訳は、喫煙者の医療費が1兆2600億円(そのうちがんの医療費が5000億円超)、受動喫煙が原因の医療費が3300億円、歯の治療費が1000億円、さらにたばこが原因で病気になり、そのために生じた介護費用が2600億円、火災による損失が980億円。

たばこは有害無益であり、特に受動喫煙が問題となっています。世界の先進国は確実に禁煙に向けての取り組みを進めていますが、なぜか日本は消極的です。
実際にたばこを吸う人はたばこの毒性を分かった上で自分の責任で吸えばいいのでしょうが、たばこを吸わない周りの人に迷惑をかけることだけはやめてほしいと思います。
受動喫煙を防止するための法案制定にあたって国会でもめたことは記憶に新しいと思います。限られたスペースでの受動喫煙を防止するためにはそのスペースを全面禁煙とすべきなのですが、国会議員は誰との利害関係を優先したのか、屋内全面禁煙は実現しませんでした。

たばこがいろいろな病気の原因になることは明らかです。肺がんを始めとする各種がん、脳卒中、歯周病、慢性閉塞性肺疾患など。そんな中一方で医療費抑制を叫びながら、一方では受動喫煙を放置するというのは、矛盾しているとしか言いようがありません。

世の中全体としては喫煙者にとっては肩身が狭くなっているようですが、それでもなおたばこを吸っている人は、健康で長生きしたいと思うのであれば即刻禁煙すべきです。別に長生きなんてしたくない、今が良ければそれでいいという人は、いずれ健康を害するということを自覚した上で、他人に迷惑をかけぬよう、一人でたばこをお楽しみください。

 平成30年8月23日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

余命なんて誰にもわからない

成人T細胞白血病で余命1年以内と言われた患者が、死を覚悟して全ての財産を整理したが、治療が奏効したのか5年以上生存、その結果生活に支障をきたすようになり、損害賠償を求めて医療機関を提訴したとのこと。

今の時代、がん告知は当たり前で、特に若い医師は患者の気持ちを慮ることなく簡単に病名を伝えます。しかし一般の人々にとってはがんという病気はまだまだ特別な病気なのです。
インフォームド・コンセントの時代にあって、昔のように患者さんに病名を伝えず嘘をつき通すなどということはまずありません。患者さんもがんであることを伝えられても比較的冷静に受け止めておられるようです。昔と違って「がん=死」ではないことを理解されているからでしょうか。実際がんの治療成績は向上しており、がん全体としては50~60%が治るようになっています。
しかし半分程度は今もなお治癒が望めず、死と向き合うことを余儀なくされます。成人T細胞白血病も一般的には予後不良の疾患で、造血幹細胞移植以外には完治が困難です。ただ薬物療法の進歩により、比較的長く生存する方が増えているのも事実です。

ある病気に対してどういう治療を受けた患者がどれだけの期間生きることが期待できるかというデータは教科書に載っています。経験の浅い若い医師は、それを見てあとどのくらい(生きられる)という話をするのでしょうが、そのデータはあくまでも集団としてみた場合のもので、個々の患者にあてはめるのは実は難しいことなのです。

がんと診断された場合、患者さんによっては人生の整理をするために余命を教えてほしいとおっしゃる方がいるのは確かです。私も訊かれることがあります。その場合の私の答は「わかりません」です。実際わからないのです。治療が効いて治ることもあるし、全く効果が得られずにどんどん悪くなることもあるし、ときには思わぬ事態で亡くなられることもあります。ですから私は、「この先どうなるかは誰にもわかりません。しっかり治療に取り組みながら、これからの一日一日を大切にしましょう。頑張って治すぞ、という気持ちが大事です。私達はそのためのお手伝いをします」とお話ししています。

ただ、病気が進行していてもはや治療は困難、症状を和らげながら対応するしかないという場合には、経験のある医師であればある程度余命を予測することは可能です。しかしその場合でも、心ある医師は「あと何か月」というような紋切り型の告知はしません。「年を越すのはむずかしいかも…」「来年の桜はどうでしょうかね…」といった言い方をすることが多いと思います。「何か月」と言い切ることが難しいことを知っているからです。

ヒトには寿命があっていつか必ずお迎えが来ます。しかしそれがいつなのかはわかりません。わからないから深刻にならずに生きていけるのでしょうが、命が限られていることを目の前に突き付けられたら、ほとんどの人が動揺すると思います。でもそれを受け入れなければなりません。そしてほとんどの人はいろいろな葛藤はありながらも受け入れることができているようです。
そうは言っても死をひとりで受け止めるのは大変なことです。そんな時こそご家族とともに私達医療者の役割が問われるのだろうと思います。

がんという病気の治療が進歩しているのは間違いありません。しかし依然としてがんのために亡くなる方がいるのも確かです。治るにしても治らないにしても、がんと伝えられたことでほとんどの方が死を意識すると思います。それまで考えてもみなかった「死」を想い、「死」に目を向けてみることは、結果的にがんが治った人にとっても重要なことなのでは…、と私は思います。おそらく「生きる」ことを大切にすることに繋がるはずだから…。

 平成30年8月9日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

「協働」という言葉の意味を噛みしめながら…

今回は皆さんに是非読んでいただきたい一冊の本をご紹介したいと思います。
「賢い患者」(山口育子 著 岩波新書1725)です。
一般の方だけではなく、医療関係者にも読んでいただきたい。

皆さんは「ささえあい医療人権センターCOML(コムル)」という組織をご存知でしょうか。Consumer Organization for Medicine & Lawの頭文字をとってCOMLです。「私達一人一人が『いのちの主人公』『からだの責任者』、そんな自覚を持った『賢い患者』になりましょう」を合言葉に、1990年以降現在まで精力的に活動を続けているNPO法人です。
この組織を立ち上げたのが辻本好子氏、そして発足1年後に加わってから辻本氏と二人三脚で活動を進めて来たのが山口育子氏です。残念ながら辻本氏は2011年に胃がんで亡くなられましたが、その後山口氏が理事長職を引き継ぎ、COMLを牽引しておられます。

COMLがどのような活動をしているのかは「賢い患者」をお読みいただきたいと思いますが、私は以前よりCOMLの活動に共感し、長岡市で開催していた「がんセミナー」に辻本氏を講師としてお招きし、講演を拝聴したことがあります。とてもいい話を伺うことができました。辻本氏もとても素敵な女性でした。
そんな辻本氏が亡くなられたのは本当に残念なのですが、亡くなられるまでの間山口氏が辻本氏をどう支えたのか、そのあたりの経緯についても「賢い患者」の中に記載されています。

医療はもともと不確実で限界があります。その中で満足のいくいい医療を受けるあるいは実践するためには、医療側と患者側との信頼関係を築く必要があります。そして一緒に病気の治療に取り組む必要があります。それを山口氏は「協働」という言葉で表現しています。

さて、あとは本を読んでいただくことにして、最後に「あとがきにかえて」から引用した以下の文をご紹介したいと思います。

「どのような集団も、多くの人が集まって統計をとると、釣り鐘の形の正規分布曲線を描きます。‟医師”という集団であれば、一方に人格に優れ、知識も豊富で、常に学ぶ意欲があり、腕も確かという少数がいて、もう一方には患者の気持ちなどお構いなしに問題を起こす医師も少数いるわけです。」
「‟患者”という集団も同様に、一方に冷静で自立・成熟した賢い患者が少数いて、もう一方にはモンスターと呼ばれる無理難題を押しつけてくる患者も少数います。」
「これまで、ともすれば医療者も患者も相手のマイナス部分にいる人たちを問題視して、‟叩いて”きました。」
「しかし、それでは医療はよくならないのではないかと私は感じてきました。そこで、COMLでは正規分布曲線の中央値をプラスの方向にずらすことのできる活動に力を入れたいと考えているのです。」

 平成30年7月26日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

病院のアメニティ

平成に入った頃から病院のアメニティ(生活環境の快適さ)に関心が寄せられるようになりました。それまでは大部屋が主体で、8人部屋とか10人部屋などがありました。入院している患者さんの生活のことなどほとんど考慮されませんでした。中には鼾のひどい人がいて、同室の他の患者さんは夜よく眠れないというようなこともありました。とにかく病院は病気を治すことが目的、アメニティまで考えていられない、というのが古い病院のコンセプトだったのでしょう。
しかし最近は違います。入院している患者さんにとって病院は生活の場ですから、できるだけ快適に過ごせるように、という配慮がなされるようになりました。

東京の聖路加国際病院が新築されたとき、全室個室であることが話題となりましたが、平成23年に建てられた足利赤十字病院も全室個室です。以前は病床数に占める個室の割合が制限されていたのですが、その規制が撤廃されたことで、新築病院では個室が増える傾向にあります。
個室を増やせばそれだけコストがかかりますが、病床稼働率を上げることで解決できるようです。

私は以前から病室は全部個室の方がよいと考えておりますが、人によっては大部屋の方がいいという方もいらっしゃいます。同じ部屋に入院している患者さん同士がお互いに励まし合えるから、という理由です。確かに一理ありますが、かつて、がん治療を受けていた患者さんが容態悪化のため大部屋から個室に移されるということがしょっちゅうあり、同室の同じがんの患者さんがとてもショックを受けたというのも事実です。

個室が増える、あるいは全室個室化ということには別の理由もあります。一つは感染症対策です。インフルエンザなどのウイルスを面会者が持ち込むと、大部屋であれば一気に感染が拡がるリスクがありますが、個室であれば一人の患者さんへの感染で済みます。
もう一つは高齢者が特に夜間自分がどこにいるのかわからなくなり、混乱して大声をあげるというようなことがしばしばありますが、そのことで他の患者さんに迷惑をかけるのを防げます。最近は認知症の高齢者が増えていますので、そのような患者さんへの対応もやりやすくなるというメリットがあります。
さらにがんなどで容態が悪化したとき、患者さんを大部屋から個室に移すようなことをする必要はなくなり、ご家族と過ごす時間を確保できます。

病院の個室が増えているのは患者さん自身のご希望でもあります。プライバシー確保のため個室を希望される方が増えているのは確かです。

一時大部屋(4床室)でありながら各ベッドサイドに窓があって外の景色を眺められるという造りが取り入れられ、話題になったことがあります。特殊な構造のため建設コストはかかりますが、患者さんにとってはとてもいい配慮なのではないでしょうか。
通常の4床室、6床室ではベッドから外を眺められるのは二人の患者さんだけです。特に6床室の場合、3つ並んだベッドの真ん中にいる患者さんはとても窮屈な思いをします。

東京には病院内にコンビニ、カフェ、レストラン、さらにはブティック他の店があり、ミニショッピングモールのようなものを形作っている病院もあります。

当院が現在地に新築移転したのは平成3年ですが、工事が始まったのは平成元年、設計はその前でした。そのためアメニティについての配慮は不十分で、ご利用いただく皆さんにはご不自由、ご迷惑をおかけすることもあるのですが、まだ当分の間は今の建物を使っていかなければなりません。ご容赦願いたいと思います。
ただ細かい改修は必要に応じて行っていきたいと思います。6床室だけは何とかなくしたいと考えたのですが、6床室を全て4床室にすると総病床数がかなり減り、入院が必要な患者さんを入院させられない事態が生じる可能性があったため、一部は残してあります。

以前に比べて入院期間は短縮しているものの、入院している間は病院は患者さんにとっては生活の場です。少しでも気持ちよく過ごしていただけるような工夫は今後も続けて参りたいと思います。

平成30年7月12日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

今後の医療のカギは「地域包括ケアシステム」と「かかりつけ医」

先日千葉大学医学部附属病院が記者会見を開き、患者9人のCT検査において、画像診断報告書の確認ミスにより4人の治療経過に影響を及ぼし、そのうち2人が死亡したと発表しました。
死亡したのは60代女性と70代男性。

60代女性は炎症性腸疾患の経過観察のために2013年6月にCT撮影をしたそうですが、その画像診断報告書に腎がんの所見が記載されていたのを担当医が見逃してしまいました。2017年10月に他科でオーダーされたCTで腎がんが認識されましたが、同年12月に死亡したとのこと。

70代男性は皮膚悪性腫瘍の患者で、2016年1月のPET-CTで肺がんが疑われる所見があったそうですが、担当医は報告書の確認を怠り、2017年4月のCTで肺がんが確認され、同年6月に死亡したとのこと。

診断の遅れと死亡との因果関係をはっきりさせるのは難しいところもあるのですが、副院長の市川智彦氏は「この2人の患者については最初の段階であれば治療の選択肢があったと思われるが、新たにがんを認識した時点では手遅れだった」と述べ、責任を認めています。

他の7人についても、結局は担当医が自分の専門外の所見については十分意識を向けられなかったことが原因とされています。

当院も含めてそれなりの規模の病院であれば、X線写真やCTの診断に携わる放射線科の専門医がいます。彼らが発行する画像診断報告書が担当医に届けられ、それを参考にしながら担当医自身が最終的に診断することになるのですが、担当医は得てして自分の専門分野あるいは患者さんの訴えに関連する部分の所見にしか目が向かない傾向があります。あるいは診断を急ぐ場合には、自分で画像を見て診断し、放射線科医師の報告書を確認するのを忘れることがあります。千葉大学の場合は電子カルテが導入されており、画像診断報告書を担当医が読んだかどうか確認する機能が欠けていたとのことで、それが今回の事態に繋がったのかもしれません。
当院では見落とし、見忘れを防ぐため、紙の報告書を作成し、担当医がそれを確認してサインをするというシステムをとっています。

CTは放射線被曝の問題はありますが、病気の診断のためにはとても有用な機器で、そこに現れた所見を見落とすことがないよう、医療側には細心の注意が求められます。「病変は一つとは限らない!」という画像診断の現場での格言を噛みしめる必要があります。

今回のことで改めて問題になったのが、専門医の視野の狭さです。大学は基本的には専門医の集団であり、自分の専門分野については高度な知識・技術を持ち、能力を発揮するのですが、専門外のことについては疎い、というか関心を示さない傾向があります。以前から指摘されているように、病気をみて人をみないと言われても仕方がない部分があります。患者さんにしてみれば、自分は大病院のこの先生に診てもらっているのだから安心という思いがあるかもしれませんが、担当医の目は患者さんが抱えていて自分が担当している病気にしか向いていないことがあるのです。

大学病院だけではありません。専門医が集まっている大病院では同様のことが起こります。
たとえば高血圧あるいは糖尿病などで大病院にかかっている人に検診で胃がんがみつかり、手が付けられない状態だったということがまれにあります。患者さんにしてみれば「ずっと病院で診てもらっているのに、どうして?」と思うかもしれません。でも病院にかかっていれば担当医はあなたの全体を診ているかというと、そうではないのです。病院の規模が大きくなればなるほど、あなたの担当医は高血圧なら高血圧、糖尿病なら糖尿病といった自分の専門としている病気しか診ていないのです。大病院の自分の担当医を信頼するのは大事なことなのですが、全て任せきりにするのではなく、「最近胃の調子が悪いんですけど…」とか、「身体を動かすと胸が苦しくなるんですけど…」とか、「咳が出てなかなかおさまらないんですけど…」とか、「腰が痛くて動くのも容易でないんですけど…」とか、普段と違う気になることがあったら、是非そのことを担当医に伝えて下さい。その時点で初めて担当医の目が他に向くことになります。

一般の方々が大病院を志向される気持ちはわからないわけではないのですが、落とし穴もあることを理解する必要があります。

国は今、地域包括ケアシステムを提唱し、かかりつけ医を持つよう誘導しています。その考えそのものは悪くないと私も思います。ただそのためには地域の受け皿が必要です。国はとにかく医療費の削減のために急性期病床を減らし、入院患者をできるだけ早く退院させたいと思っているわけですが、退院した患者さんの多くが行き場がありません。自宅療養・介護なんて現状ではとても無理、介護施設も不足しています。まずここをなんとかしなければなりません。地域包括ケアシステムが整って、普段は近くのかかりつけ医と仲良くし、必要時はそのかかりつけ医の紹介で大病院を受診するというのが理想です。
そうすればあなたは病気だけでなくあなたという一人の人そのものを診てもらうことができます。大病院の外来患者数は減るでしょうから、大病院の医師にも余裕ができ、自分の専門に集中することができるはずです。

たぶん皆さんは、これから先も今と同じような医療サービスを受けられる、それが当然と思っていらっしゃるかもしれませんが、残念ながらそうはいかないのです。現在の年間医療費は40兆円を超え、今後もさらに増加する見込みです。それを支えているのは若い世代の保険料と税金です。その若い世代が急速に減少し、医療を始めとする社会保障費を支えきれなくなってきているのです。

医療政策において重要な三つの要素があります。「医療の質」「低コストあるいはコストの適正化」「アクセスの保証」です。この三つを同時に実現することは困難と言われているのですが、日本はうまくバランスをとって奇跡的な医療体制を維持して来ました。しかしそろそろそれも限界です。医療体制全体が破綻しないようにするためには、三つの要素のどれかを犠牲にしなければなりません。

「医療の質」を落とすことはできません。「コスト」がかかり過ぎると医療の平等性が失われ、米国のように医療格差が生じる可能性があります。となると残るのは「アクセス」。アクセスというのは医療機関にかかることで、現在の日本の医療はフリーアクセス(誰でも、いつでも、どこでも、自分の好きな医療機関に自由にかかることができる)が特徴です。それを欧米のように制限しようという動きが進んでいます。
英国や北欧では日本のように自由に医療機関を受診することはできません。原則としてかかりつけ医がいます。具合が悪くてもすぐに医師に診てもらうことはできず、まず薬局の薬剤師に相談します。薬をもらって飲んでも状態が改善しないときは、開業看護師に相談します。看護師が医師の診察が必要と判断して初めてかかりつけ医に診てもらうことができるのです。日本のようにすぐに大学病院や専門病院を受診することはできず、かかりつけ医が必要性を認めた場合に大病院を紹介されて受診することになります。
フリーアクセスというのは皆さんにとってとても便利な制度なのですが、これが制限されるとしたら、日本の医療はどうなるのでしょうか。

今求められているのは医療費を減らすことです。今後も国民皆保険制度を維持するためには、医療費の無駄遣いを極力避ける必要があります。何が無駄遣いなのかは議論のあるところでしょうが、国民全体が限られた医療資源を大事に使う意識を持つことが大切です。
かつては大量に獲れた漁業資源が乱獲のために減少し、絶滅を防ぐために漁獲量を制限して漁業資源の自然回復を待つ…、ちょうどそんな感じでしょうか。

具体的には圧倒的に患者数の多いいわゆる生活習慣病を減らすことです。高血圧、糖尿病、脂質異常症(高脂血症)などで治療を受けている人が大勢います。たくさんの薬が使われ、製薬会社は大儲けです。この人たちがかつての日本のようにつつましい食生活をして肥満を避け、車ではなくて自分のアシで移動し、適当な運動をすれば、きっと医療機関にかかる人は減るはずです。
しかし考えてみると、自動車産業を支援し、車の普及を図って来たのはほかならぬ国です。中小の製薬会社を含めて製薬業を支援してきたのは国です。タバコは百害あって一利なしなのに、タバコ産業を保護してきたのは国です。ファーストフード店の展開を制限することなく、国民の栄養が偏ることを野放しにしてきたのは国です。結局国がこれまでとって来た種々の政策のつけが回ったということなのでは…、なんて言うと、どこかからお叱りを受けそうですね。

とにかくこのままでは日本の医療は崩壊を免れません。今後の日本の医療をどうしていけばいいのか、人任せではなく、自分自身の問題として考える必要がありそうです。

平成30年6月28日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

人口減少問題を考える

「若者が減ると民主主義が崩壊する」「ネット通販が普及し、商品が届かなくなる」「高齢女性の万引きが、刑務所を介護施設にする」…、ええ~っ、いったい何のこと? と思いますよね。

どういうことかというと、現在選挙時の一つの投票所は概ね3,000人という基準があるそうで、人口減の地域では投票所の統廃合が進んでいるとのこと。将来さらに人口が減った場合には近くに投票所がなくなり、移動手段の限られる高齢者は投票所に行けなくなるかもしれない、貴重な一票を投じることができなくなるという事態が生じる、というわけです。
アマゾンなどネットで買い物をする人が増えていますが、その商品の配送が追い付かず、ヤマト運輸が受注を制限したというニュースは記憶に新しいと思います。今後ネット通販の需要はさらに伸びると思いますが、それの配送に従事する若年世代が減少することで、需要に追い付かない事態が予想されます。
最近高齢女性の犯罪者が増加しているそうです。一人暮らしで生活が苦しく、ついつい万引きなどに手を出してしまう、出所しても社会復帰できず、再び犯罪に手を染める、身体機能低下や認知症のため、刑務官がおむつ交換をしたり入浴介助をしたりする…、実際こういうことが起こっているそうです。

日本が超高齢社会であることは皆さんご存知だと思います。一方生まれてくる子どもの数は減るばかりです。
国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2015年には総人口1億2,710万人(65歳以上:3,387万人、15~64歳:7,728万人、14歳以下:1,595万人)であったものが、2040年には1億1,092万人(65歳以上3,921万人、15~64歳:5,978万人、14歳以下:1,194万人)に減少、さらに2065年には総人口が1億を下回って8,808万人(65歳以上:3.381万人、15~64歳:4,529万人、14歳以下:898万人)になるとのこと。
ここ暫くは65歳以上の高齢者は減らないのですが、それも団塊世代の人々の寿命が来るようになると一気に減少し始めます。そして余程のことがないと出生率は上がらず、若年人口は減るばかり。これが将来の日本の姿であり、それもそう遠くない将来なのです。

2040年までに全国の自治体の半数が消滅の危機にさらされるという将来推計を、日本創生会議の人口減少問題検討分科会が2014年に公表し、日本中が大騒ぎになりました。そんなバカな、と思われた方も大勢いらっしゃると思いますが、どうやら事実のようです。

なぜこのようなことになったのか、私にはそれを論じる能力はありませんので、皆さんに2冊の書籍をご紹介したいと思います。
一つは「未来の年表~人口減少日本でこれから起きること」(河合雅司 著、講談社現代新書、2017年)。お読みになった方もいらっしゃると思います。そしてもう一つは最近出版された続編の「未来の年表2~人口減少日本であなたに起きること」です。第一弾も衝撃的だったのですが、第二弾はさらに具体的に身の回りで起こることについての予測が述べられています。きちんとデータに基づいて記述されていますので、信憑性は高いと思われます。
ご一読をお勧めします。

人口減少の影響を具体的にイメージするために、平成26年に国土交通省が公表した「国土のグランドデザイン2050」に示された「サービス施設の立地する確率が50%及び80%となる自治体の人口規模」をご紹介します。立地する確率が50%というのは、存在し続けることがかなり難しく、潰れる可能性があるということを意味しますので、こちらの数字をお示しします。
百貨店(デパート)は27万5,000人、ショッピングセンターは7万7,500人、ペット・ペット用品小売業3万2,500人、男子服小売業9,500人、スターバックスコーヒー17万5,000人(えっ、、ホント?)、ハンバーガー店3万2,500人、映画館8万7,500人、カラオケボックス業1万7,500人、銀行6,500人、大学12万5,000人、学習塾5,500人、救命救急センター17万5,000人、救急告示病院1万7,500人、一般病院5,500人、有料老人ホーム4万2,500人、介護老人保健施設9,500人、法律事務所5万7,500人、等々。
柏崎市の現在の人口は約8万6,000人。スターバックスコーヒーや映画館がないのはなるほどと肯けます。市内にいくつかのショッピングモールがありますが、このまま人口が減り続ければ潰れるモールが出てくるかもしれません。大学が二つありますが、余程の経営努力をしなければ、存続が危ぶまれるということでしょうか。
さて、将来の柏崎の街はどうなるのでしょうか。

私も含めて今の高齢者は、ひょっとすると「自分達は大丈夫」と思うかもしれませんし、実際逃げ切れるかもしれません。でも子どもや孫の世代は? そう考えればけっして他人事ではないのです。
人口減少問題にもっときちんと目を向ける必要がありそうです。

 平成30年6月14日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

救急車と救急医療について考える

平成28年2月19日未明、奈良県天理市の66歳の男性が自宅で胸痛を訴え、妻が119番通報をしたそうです。ところがそれを受けた消防職員が住所検索システムに誤った住所を入力したために、救急車の到着が10分位遅れ、男性は病院に運ばれましたが心筋梗塞で死亡したとのこと。これに対して遺族が、男性の死亡は救急車の到着が遅れたのが原因であるとして、約3,700万円の損害賠償を求めて提訴したとの記事が新聞に掲載されました。

10分の遅れが本当に死亡と因果関係があるのかどうかは何とも言えませんが、ご遺族の「もう少し早く治療を受けられれば助かったのではないか」と思う気持ちは十分理解できます。しかし10分の遅れが訴訟に結びつくとなると、医療現場に身を置く者としては複雑な思いを抱きます。

救急隊員も医療関係者も、救急患者に対応すべく、日々身を粉にして頑張っています。消防年報によると、119番通報を受けてから現場に到着するまでの時間は新潟県全体では平均8.9分(市町村別では7.2~10.9分、柏崎市は9.5分)、119番通報を受けてから医療機関に収容するまでに要した時間は県平均が44.2分(36.0~56.9分、柏崎市は40.6分)となっています(平成28年のデータ)。
柏崎市についてもう少し詳しくみてみると、現場到着所要時間は最短1分、最長39分、収容所要時間は最短9分、最長168分となっています。また重症度別にみると、死亡4.5%、重症18.4%、中等症32.0%、軽症45.2%という内訳で、結果的には救急車を必要としなかった軽症者が半分近くを占めています。

救急車の適正利用については以前より言われていることですが、実際には具合が悪い時に救急車を呼んだ方がいいのかどうかを皆さんが判断するのは難しいかもしれません。しかし東京消防庁が公開している次のような救急車の利用は、是非やめていただきたいと思います。
① 24歳、女性。歩けるが、どこの病院に行ったらよいかわからないので、救急車を要請した。
② 68歳、女性。本日病院に入院する予定になっているが、自分で行くとタクシー代がかかるので、救急車を要請した。
③ 8歳、男児。子どもが友達と遊んでいて転び、膝を擦りむいた。救急車で病院に行けば優先的に診てもらえると思った母親が、救急車を要請した。
④ 72歳、女性。眠れなくて、誰かに話を聞いてほしくて救急車を要請した。
⑤ 48歳、男性。料理中に包丁で小指を切った。傷口の血は既に止まっていたが、整形外科の専門の医師がいる病院に連れて行ってほしいと、救急車を要請した。
東京消防庁管内は軽症者の救急搬送が52%で柏崎市よりも多いため、やむなくこのような事例を公開して救急車の適正利用を呼び掛けているのでしょう。

消防職員がミスをしたことについては責められても仕方ないかもしれません。でも10分の遅れが訴訟に結び付くとなると、救急医療体制を考え直さなければならなくなるかもしれません。

まず救急患者をできるだけ早く医療機関に搬送するための救急車の運用についてですが、タクシー代わりに安易に利用する人を減らす必要があり、そのために以前から言われている有料化の問題。
救急車利用が無料なのは先進国では日本だけ。他の国々では数万円のお金がかかります。救急車の無料を維持するために、これまでは国民に適正利用を呼びかけ、道徳観に訴えて来たのですが、もはや限界かもしれません。
救急車を有料化すれば、おそらく軽症者の利用は減ると思います。そして救急車の運用に余裕ができ、現場到着所要時間は短くなると思われます。
救急車で搬入される患者の数が減れば、医療機関にも余裕ができて、受け入れ困難という事態は減るはずです。都会でのいわゆる「たらい回し」が解消されることが期待できます。
しかし一方では金銭的に余裕のない人は救急車を呼ぶことを躊躇する可能性があり、助かる命が助からないということも起こり得ます。

もう一つ考えなければならないのは、救急患者を受け入れる医療機関側の問題。
今国は、二次医療圏単位での病院の再編・役割分担を推し進めようとしています。すなわち、急性期病院は二次医療圏の中心都市に集中させ、周辺地域の病院は回復期・慢性期の機能を担うというものです。
これを具体的に柏崎地域について考えてみると、柏崎市・刈羽村は長岡市、見附市、小千谷市、出雲崎町とともに二次医療圏を構成しています。厚生労働省の某官僚が「急性期病院は二次医療圏に一つか二つあればいい」と言っていることを踏まえれば、将来この地域の急性期病院が長岡市に集約されることは避けられないかもしれません。そうなると柏崎市も含めて周辺地域の病院は回復期・慢性期の病院とならざるを得ません。つまり当院での救急患者受け入れができなくなるということです。

しかし本当にそれでいいのでしょうか。柏崎と長岡の間は高速道路でも車で30分、一般国道を使うと約1時間、雪が降ると交通が遮断され、孤立することもあります。そんな地域においてもし救急対応ができなくなったとしたら、約9万の住民はどうすればいいのでしょうか。運命と思ってあきらめる? 皆さんがそうお考えになるのであれば、私がどうこう言う必要はありません。救急車の収容所要時間が延びる(10分どころではありません)のは間違いありませんので、治療開始が遅れてもそれを甘んじて受け容れる覚悟が必要です。
いや、そうじゃない、柏崎地域は今の医療体制を維持しなければならないとお思いになるのでしたら、それを維持するためにはどうすればいいのかを、是非お考えいただきたいと思います。
現在の柏崎地域の救急医療は、各医療機関の協力によりほぼこの地域内で完結しています。もしそれが崩れることになったら…。

二次医療圏云々というのは人口密度の高い都会を対象とした国の構想です。都会であれば肯ける部分もあるのですが、人口密度が低い地方においては、人口20万程度を基準に一つの二次医療圏を設定するというのは現実的ではありません。新潟県の実情を考慮した上で二次医療圏を見直す必要があることを、ずっと主張し続け、県にもお願いをしてきているのですが、なかなか聞いていただけません。

柏崎市は将来の人口減少を何とか最小限にしたいと考えて様々な施策を打ち出していますが、もしこの地域で十分な医療を受けるのが難しくなるとしたら、さらなる人口流出は避けられません。
柏崎をどういう街にしていくのか、市民一人一人が考える必要があります。他人事ではないのです。

平成30年5月24日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

因果関係と相関関係

皆さんは特定健康診査(メタボ健診)というのをご存知でしょうか。そう、腹囲がどうのこうので話題となった例の健診です。2008年に始まり、40~74歳の公的医療保険加入者全員が対象となります。目的は生活習慣病の早期発見と治療。
高血圧、糖尿病、高脂血症(脂質異常症)などの生活習慣病をコントロールすることで、心筋梗塞や脳梗塞のリスクを減らし、さらに医療費削減を図りたいというのが国の思惑です。齢をとっても元気で長生き、ということなのでしょう。ヒトには寿命がありますからいつかは死ぬのですが、できればギリギリまで健康で元気に過ごせればそれに越したことはありません。

じゃあ、健診を受けていれば長生きできるのでしょうか。残念ながらその答えはNoです。信頼のおける試験の結果、健診と長生きとの間には因果関係がないことが示されています。
ただし、健診を受けて生活習慣病の予防あるいはコントロールができれば、生活の質を維持することはできるかもしれません。いわゆる健康寿命を延ばすことにつながる可能性はあります。でもここ数年は、平均寿命と健康寿命の差はほとんど縮まってはいないようです。

さて、表題に掲げた「因果関係」と「相関関係」、皆さんも言葉くらいはお聞きになったことがあるのではないかと思います。
二つの事柄のうち、片方が原因となってもう片方が結果として生じた場合、この二つの間には「因果関係」があると言います。これに対して、片方につられてもう片方も変化しているように見えるものの、原因と結果の関係にない場合には「相関関係」があると言います。

冒頭のメタボ健診と長生きについて言うと、メタボ健診を受けて生活習慣病をコントロールすることが長生きにつながるのであれば、メタボ健診と長生きとの間には因果関係があることになります。そうであれば税金を大量に注ぎ込んで(2008年から2014年の間に約1,200億円の税金が使われています)健診をやることには意味があるということになるのでしょうが、健診が長生きには結びつかないのであれば、大金を投じる価値がないということになります。それでも健康寿命が延びているのであれば健診の意味はあるのでしょうが、それも証明されてはいません。

この世の中には因果関係がはっきりしない、根拠のない通説が山のようにありますが、それが本当に因果関係のあるものなのか、あるいは全くの偶然による相関関係なのかを見定めることは、とても重要なことだと思います。
ニコラス・ケイジの年間映画出演本数とプールでの溺死者数との間には強い相関関係があることが示されています。と言われても、そんな馬鹿な、偶然だろと思いますよね。そう、単なる偶然なのです。ところがその偶然を信じてしまう場合があります。スタジオジブリの映画が日本のテレビで放映されるとアメリカの株価が下がるということがあるそうで、「ジブリの呪い」と言われるのだそうです。全くの偶然なのですが、これが法則として認識されると、それを見込んだ投資行動が起こるのだそうです。

他にも様々な通説があります。
「認可保育所を増やせば母親は就業する」
「勉強ができる友人と付き合うと自分の学力も上がる」
「偏差値の高い大学に行けば収入が上がる」
これらの因果関係はいずれも否定されています。つまり、認可保育所を増やしても母親の就業率は上がらず、学力の高い友人に囲まれても自分の学力は向上せず、偏差値の高い大学に行くことが将来の収入増には結び付かないのです。

教育、医療、そして政治の場面においては、将来を見通して方策をたてることが求められますが、因果関係があやふやな通説に基づいて将来方針が決定されるとしたら、効果が期待できないだけではなく、お金の無駄遣いにしかなりません。
最近の国会は「ウソ」がテーマとなっているかの如き様相を呈していますが、私達国民は、「それってホント?」と、常に関心を寄せる必要があるのではないでしょうか。

最後にちょっとおもしろいデータを紹介します。

皆さんは病院に入院した時、男性医師に診てほしいと思いますか? それとも女性医師に診てほしいと思いますか?
米国のデータですが、内科的疾患で入院した患者について、男性医師よりも女性医師が担当した患者の方が、30日死亡率が低い(11.2%対10.8%でそれほど大きな違いではありませんが、統計学的には意味のある差です)ことが明らかにされています(JAMA Intern Med 2017;177:206-213)。つまり、医師の性別と患者の死亡率との間には因果関係があるということになります。この論文は、2017年に発表された学術論文のうち、ニュースやソーシャルメディアで取り扱われた頻度が高かったトップ100の第3位に選ばれています。米国では男性医師に比べて女性医師の給料が安く、昇進が遅いということで社会問題になっているそうです。そんな男女格差に一石を投じたということでしょうか。

※ 今回のコラムは「『原因と結果』の経済学~データから真実を見抜く思考法」(中室牧子、津川友介 著)を参考とさせていただきました。興味を持たれた方は、是非お読みになってみてください。

平成30年5月10日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

死を想いながら、生きることを考える

皆さんは「死生観」という言葉をご存知でしょうか。「人生観」なら知ってる? そうですね。人生観という言葉はかなり昔からあって、どう生きるか、というような意味合いで使われています。それに対して死生観は死についての様々な思いというところでしょうか。
死生観という言葉は比較的新しいものです。英語のthanatologyは当初は死学と訳されたのですが、響きが悪いということで死生学と訳されるようになりました。死と生は切り離せないという思いもあったのでしょう。それに伴って死生観という言葉が生まれて来たようです。
私は最初この言葉を聞いたとき、違和感を覚えました。人生観は良しとして、死について考えるのならわざわざ死生観なんて妙な言葉を創るより、「死についての考え」でいいんじゃないの、と思ったわけです。しかしそのときから年月が経ち、今ではなんとなく受け入れてしまっています。
いずれにしても死生観は死についての考え方であり、死を考えることが生を考えることに繋がるので、死生観でも「まっ、いいか」という感じです。

年度初めでみんなが「よしっ、これから頑張るぞ」と意気込んでいる時期に、何で死の話をするのかとお叱りを受けそうですが、そういうときだからこそ、死を想いながらこれから先どう生きて行くのかを考えていただきたいのです。
高齢の方も、若い方も…。

ヒトには寿命があり、日本人の平均寿命は男性80歳台、女性86歳台です。70代、80代の高齢者であれば、冷静に考えれば自分の残された時間はそれほど長くはないことをご理解いただけると思うのですが、実際にはほとんどの方がまだまだずっと先まで生き続けるつもりでおられます。それが悪いというわけではありません。よーし、頑張って100まで生きるぞという思いが、毎日を生きることの支えになっているのであれば、とても素晴らしいことだと思います。
中には、もう十分生きたからいつお迎えが来ても構わない、とおっしゃる方もいます。また口ではそう言いながらも、血圧の細かい変動や検査結果の数値にとてもこだわる方もいらっしゃいます。

生きるということは人それぞれ、こうでなければならないというものはありません。「人は生きて来たように死ぬ」とも言われます。最期の場面はその人の生きざまを映し出すのでしょう。できれば家族に囲まれて、「ああ、いい人生だった」と思いながら、家族にありがとうと感謝して死にたい…、私はそう思っているのですが、さてどうなるでしょうか。

私の死についての思いは、職業柄これまで大勢の方を看取って来た経験から少しずつ形作られて来たもので、死が隠蔽された社会の中で生きて来られた方々には、なかなか理解していただけないかもしれません。
また同様の経験を積んできた医師がみんな私と同じような考えを持っているかというと、けっしてそうではありません。そのあたりに興味をお持ちの方は、最近出版された「医者の死生観~名医が語る『いのち』の終わり」(梶 葉子著、朝日新聞出版)をお読みいただければいいのでは、と思います。

私の死についての思いとは…。

私は造血器腫瘍の治療を専門とする血液内科医です。私が医師になったばかりの頃は、急性白血病はほとんど治らず、次から次へと亡くなっていきました。急性白血病は他のがんと比べると比較的若い患者が多く、人生これから、という20代、30代、40代の人々をたくさん看取って来ました。白血病を治したい、それが私の仕事のテーマとなりました。
幸いなことに有効な抗がん剤が続々と開発され、造血幹細胞移植という治療技術が導入され、急性白血病の治療成績は徐々に向上、現在では約半数が治るようになっています。それでも「半分」なのです。これだけ世界中の医者が努力し、患者さんも苦しい思いをしながら頑張っているのに、治らずに亡くなっていく人が半分もいるのです。これが今の急性白血病治療の現実です。しゃにむに白血病治療に取り組んできた私にとってはショックなことではありました。こんなに頑張っても治すことができず、死んでいく人がいる…(考えてみれば当たり前のことではあるのですが)。
亡くなっていく人の最期を看取りながら、私は死というものを考えざるを得なくなりました。

一般の方達にとって、人はいつか死ぬということは漠然としたイメージとして感じておられると思いますが、私にとってはより現実的です。いつか必ず死ぬのであれば、それまでをどう生きるか、明日生きているという確実な保証がないのであれば、今日をどう生きるか…、毎日毎日を大切にしたいと思うのです。
多くの方々は死を怖いと思うようですが、私にはそのような恐怖感はありません。たとえ明日死んだとしても、特に悔いはありません(できれば突然死は避けたいと思っています)。ただ、家族や今まで懇意にしていただいた方達とお別れしなければならないのは寂しいことですが…。

ヒトには寿命があり、だからこそ生きていることを大事にしなければならないと私は思うのですが、今のように死が隠蔽され、誰も死なないかのような誤解を与える社会において、人が死ぬとどうなるか見てみたかったという理由で人を殺す若者がいたり、いじめで自殺にまで追い込むことに罪悪感を感じない子どもがいたりするのは、ひょっとすると当たり前なのかなという気もします。
前にも申し上げたことがありますが、子どもに死を教えるということはとても重要です。子どもは8歳くらいで死を理解すると言われています。祖父母あるいは両親が亡くなるときに、可哀そうだからという大人の一方的な考えで子どもを遠ざけてしまうことがありますが、かえって子どもの心に傷を残します。肉親の死は、大人にとっても子どもにとってもつらく悲しいものです。亡くなっていく人の前で、大人も子どもも一緒に涙を流すことで悲しみを共有することは、生きていることの大切さを子どもに理解させる重要な機会ではないかと思います。
一度死んでもまた生き返るゲームの世界に浸かってしまっている子ども達に、人が死ぬとはどういうことか、そして生きているということがどれだけ大切なのかを理解してもらうには、死を教える必要があるのではないでしょうか。

皆さんはどのような死生観をお持ちでしょうか。死なんて縁起が悪いなどとおっしゃらずに、どこかで死について考える機会を持ってもいいのではないでしょうか。もちろん常に死のことばかり考える必要はありません。斯く言う私だって、いつも死を考えているわけではありません。たまに、でいいのです。あっ、そういえば人間って寿命があって、いつかは死ぬんだよな、という感じでいいのです。そのことがきっと皆さんが生きることに豊かさを与えてくれるのではないかと思うのですが、如何でしょうか。

平成30年4月19日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

人事異動

平成29年度も残りわずかとなりました。行政機関あるいは一般企業、そして当院も、人事異動の時期でもあります。先日テレビ番組で財務省他各省庁の官僚の人事が話題になっていましたが、人事は不思議なことだらけです。
人を動かす部署(人事部)はいったいどういう思惑で人を異動させるのでしょうか。

当院は新潟県厚生農業協同組合連合会(新潟県厚生連)という組織に属する病院なので、定期的な組織内の異動があります。医師以外の看護師、薬剤師他各職種の人達は、厚生連本部の指示で様々な病院に異動します。私は病院長という立場ですが、人事異動については全く蚊帳の外です。意見を求められることもありません。もっとも病院長が人事に口を挟むとうまく回らない可能性がありますので、これも仕方がないのかなと思っています。

医師については病院間の異動ということはまずありません。各病院の常勤医は基本的には定年までずっと同じ病院に勤務します。それ以外に大学から派遣される若手医師が1~2年の周期で出入りします。さらに大学からは外来などの助勤という形で手を貸していただいています。

厚生連の人事異動がどういう基準で行われるのか私にはわかりませんが、2~3年で動く人がけっこういます。新しい所に移って来て、漸く慣れてさあこれから、というときに、はい、異動ですよ、というのは、本人にとっても病院にとってもあまり望ましいことではないと、私は考えています。
新人がいろいろなことを経験するために短期間で異動するのは意味があると思いますが、ある程度経験を積んで実績もあり、今後の活躍を期待されている人が突然異動ということがあります。それなりの年代で家庭を持っている人であれば、単身赴任を余儀なくされるという場合もあります。

人事異動は組織を活性化すると言われますが、必ずしもそうとは言えない場合もあるようです。以前県立病院に勤務していた某医師から、県立病院の事務職員は2~3年で異動することが多く、そのため仕事に集中できず、とにかくじっとして波風立てず、可もなく不可もなく過ごせばいいと考えているようだ、という話を聞いたことがあります。これが事実なら、いったい何のための異動? と言いたくなりますね。

ある部署で一つの仕事を成し遂げるためには少なくとも5年は必要と私は考えています。2~3年では無理です。異動させるのであれば、本人にとっても病院にとっても、そして組織にとってもメリットのある異動であってほしいと思います。

今の医療はチーム医療です。その実践の場である病院でチーム医療が機能するような異動であってほしい、しょっちゅうメンバーが変わってチームとしての活動に支障をきたすことがないよう、配慮してほしいと思います。

4月1日付けで大勢の人が異動します。これまで一緒に仕事をしてきた仲間がいなくなるのは寂しいことですが、次の職場で飛躍されることを願って送り出したいと思います。
また、新たに当院のスタッフとして加わる方に対しては、心より歓迎の意を表したいと思います。早く馴染んで、実力を発揮してほしい、そして、プロとしての自覚と自信と誇りを持って、謙虚さを忘れることなく、地域住民のために「いい医療」を提供してほしい、病院長としての切なる願いです。

人事異動のために、暫くは市民の皆さんにご迷惑をおかけすることがあるかもしれません。どうかご容赦いただきたく、お願い申し上げます。

平成30年3月29日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

オンライン診療

皆さんは「オンライン診療」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。
通常は医師と患者とが対面で話をし、医師は聴診器を当てたりお腹を触ったりして診察をし、必要なら検査を行い、患者の状態を判断するということになるのですが、オンライン診療ではパソコンやスマホなどの通信機器を介して医師が患者の診察をするということになります。診察とは言っても医師は画面を通して患者の表情を見ることぐらいしかできません。血圧を測ったり脈を触れたり、心音・呼吸音を聴いたり、お腹に何か異常がないかを確認することはできません。血圧については手元に自動血圧計を持っていれば、その測定値を画面を通して医師に見せれば事足りますが…。

オンライン診療は元々は離島や山間へき地など、患者が医療機関を受診することが難しい、あるいは医師の往診が困難な地域を対象として認められたものですが、3年ほど前に適応が拡大されました。病状の安定している患者であれば対面診療でなくオンライン診療でもOKということになったのです。国としては地方の医師不足に対応するためのいい方策と考えているのでしょう。この4月からは診療報酬上も手厚く評価されることになります。

でも…、と昔ながらの古い医者は考えます。ホントにそれでいいのかな…。

私は医療は「人と人」だと思っています。患者さんの訴えを聞き、時には世間話(実際にはなかなか時間がとれないことが多いのですが)をし、頸部を触って異常の有無をチェックし、聴診器を当て、お腹を触る、下腿にむくみがないかどうかを確認するといった一連の診察が、医師・患者関係を築くにはとても大事なことなのではないかと思うのです。

「手当て」という言葉があります。病気やけがに対する治療、処置を意味します。昔医療が十分な治療技術を持っていなかった時代、医師あるいは看護師が患者に手を触れることが、患者の安心感に繋がったとされています。医療にとってはとても大切な行為なのです。
でも最近は、パソコンばかり見ていて患者と目を合わせない医者がいるとか、ろくに診察もせずにすぐに検査をオーダーする医者がいるとか、いろいろ批判をされます。昔に比べると「手当て」の意義が薄れてきているのでしょう。時代が変わったのです。そうであればオンライン診療もこれからは当たり前となっていくのかもしれません。

人工知能やロボット技術が進歩して、いずれ病気の診断に関しては人間を上回ることになるでしょう。「病気」を診る分にはそれでいいのかもしれません。でも医師の本来の仕事というのは「病気を抱えた人を診ること」なのではないかと思うのですが…。
時流に乗れない高齢医師のボヤキでしょうか。

いずれにしても、今後の医療がどうなっていくのかは皆さん次第です。皆さんがどういう医療を受けたいとお考えなのか、それをしっかり意思表示することが、これからの医療の方向を決めることになります。

 平成30年3月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

診療報酬改定

中央社会保険医療協議会(中医協)が2月7日、2018年度診療報酬改定を厚生労働大臣に答申しました…、なぁーんて言っても、多くの方々にとっては他人事だろうと思います。実際に医療機関にかかっておられる方であっても、「何のこと?」という感じでしょうか。

日本には国民皆保険という世界的にも優れた制度があります。前にもお話ししましたが、ここでもう一度簡単にご説明します。

国民全てが保険料を納め、それがプールされます。あなたが病気になって医療機関を受診します。診察を受け、診断のために必要な検査を受けます。そして入院だったり、外来治療だったり…、手術を受けたり、薬による治療だったり…。これらを医療サービスと呼びますが、その全てにお金がかかります。サービスはただではありません。とは言っても、かかったお金をあなたが全て支払うわけではありません。一部(原則3割)はあなたが負担しますが、残りの分については医療機関は医療サービスの代価を保険者(プールされたお金を管理している組織です)に請求し、支払ってもらうのです。
一つ一つの医療サービスは厚生労働省による公定価格がつけられています。外来で診療を受けるといくら、入院するといくら、この検査はいくら、この薬はいくら、この注射はいくら、といった具合です。あなたが受けた医療サービスが総計いくらであったかを医療機関は一月ごとにまとめ、診療報酬明細書(レセプトと言います)をつくって保険者に請求します。
最近は入院についてはDPCという包括制度(この病気で入院した場合には全てひっくるめていくら)が導入され、病院の多くはそれを採用しています。詳細は省きますが、DPCであってもかかった費用を保険者に請求するのは同様です。
ただし、保険者も医療機関も数が多く、個別にやり取りするのは大変なので、都道府県ごとにある二つの審査支払機関(社会保険診療報酬支払基金、国民健康保険団体連合会)が請求を受け、内容をチェックした上でお金のやり取りを代行しています。

お分かりいただけましたか?

医療サービスの公定価格は2年毎に中医協の場で議論され、改定されます。医療機関の収入は、そのほとんどを診療報酬に依拠しておりますので、どのような改定が行われるのかは医療機関にとっては重大事です。今回も病院運営にかかわる根幹的な部分の見直し・変更がありました。

これまでは「一般病棟入院基本料」というものがあり、看護職員の配置(単純に言うと、1日24時間を平均して何人の患者さんに対して看護師1名が勤務しているかを表現したもので、15対1、13対1、10対1、7対1の4種類があり、7対1が最も手厚い看護体制ということになります)によって病院が得られる報酬が違っていました(当然ながら7対1が最も高い)。
以前7対1が導入されたとき、多くの病院がこぞってそちらに移行し、看護師の奪い合いという事態を招きました。また7対1の病院が増えればそれだけ医療費が増えることになります。
もともと国は、頑張って急性期医療を提供している病院の努力に報いるべく7対1を導入したのであって、そこに移行するのはごく一部の大病院と考えていたようです。ところがその思惑がはずれて多くの中小病院が7対1に移行したことでかえって医療費の増大に繋がったため、以後何とか7対1の病院を減らすべく、診療報酬改定のたびに締め付けを強めて来ました。
首都圏には7対1看護を標榜していても、それに見合った医療を提供できていない病院が多々あり、国はそういった中小病院をターゲットとして、10対1に引きずりおろそうと画策しているというのが実情です。

ところがその煽りを地方の病院が受けることになりました。たとえば当院の場合、7対1看護基準をとっていますが、これを維持するためには「平均在院日数」が18日以内、「重症度、医療・看護必要度」が25%以上(つまり入院患者のうち、重症で手のかかる人が25%以上いますよということです)という縛りがあります。これまではなんとかクリアしてきましたが、今回の改定で「重症度、医療・看護必要度」が30%以上に引き上げられました。そうなるとこの4月以降はその基準を達成することがとても難しくなります。

何故なのか。当院は基本的には急性期医療を提供する病院であり、事実年間2,500台前後の救急搬送を受け入れ、柏崎地域の皆さんのためにという使命感のもと、スタッフの数が十分でない中それぞれが奮闘しています。しかし一方で急性期の医療は必要なくなったのに、その後の転院先がみつからず、当院での入院を継続せざるを得ない方がかなりおられます。当然その方達の「重症度、医療・看護必要度」は低くなります。「重症度、医療・看護必要度」の高い方と低い方とが混在しているため、病院全体を均すと基準ギリギリとなってしまうのです。
都会の大病院であれば急性期を過ぎた患者さんは別の病院へどうぞ、で済むのでしょうが、地方の多くの病院はそうはいきません。特に柏崎地域には活用できる慢性期病床がほとんどありません。退院可能な状態であっても、退院先がなかなか見つからないのが実情です。

業務内容を考えると、当院は何としても7対1看護基準を維持しなければなりません。10対1に落とした場合には、必要な医療サービスの提供に支障をきたすことになります。また看護師の負担が大きくなるのは間違いありません。でも国の定めた縛りをクリアできなければ…。

さてどうしたものか、病院長として頭を悩ませている昨今です。

平成30年2月22日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

うわさ

以前患者さんのご家族からこう言われたことがあります。「お世話になりました。皆さんに親切にしていただいて、本当にありがとうございました。うわさに聞いていたよりはずっといい病院ですね。」
私はとても複雑な思いを抱きました。褒めていただいたのはとてもありがたいことなのですが、「うわさ? いったいどんなうわさ?」という思いがずっと尾を引きました。

人は皆、噂話が好きです。真実かどうかを確かめもせず、すぐに信じてしまいます。そして尾ひれがついて拡がっていきます。
私が直接耳にするのは稀なのですが、当院に関しては様々な「うわさ」があるようです。最近出前講座に出かけたある会場で、「柏崎総合医療センターの某先生は、どこか別の病院で医療ミスを犯してその病院にいられなくなり、総合医療センターに来たという話を聞いたのですが…」ということを言われました。私は「はあ~っ?」と言うしかありませんでした。もちろん事実無根です。思い切って発言して下さった方には感謝しますが、私の心の中は怒りでいっぱいでした。いったい誰が、何の目的でそういう根も葉もない悪質なうわさを流すのでしょうか。

「柏崎総合医療センターは紹介状がなければ診てもらえないのでしょうか」というご質問もよくいただきます。これもそういう「うわさ」が流れているためと思われます。前にも申し上げたように、当院は整形外科だけは紹介状をお持ちいただくようお願いしておりますが、他科については直接来院されてもOKです。本当はかかりつけ医からの紹介状を持って受診していただくのがベターなのですが、かかりつけ医を持っていない方もいらっしゃいますので、診療を拒否するようなことはありません。

国は病院を受診する患者を減らすべく、紹介状を持たずに大病院を受診した場合には、5,000円以上の特別料金を徴収するよう病院側に求めています。これまでは500床以上の病院が対象だったのですが、この4月以降は400床以上に引き下げられ、当院も該当することになります。
国の言う「普段はかかりつけ医、必要時に病院」という役割分担構想はわからないわけではありません。でも大都会ですぐ近くに開業医がいて、というのならいいのですが、地方ではそれほど医療資源が整っているわけではありません。病院を直接受診せざるを得ない人々が大勢いるということを、なぜ国は理解しようとしないのでしょうか。都会と地方で政策内容を違えるわけにはいかないということなのでしょうか。

話が横道に逸れてしまいましたが、悪意に満ちたうわさは一生懸命頑張っている病院職員を傷つけます。もしご不満や疑問な点がございましたら、是非その場でおっしゃって下さい。それが難しければ、投書でお知らせください。病院として責任を持って回答いたします。ご記名いただければ直接回答を郵送させていただきます。

当院の現状がベストでないことは十分承知しております。医師、看護師などスタッフ不足が皆様にご迷惑をおかけしていることも確かです。何とか改善に向けて努力はしているつもりですが、簡単には解決しません。でも今の状態でできる限りいい医療を皆様に提供していかなければなりません。当院スタッフは、全員がそのために努力しています
人の口に戸は立たぬ(立てられぬ)と言いますが、できることなら他人から聞いた話は是非あなたのところで止めていただきたいと思います。そしてホントかなとお思いになったら、ご自身の目で確認していただければありがたいと思います。

皆様のほとんどはいつか医療を必要とし、医療機関にかかることになると思います。その際に不信感を抱きながら病院にかかっても、けっして満足のいく医療は受けられません。いい医療のためには、皆様と私達医療側との信頼関係が何よりも重要なのです。
信頼関係を築くにはどうすればいいのか…、お互いを知り、理解し、お互いに敬意を払う、そして医療というものを理解する、それしかありません。根拠のないうわさに惑わされずに、しっかりと当院を、そしてそこで働くスタッフを見ていただきたいと思います。

平成30年2月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

自然災害への備え

1月22日、首都圏で大雪が降りました。大雪とは言ってもせいぜい20センチ程度の積雪で、雪国の人々からみれば「なんだ、たいしたことないじゃん」と思いますよね。でも普段ほとんど雪の降らない地域の人々にとっては「大雪」なのでしょう。実際交通機関に大きな影響が出、滑ってころんでけがをする人が続出したようです。
雪国で生活する者にとっては「たまには東京にも雪が降って、雪国の大変さを味わってもらうのも悪くない」と思ったりもしますが、不謹慎でしょうか。

前日から大雪に警戒するよう報道がなされているにもかかわらず、普通タイヤで車を走らせ、スリップして事故を起こしたり、坂道を登れなかったりという事案が相次いでいます。雪国の人間にとって、雪道を普通タイヤで走るなんて、自殺行為にも等しいと思うのですが、東京の住民にはそういう危機意識はないようです。「経験」がないから仕方ないのでしょうね。
経験がないのなら経験者の言葉に耳を傾ければいいのでしょうが、多くの人はまあなんとかなるだろう、自分だけは大丈夫という妙な思い込みがあるようです。

健康あるいは病気に関しても同様です。自分は死なない、病気にはならないという根拠のない思い込み、中には自分は健康には自信があるという方もいらっしゃいますが、私に言わせれば「全くナンセンス」です。ヒトはいつか必ずお迎えが来ます。ほとんどの方が何らかの病気に罹ります。であれば、自分が病気になったときにはどうするのか、ある程度の心構えを持っていた方がいいのではないでしょうか。

さて、首都圏に関しては、将来高い確率で大地震が起こることが予測されていますが、今回のようにちょっとの雪で大きな影響が出るようでは、実際に首都直下型地震が起こった場合の被害は想像もつきません。多くの住民は地震に関しては他人事で、きちんと備えをしているようには見えません。被害が国の予想を上回るであろうことは、たぶん確実と思われます。

将来新型インフルエンザが流行した場合、大勢の死者が出ることが予想されていますが、多くの人々にとってはこれも他人事です。流行時に感染を防ぐには、外へ出ずに家の中にこもっているのがベストなのですが、果たしてどれだけの人がそれを守れるでしょうか。

政府の一番の仕事は国民の命を守ることではないかと思います。北朝鮮が核開発に邁進し、いつか日本に核ミサイルが飛んでくるのでは、という懸念のもと、防衛費が増額されるようですが、自然災害に対する備えに対してももっとお金をかけてもいいのではないでしょうか。それとも自然災害に対しては「想定外」で済ませてしまうつもりなのでしょうか。

1月23日に草津本白根山が突然噴火しました。近くで訓練中だった自衛隊員のうち一人が噴石に当たって死亡、他の隊員とスキー客10数名がけがをしたとのこと。
最後の噴火が3,000年前で、全く「想定外」だったとのことです。
自然の活動を予測したりコントロールしようとしたりするのは、人間のおごりでしかないのかもしれません。そうであれば起こり得ることに対しては可能な範囲で準備を整えることが必要なのではないでしょうか。

平成30年1月25日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

将来の夢

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

先日、子ども達に「大人になったらなりたいもの」を尋ねたアンケート結果が第一生命保険から発表されました。
男の子の第一位は「学者・博士」、以下「野球選手」、「サッカー選手」、「警察官・刑事」、「お医者さん」と続きます。
一方女の子の第一位は「食べ物屋さん」で、21年連続とのこと。二位以下は「看護師さん」、「保育園・幼稚園の先生」、「お医者さん」、「学校の先生」の順です。
医療に携わる者としては、「お医者さん」「看護師さん」が上位にランクされたのは嬉しいことです。とりあえず現実の厳しさは置いておき、医師・看護師が子ども達の夢の対象であることは、我々の仕事も捨てたもんじゃないなと、ひとりほくそ笑んでいます。子ども達が今思い描いている夢に向かって歩んでくれることを願っています。

皆さんは子供の頃どんな夢をお持ちだったでしょうか。
私は当時絶大な人気を誇ったスーパースター長嶋茂雄に憧れ、将来はプロ野球選手に、と思ったような覚えがあります。たぶんその頃の子ども達はみんなそう思ったのかもしれません。実際中学校・高校時代は野球に明け暮れましたが、段々自分の力を悟るようになり、プロ野球選手への道は断念しました。

高校3年の夏、甲子園を目指した県大会で敗れた時点で、自分の将来を考えざるを得なくなりました。これっ、といった特別な動機があったわけではないのですが、なぜか医学部に進学し、国家試験に合格して医師になりました。この時点ではどういう医師になりたいというような具体的な目標は持っていませんでした。
今もそうですが、医学部を卒業したからすぐに医師として第一線で働けるわけではなく、2年間の臨床研修を行うことになります。現在の研修は科を限定せず、内科、外科、産婦人科、小児科、精神科など様々な科で研修を受けるのですが、当時は卒業時点で専攻科を決めていました。私は内科を専攻し、秋田赤十字病院で研修し、2年間様々な経験を積みました。
内科もいろいろな分野があり、最初は循環器分野に興味を持ったのですが、当時は狭心症あるいは心筋梗塞の診断をつけても内科医は積極的な治療手段を持っていませんでした。今でこそPTCAと呼ばれる詰まった血管を再開させる治療を内科医が行っていますが、当時はバイパス手術のために心臓血管外科に紹介していました。血気盛んだった私はそれに納得できず、診断から治療まで、場合によっては看取りまで全ての段階で患者さんに関われる科、外科には手が出せない科ということで血液内科を選ぶことになりました。今思うととても大それた選択だったなと思います。
現在は循環器内科のみならず、消化器内科などでも内視鏡で早期がんを摘出したり、治療技術を持っています。そういう点では今の医学生・研修医は何を専攻するか、選択に迷うかもしれません。

2年間の研修を終え、新潟大学第一内科に入局し、血液グループに所属しました。2年間の研修である程度の知識と技術を身に着けたつもりだったのですが、先輩達の偉大さを見せつけられ、圧倒され、自分はこの人たちと一緒にやっていけるんだろうかと不安になったことを覚えています。
血液疾患の一つに急性白血病という病気がありますが、当時この病気は治りませんでした。何らなすすべなく、あっという間に死んでしまうと言われた病気でした。ただこの頃から少しずつ治療が進歩し、抗がん剤治療をすることでとりあえず寛解状態(治ったわけではなく、白血病細胞が目に見えない状態)に持ち込めるようになっていました。しかしほとんどが再発し、1年以上生存する人はせいぜい10人にひとりという状態でした。
大学病院の個室に入院している患者さんの具合が悪く、どうすればいいのかわからず、患者さんの部屋の前でドアを開けられずに立ちすくんでいたこともあります。
また病名告知はなされていませんでしたが、患者さんはいろいろな情報を得て、自分が白血病であることを知っていました。ある時ひとりの患者さんに「先生、私って白血病なんでしょ」と訊かれたことがあります。その時私がどう答えたかよく覚えていませんが、そそくさと部屋をでたことだけは記憶に残っています。
なんとか白血病を治したいという思いがその後の私の進む道を決めることになりました。
先輩達とともに当時の最新治療であった骨髄移植(造血幹細胞移植)に取り組み、少しずつ成果が上がるようになりました。
そして平成元年に長岡赤十字病院に赴任、夜も昼もない、休日もないという今考えてみると過労死しなかったことが不思議なくらいの仕事をしました。丁度20年長岡赤十字病院に在籍しましたが、辞めるにあたって20年間の急性白血病の治療成績をまとめてみたら、ほぼ半分の人が治るという結果でした。もちろん私ひとりの力ではなく、血液学そのものの進歩と全国の血液内科医の努力が結実した結果ではあるのですが、つらいことも一杯あったけれど、血液内科を専攻してよかったと思いました。

急性白血病という病気が治るようになったとは言っても、まだ半分です。私達はこれからも努力していかなければなりません。ただ私自身は齢をとって以前のようにがむしゃらに仕事をすることはかなわなくなりました。これからは若い後輩達に私の夢を託したいと思います。

夢は、その実現に向かって努力すれば必ずかなうと誰かが言っていたような気がします。
子ども達は10年、20年先、場合によっては50年先の夢をえがくことは可能でしょうが、私のように齢をとってくると、もはや10年先のことを考えるのは難しくなります。実際私は10年先のことは考えません。でも5年単位であれば夢を描くことは可能だろうと思っています。
齢をとったから夢を見ちゃいけないなんてことはありません。確かに現実的にならざるを得ない部分はありますが、でも夢を持ち続けることは必要なのではないでしょうか。
是非皆さんも自分なりの夢を持って下さい。

そして齢をとった方達は、子ども達や若い人々の夢を支え、見守ってあげましょう。子ども達や若い人々が大きな夢を持ち、その実現に向かって頑張るのを、暖かく見守ることのできる社会であることを心より願っています。

平成30年1月11日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

柏崎地域の医療の将来に思いをはせて、一年を締めくくります

2017年も残りわずかとなりました。当院をご利用いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

当院は昭和12年に開設許可を得て、2年後の昭和14年に開院しました。そして今年、開設許可後80周年を迎えました。当院がここまで来ることができましたのは、ひとえに地域の皆様のご支援の賜物であり、心より感謝申し上げます。
今後も柏崎刈羽地域の基幹病院として、地域の皆様に「いい医療」を提供すべく、職員一同心を合わせて努力して参りたいと思っております。どうかよろしくお願い申し上げます。

「いい医療」と言いましても、どういう医療が「いい医療」なのかは定義するのは難しいところがあります。皆様がお考えになるものと私達が考えるものとは違っているかもしれません。また皆様一人一人のお考えにも違いがあるかもしれません。しかし「いい医療」を実践するためには、皆様と私達医療側との認識のギャップを埋めなければなりません。

医療は皆様のお役に立ちますが限界があり、不確実で、「絶対」ということはあり得ないこと、医療にはそれなりのリスクがあること、けっしてうまくいって当たり前ではなく、やってみなければわからないということ、等、皆様の医療についての誤解を正すべく、今年の6月以降、柏崎市のご協力を得て市内の各コミュニティを回って話をさせていただきました。
皆様にとっては医療は身近にあって当たり前、夜間であろうと休日であろうと、どんなときでも診てくれるのは当たり前、医療機関にかかれば病気はみんな良くなるはずとお考えかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。

国は今、高騰する医療費削減を目的に、医療体制の変革を目論んでいます。一言でいえば「病院から在宅へ」。つまり、病院に入院していると様々な医療行為が行われてお金がかかるため、早く退院して自宅(あるいは施設)に戻りなさい、そして地域全体で患者さんのサポートをしましょうというわけです。これを「地域包括ケアシステム」と呼びます。確かに考え方としては悪くはありません。高齢者にとって病院は生活の場としては不適当ですので、必要な治療が済んだらできるだけ早く自宅に戻るというのは、たぶん皆様も「うん、そうだよね」と肯かれるのではないかと思います。
でも自宅で誰が面倒をみるのですか? 昔のような大家族で、誰か世話をすることができる人がいることなど期待できません。二世代、三世代同居であっても、若い人は仕事に出ていて日中はいない場合もあります。多くの高齢者は夫婦二人暮らしあるいは独居です。退院して自宅に帰りたいと思っても、帰れない人もいるのです。
また、介護スタッフの不足のために、介護施設も十分確保されているとは言えないのが現状です。
そのような現実から目を背けて、とにかく「在宅」という国の姿勢は容認できません。「在宅」を押し進めようとするのなら、その環境整備のために国は力を尽くすべきです。
それなら病院に入院したままでいれば、とおっしゃる方もいるかもしれません。でも国はそれができないように診療報酬上で様々な締め付けをしてきています。病院としては経営を維持するためには長期入院は避けざるを得ないのです。

「かかりつけ医」を持ちましょうということもよく言われます。普段はかかりつけ医、必要時に病院へ、ということなのですが、これも今の病院の状況を鑑みた場合、正論です。慢性病を抱えた多くの高齢者が病院に押し寄せるというのは、病院にとっても患者さん自身にとっても大変です。病院は病院でなければできない医療に集中すべきと、私自身も思っています。しかしこういう役割分担は、都会なら可能かもしれませんが、人口密度が低く、カバーしなければならない一つの範囲が広い地方(もちろん新潟県もその一つです)では無理なのです。
柏崎のことを考えてみて下さい。人口は市街地に集中し、開業しておられる先生方もほとんどが市の中心部です。郊外の山沿いの地域の医療資源が乏しいことはおわかりになると思います。冬、雪が降ったとき、患者さんが診療所まで出かけるのも大変ですし、逆に診療所に来れない患者さんの自宅まで医師が往診するのも容易ではありません。非効率でもあります。バスに乗って、あるいは家族に車で送ってもらって中心部の病院に来る方が、ずっと便利で現実的なのです。
でも、かかりつけ医を持つことは大切です。病院の医師はほとんどが専門医で、自分の専門に関しては力を発揮しますが、専門外のことについては不得手です。あなたという一人の人全体を診るかかりつけ医としては適切とは言えません。可能であれば近くの開業医・診療所の先生と仲良くしてお互いの信頼関係を築き、普段のあなたを知っておいてもらうことがとても重要です。病院での医療が必要であれば、かかりつけ医の先生は自分が信頼している適切な病院を紹介してくれます。紹介状をお持ちになって病院を受診する方が、その後の流れはスムーズなのです。

現在の国民皆保険制度をなんとか維持したい、そのために医療費の高騰を抑えたいという国の思いも理解できないわけではありません。そしておそらく私達下々の者が何を言っても、医療政策は国の意向に沿って進められていくに違いありません。でも、何を言ってもどうせ無駄さとあきらめてしまったのでは、貧乏くじを引くのは私達自身なのです。

柏崎地域の皆様は医療の大切さを自覚し、医療体制の整備を求めておられます。でも何もしないでじっとしていても、その願いはかなえられません。柏崎の医療の将来を、他人事ではなく自分のこととして考える必要があります。柏崎の現状を理解し、限られた医療資源をどう活用していけばいいのか、国の方針と擦り合わせながら柏崎の医療をどうしていくのが現実的なのか、私達と一緒に考え、行動を起こしていただけませんか?

このコラムも最近は柏崎地域の医療の現状と将来についての内容が多くなって来て、中には聞き飽きたとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。でもそれだけ私が危機感を抱いているんだということをご理解いただければ幸いです。

どうかよいお年をお迎えください。

平成29年12月21日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

病院開設許可80周年記念行事のご報告

当院の開設許可80周年記念行事を予定通り開催し、無事終了いたしました。お忙しい中柏崎の地にお出でいただいた講師の皆様、そしてパネリストとしてご協力いただいた皆様に、心より御礼申し上げます。
また悪天候にもかかわらず会場まで足をお運び下さった市民の皆様、どうもありがとうございました。

11月11日には「がんとの付き合い方」をテーマとした講演会を開催いたしました。ご自身が乳がんを体験されたフリーアナウンサーの伊勢みずほ氏、がんの患者さんやご家族、あるいはご遺族の心のケアを専門としておられる埼玉医科大学国際医療センター精神腫瘍科教授の大西秀樹氏、そして笑いの大切さを広く訴えておられる笑医塾塾長で癒しの環境研究会理事長の高柳和江氏の3氏を講師としてお迎えしました。

午前10時に開会し、まず伊勢みずほ氏が「病を授かって見えたもの~キャンサーギフトという生き方~」という題で講演されました。笑顔とキラキラした瞳が印象的でした。いろいろお考えになること、悩むことがおありなのでしょうが、素敵なご主人のことにも触れられ、お二人で頑張っておられる様子が伝わって来ました。いつか、そういえば昔こんなこともあったね、と振り返る日が来ることを心より願っております。

次いで大西秀樹氏のお話を伺いました。テーマは「がん医療に欠かせない心のケア~より良く医療を受けるために~」。
優しい穏やかな口調でご自身のお仕事について述べられました。私自身は先生のお話を伺うのは学会でのご講演も含めて3回目ですが、毎回心に響くお話をされ、是非他の方々にも耳を傾けていただきたいと思い、今回お出でいただきました。参加された方はおわかりだと思いますが、こんな先生なら何でも聞いてもらえそう、何でも話せそうという印象を持たれたのではないでしょうか。
精神腫瘍学という言葉は耳慣れないかもしれませんが、今後是非専門医が増えてがん患者さんやご家族のケアが充実していけば、と願うばかりです。

お昼はランチョンコンサートという形で、当院の80年の歩みを当時のヒット曲とともにふり返ってみました。ジャズバンドのMINTの皆さんのご協力のもと、私と私の友人の多田洋子とで25曲を歌わせていただきました。耳を傾けていただいた方々に御礼申し上げます。

午後は高柳和江氏の講演でした。「がんでも楽しく笑って生きる」。
高柳先生は小児外科医として10年クウェートでご活躍されたのち帰国、医療環境の彼我の違いを痛感され、癒しの環境研究会を立ち上げるとともに、笑うことが如何に大事かということを、全国で講演をされながら情報発信をしていらっしゃいます。
小柄なお身体を真っ赤なスーツに包み、壇上所狭しと動き回りながらの精力的なご講演でした。会場は笑いに満ち溢れ、とてもいい時間を過ごさせていただきました。
先生のお話の中で、「がんをやっつけるには『生きると決めることが大切』」という言葉があったのですが、伊勢みずほさんがとても感動されて、終了後先生の楽屋に足を運ばれ、「生きると決めました」と宣言されたそうです(伊勢みずほオフィシャルブログ)。

3人の講師のお話を伺った後、私と植木副院長が加わってパネルディスカッションを行いました。FMピッカラの高橋裕美さんを進行役に、がんの予防、早期発見の重要性、検診の意義、治療の概略、緩和ケア、がんと仕事などについて話し合い、無事一日の行事を終了しました。

お出でいただいた方からはとてもよかったという感想をいただき、準備は大変だったけど企画してよかったと思いました。お出でいただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

11月23日には「柏崎刈羽地域の医療の現状を理解し、将来の方向を見定める」というテーマでのパネルディスカッションを行いました。
私の基調講演に引き続き、櫻井柏崎市長、品田刈羽村長、永瀬保健所長、国立病院機構新潟病院の中島病院長、星山柏崎中央病院長、西川柏崎市コミュニティ推進協議会長、高木柏崎市刈羽郡医師会長にご登壇いただき、私も加わって、高木先生の司会のもと、活発な意見交換がなされました。
主なテーマは医師不足、かかりつけ医、地域医療構想で、それぞれの立場から様々なご意見が出されました。私自身は柏崎刈羽地域の医療が現状のまま維持できるのかという危機感を抱いているのですが、パネリストおよびご来場の皆様に少しでもご理解いただけたのであれば幸いです。最後に会場からとても素晴らしいご意見をいただき、終了となりました。

いい医療のためには人が必要です。医師だけでなく、看護師、薬剤師、リハビリ技士なども必要です。柏崎に人を呼び込むにはどうすればいいのか、みんなで考えなければなりません。
また地域の人々が上手に医療と向き合わないと、当地域の医療が崩壊する可能性もないわけではありません。これを機に、柏崎刈羽地域の医療をどうしていくべきなのかを、それぞれの立場で考えていただきたいと思います。

両日とも大荒れの天候だったのですが、その中を会場まで足をお運びいただいた方々に、厚く御礼申し上げます。

最後にこの場を借りて、準備のために奔走してくれた当院の職員に心より感謝を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

平成29年11月30日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

医療保険の無駄遣い

ヒルドイドという塗り薬が話題になっています。

ヒルドイドの主成分はヘパリン類似物質であり、外傷などの炎症に伴う腫脹、血行障害、肥厚性瘢痕やケロイドなどに用いられる薬です。ソフト軟膏、クリーム、ローション、ゲルの4タイプがあります。
ヒルドイドは角質内の水分保持能力に優れていることから、皮脂欠乏症にも用いられます。さらにアトピー性皮膚炎に伴う乾皮症にも使われることがあります。

このヒルドイドの処方量が急激に増加しているそうです。それも本来の使用目的から外れた「美容クリーム」として使われているとのこと。保湿効果があるために「お肌しっとり」ということなのでしょうが、本当に役に立つのかどうかは別として、適応外使用であることは明らかです。

ヒルドイドは医薬品で、たとえば50グラム入りの軟膏やクリームは1,185円の価格ですが、保険が効きますので実際の自己負担額は350円程度です。塵も積もれば山となるで、50グラムが10万人に処方されれば8千万以上の保険からの持ち出しになります。
医療保険というのは、収入の少ない人であっても必要な医療がきちんと受けられるようにということでの互助制度ですから、不適切使用の薬代が保険で賄われるというのは許容できないことだと思います。
通常はこういう不適切使用をチェックするために支払基金や国保連合会といった審査機関があるのですが、なぜかすり抜けてしまったようです。もっともレセプトにヒルドイドが適応となる病名が記載されていれば、チェックをすり抜けるのも止むを得ないかもしれません。

厚生労働省の調査によれば、ヒルドイド25グラムチューブは通常は処方するにしてもせいぜい4本位なのに、1回50本以上処方されている例もあったそうです。そうなると、処方する医師の側にも問題がありそうです。

ヒルドイドを美容クリームとして使っている人は、医療機関で処方してもらえば安く手に入るとお考えなのでしょうが、そうすることが医療費高騰の原因の一部を担っているという自覚を持つべきでしょう。同効品が市販されているようですから、必要な人は自費で購入すればすむことです。

このようなことをきっかけに、厚労省の医療への締め付けが強くならなければいいが、と危惧しています。

 平成29年11月16日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

いい医療の日

日本医師会は1947年11月1日に設立され、今年で70周年を迎えます。それを記念して、11月1日を「いい(11)医(1)療の日」とすることを日本記念日協会に申請し、登録されました。より良い医療の在り方について、国民と医師とが共に考えながら、さらなる国民医療の向上に寄与していくことが目的、と日本医師会の横倉会長が述べています。

「いい医療」とはどういうものか、たぶん様々な意見があると思います。皆さんと医療側との間での違いはあるでしょうし、皆さん一人一人、あるいは医療側においてもそれぞれの考え方は違っているかもしれません。それを一つにまとめることは難しいですし、一つにまとめる必要もないと思います。しかしそうは言ってもそれぞれの思いが全くバラバラでは「いい医療」を実践することはできません。それぞれの思いをすり合わせながら、あるところで妥協点を見出す必要はありそうです。
皆さんは医療というものをどこまで理解していらっしゃるでしょうか。
私はこれまで、皆さんに「いい医療」を受けていただきたい、そして私自身も皆さんに「いい医療」を提供したいという思いで、医師としての仕事に従事して参りました。その過程で、どうも一般の方々は医療というものを十分理解しておられないのではないかという思いを抱き、皆さんと私達医療側との思いのギャップを埋めるべく努力して参りました。このコラムを書いているのもその一つです。
医療はもともと不確実で限界があります。そのことを理解した上で患者側と医療側との信頼関係を築かなければなりません。うまくいって当たり前、結果が悪ければ医療側の責任を追及されるということでは、医療は成り立ちません。

たぶん皆さんは、普段健康なときは医療とはどういうものかなんて考えることはないと思います。病気になっても、病院に行けば何とかなるとお考えの方がほとんどではないでしょうか。
医療は確かに一部の病気を治すことはできます。治せない場合にも病気をコントロールすることは可能です。また病気にならないように人々の啓蒙を図り、指導することもできます。しかし医療はけっして万能ではありません。医療の力の及ばないことも多々あります。
医療というものを十分ご理解いただいた上で、心から信頼できるかかりつけ医を見つけ、その医師と仲良くする、それが「いい医療」を受けるための秘訣なのです。

一方医療側にしてみれば、病気を治してほしいという患者さんの希望・期待に応えられない場合は、内心忸怩たるものがあるかもしれませんが、医療の限界を自覚し、病気だけに目を向けるのではなく、患者さんという一人の人に対して自分に何ができるかを考えるべきでしょう。
神ならぬ身であることを理解すれば、患者さんの前でふんぞり返る理由はないはずです。

ただ、患者さんがどんなに勉強しても、プロである医師を凌ぐことはできません。一般の方々には是非そのことをわかっていただきたい。逆に医師が患者さんの知識や技術、人間性を上回るかというと、けっしてそんなことはありません。医療に関してはプロとアマチュアの違いはあっても、一人の人間としては対等なのです。
要はお互いを理解し、お互いに敬意を払いながら、人としてのいい関係を築くこと、それが大切なのではないでしょうか。

平成29年10月26日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

病院開設許可後80年のあゆみと記念行事

当院はこの秋、開設許可後80周年を迎えます。

昭和12年10月に北越医療購買利用組合刈羽郡病院として開設許可を受け、2年後の昭和14年11月に柏崎市本町で開院しました。当時の病床数は27でした。昭和23年6月には学校町に移転、27年5月に新潟県厚生連が設立されたことで、厚生連刈羽郡病院となりました。病床数は一般67床、結核107床でした。
その後少しずつ規模を拡大し、昭和39年11月の改修工事完工時には一般233床、結核35床、精神98床となりました。
昭和42年には結核病床を廃止、昭和53年12月からは人工透析療法を開始しました。

建物が老朽化し手狭になったことで、平成3年6月、現在の北半田地内に病院を新築移転することになりました。病床数は一般375、精神65でした。その後も少しずつ整備を重ねながら現在に至っています。
平成19年4月には柏崎市休日夜間急患センターを当院内に併設、7月には精神科病棟を休止しています。平成21年4月には精神科病棟を回復期リハビリ病棟に改修しました。
そして平成24年4月、長らく皆様に「郡病院」として親しまれてきた病院名を、時代に即応するものということで、「柏崎総合医療センター」に変更しました。
平成26年10月にはできるだけ6人部屋をなくしたいという思いで病床を削減、一般355、回復期リハビリ45、計400床で現在に至っています。本当は6人部屋を全て4人部屋として、少しでも入院される方の療養環境の改善を図りたかったのですが、そうなると病床数が減って救急の患者さんの受け入れに支障をきたす恐れがあり、やむを得ず一部は5床室として残しました。

当院がここまで来ることができたのは、利用して下さる皆様のお蔭です。今後も皆様のご期待に応えるべく、職員一同力を合わせて努力していきたいと考えております。どうかよろしくお願い申し上げます。

さて、当院では80周年を記念して、いくつかの行事を企画しております。
まず10月14日に病院祭を開催いたします。今年のテーマは「病院開設許可80周年~これからも地域と共に」。
長岡赤十字病院に配備された県内2機めのドクターヘリが飛来し、出動要請がない限り、暫く当院敷地内にとどまります。是非この機会にご覧いただけるといいのではないかと思います。
さらに重要無形民俗文化財「綾子舞」の公演もございます。
他にも様々な企画を準備して、皆様のお越しをお待ちしております。

11月には記念行事を2つ予定しています。一つは「がんと付き合う」をテーマとしての講演会(11月11日、柏崎市文化会館アルフォーレ)です。ご自身が乳がんを体験された伊勢みずほ氏、精神腫瘍学を専門とされ、遺族ケアなどにかかわっておられる埼玉医大の大西秀樹教授、そして笑いが健康に及ぼす影響を研究しておられる笑医塾塾長の高柳和江氏の3氏をお迎えしてお話を伺います。その後私も加わって、4人でがんとの付き合い方について話し合うことにしています。
もう一つは今後の柏崎地域の医療の在り方を考えるパネルディスカッション(11月23日、柏崎市産業文化会館)です。櫻井柏崎市長、品田刈羽村長にもご参加いただき、他のパネリストとともに話し合う予定です。
柏崎地域の医療はけっして安泰ではありません。二次医療圏単位での病院再編を目指す国の方針のもとで、柏崎地域はどう対応して行けばいいのか、皆様と一緒に考えてみたいと思います。

是非皆様にご参加いただきたく、よろしくお願い申し上げます。

平成29年10月12日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

インフォームド・コンセントを根付かせるために

一時期、人々の医療不信を背景に医療訴訟が増加しましたが、2004年をピークに以後減少に転じました。裁判官が医療の不確実性を理解するようになり、的外れの判決が減ったから、とされていますが、最近再び医療訴訟が増加しているそうです。
ほとんどの医師が、病に苦しむ患者さんを救いたいと考え、使命感に燃えて日本全国、否世界中で奮闘しています。しかし残念ながら全ての患者さんの病気を治すことなどできません。医療側がどんなに頑張っても、亡くなられる方は大勢いらっしゃいます。また患者さん・ご家族が望んでいたような結果が得られないこともあります。うまくいかなかったという結果だけをとらえて、医療側の責任を問われるのは、医療側にとっても患者側にとっても不幸なことではないかと思います。

医学・医療はもともと不確実なものであり、限界があり、それなりのリスクを抱えています。「絶対」ということはあり得ないのです。医療を提供する側も医療を受ける側も、ともにそのことを理解し、受け入れる必要があります。
医療側は「患者の死は医学の敗北」とされたかつての呪縛から解き放たれるべきですし、患者側も「うまくいって当たり前」というゼロリスク信仰から脱する必要があります。
皆さんが何とか病気を治してほしいと医療に対して大きな期待を抱かれる気持ちは十分理解できます。私達医療側はその期待に応えるべく常に全力を尽くしています。でも全ての病気を治せると思うのは、幻想なのです。
こんなことを言ってしまうと身もふたもないのですが、そのことを理解せず、結果が悪ければ医療側が悪いということで訴訟に結びつくようだと、医療崩壊が加速することになります。

不確実な医療の実践にあたって最も重要なことは、医療側と患者側とのお互いの信頼関係です。これなくして医療の実践はあり得ません。
たとえば全身麻酔で手術を受ける時のことを考えてみて下さい。麻酔をかけられたあなたは意識なく、全く無防備な状態で手術台に横たわることになります。自分の身体でありながら何をされているのか全くわからず、目覚めたらおなかに傷があって、痛みで苦しむ、何がどうなったのか…、というのが手術です。メスを握るのが医師で、あなたがその医師を信頼して手術に同意したからこそ、医療側は傷害罪で罪を問われずに済むのです。
手術が無事成功して元気になって退院、ああよかった、ということになれば言うことなしなのですが、全てが全てうまくいくわけではありません。術後に様々な合併症が起こって、そのために命を落とすこともないわけではありません。手術を受けられたあなたはその可能性について医師からお聞きになっているはずですが、覚えていますか?

昔は「お任せ医療(自分は素人で医療のことはわかりませんので、全て先生にお任せします)」だったものが、現在は医療側・患者側が一緒に取り組むことの重要性が認識され、そのキーワードが「インフォームド・コンセント」です。不確実な医療の実践において、お互いの信頼関係を構築するための重要なカギです。
インフォームド・コンセントについては前にも述べたことがありますが、一般の方にはなかなか理解が難しく、医療側でさえ誤解している人がいるのが現状です。
そこで改めてここでインフォームド・コンセントについて考えてみたいと思います。

インフォームド・コンセントという概念は、もともと市民運動の高まりを通じて欧米で生まれたもので、市民運動の基盤に乏しい我が国にとっては唐突な印象をもって導入されました。医療側の都合が大きかったと言えます。しかし今ではこれが医療の基本的理念となっており、好むと好まざるにかかわらず、医療側も患者側もこれに沿った対応が求められます。
導入当初、日本医師会が「説明と同意」と訳しましたが、これは誤訳で、現在は適切な訳語がないため横文字のままで使われています。

インフォームド・コンセントとは、まず医療側が患者さんに対して十分に説明し、その内容を患者さんがきちんと理解し、自分で考え、自分で判断し、いくつかの選択肢の中から自分で選択・決定し、医療側に同意を与えるという一連の過程を含んだ言葉なのです。病気は患者さん自身のものですから、どういう医療を受けるかは患者さんが決めるものであり、患者さんにはその権利があるということなのです。同時に結果についても自分で引き受ける義務があるということになります。
インフォームド・コンセントという言葉は患者さんの側の言葉なのですが、医療関係者の中にはそれを誤解し、インフォームド・コンセント「する」という言い方をする人がいます。これは間違いで、その人がインフォームド・コンセントのことをよくわかっていないからなのだろうと思います。正しくはインフォームド・コンセントを「得る」あるいは「取得する」と言うべきです。インフォームド・コンセント「する」と言う人は、自分が話をすることがインフォームド・コンセントなんだと考えているのかもしれませんが、医療側が話をするのはあくまでもインフォームド・コンセントの入口に過ぎないということを自覚する必要があります。もっとも医療側が話をしないことには何も始まりませんので、患者さんにわかりやすくきちんと話をするというのは、大事な第一歩であることは確かです。

どういう医療を受けるかは患者さんが決めると言いましたが、実際にはそれほど簡単ではありません。それまで全く縁のなかった医療についていろいろな説明を受けても、おそらくほとんどの人はチンプンカンプン、知らない外国語を聞いているような感覚かもしれません。でも頑張って聞いていただかなくてはなりません。後になって「そんなことは聞いていない」ということで訴訟になるのはお互いに不幸なことです。わからないことはドンドン質問しましょう。医師に遠慮する必要はありません。
でも全く知識がないと質問すらできませんよね。ですから皆さんにも医療、特に自分の病気については勉強していただかなければなりません。皆さんは今までの人生の中で何か決め事をしなければならない場面はありませんでしたか? そのとき、全部人任せでしたか? そんなことはないはずです。人生の重大事についてはご自身で決めて来られたのではありませんか? 病気はあなたにとっての一大事のはずです。そうであればその病気にどう対峙するのかは、あなたが自分で決めるのは当然だと思いますが…。
私達はあなたの理解を助けるためにお手伝いをします。でも最終的な決断はあなたがしなければなりません。いろいろ迷って時間がかかるかもしれません。でもいくら時間がかかっても構いません。あなたの一大事なのですから、十分に時間をかけましょう。医療側と様々な話をする中で、お互いの信頼関係を築くことができれば言うことなしです。というよりも、信頼関係を築くことがインフォームド・コンセントの本来の目的なのです。

ただ、意識がない状態で救命救急センターに運び込まれ、一刻も猶予できない場合は例外です。医療側はあなたの救命のために直ちに必要な措置を始めることになります。

面倒な話でしたか? 医療のことなんて素人にわかるわけがない、自分で決めろなんて言われても無理、とおっしゃるのなら、普段からかかりつけ医を持って、その先生と仲良くしましょう。お互いの人となりを知って、しっかりした信頼関係を築きましょう。あなたが病院での治療が必要な病気になったとき、かかりつけ医の先生は当然自分の信頼できる病院の医師を紹介するはずです。病院の初対面の医師とすぐに信頼関係を築くことは難しいのですが、あなたが信頼するかかりつけ医の紹介であれば、とりあえずあなたと病院医師との間には間接的な信頼関係ができることになります。

不確実な医療の実践にあたっては、医療側と患者側との信頼関係を構築することが何よりも重要です。そのためのカギがインフォームド・コンセントなのですが、どうしてもそれに馴染めないというのであれば、この医師になら自分の命を預けても悔いなしと思える医師をみつけて、その医師といい関係を築き、判断を委ねるという選択もありかもしれません。

平成29年9月28日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

心肺蘇生とAED(自動体外式除細動器)

加茂暁星高校野球部の女子マネージャーが、学校から少し離れた野球場で練習後、走って学校に戻り、学校に着いた直後に倒れるということがありました。詳細はわかりませんが、突然の心室細動であったと言われています。
医療機関に救急搬送され、一旦心拍動は再開したようですが、低酸素の状態が長く続いたために、結局2週間くらい後に亡くなっています。
ご両親が「なぜAEDを使ってくれなかったのか」と嘆いているという記事が、9月3日の新潟日報に掲載されています。

実は当院でも何年か前、宴会の席上突然若い医師が倒れるということがありました。Brugada症候群という心臓の病気で心室細動を生じたのですが、幸い周りは当院のスタッフで、直ちに蘇生措置を施行、その店舗にはAEDがなかったために救急隊到着まで蘇生措置を継続、救急隊到着後電気ショックをかけ、通常の心拍動に戻って意識回復、全く後遺症を残すことはありませんでした。

若い人であっても突然心室細動を生じ、意識を失って倒れることがあります。心室細動というのは心臓の筋肉が細かく痙攣する状態で、心臓は全身に血液を送り出すポンプとしての機能を果たすことができません。この状態が長く続くと各臓器、特に脳に酸素が供給されず、不可逆的な障害をきたすことになります。
AED(automated external defibrillator、自動体外式除細動器)は電気ショックを与えることでこの心臓の筋肉の細かい痙攣を取り除き、本来のリズムに戻すための器械です。電気ショックを早くやればやるほど救命率が高まります。

新潟県の統計(平成27年)によれば、救急車が連絡を受けてから現場に到着するのに平均8.9分かかるそうです。その9分位の間何もしなかった場合の救命率は9%なのですが、その場に居合わせた人が救命措置(体外心マッサージなど)をした場合には20%と倍になるというデータ(Holmberg、2000年)があります。
また消防庁によれば、救急隊が電気ショックを実施した場合の1か月後の社会復帰率が20.3%であるのに対し、その場に居合わせた市民が電気ショックを行った場合には46.1%であったことが示されています。
加茂暁星高校にもAEDは3台あったそうですが、結局使われないままでした。

全国的にAEDの設置が進み、新潟県だけでも約7,500台が設置されているそうですが、十分には活用されていないようです。使ったことのない器械を使うのは勇気のいることです。そうであれば一度は使っておくことが重要で、ただ設置するだけではなく、何らかの形でそれを使う練習の機会を設けるべきでしょう。そうでないと「宝の持ち腐れ」になりかねません。

もしAEDが近くになかったり、使うことに自信がなかったりと言う場合には、とにかく胸骨圧迫による体外心マッサージだけでも始めて下さい。これまでは胸骨圧迫に加えて口対口人工呼吸法を併用することが推奨されて来ましたが、最近は胸骨圧迫だけでもOKというデータが示されています。
とにかく救急車が来るまで胸骨圧迫を続ける…、それが突然倒れた人を救命するカギなのです。

人間には寿命があり、いつかはお迎えが来るのですが、人生これからという若い人が事故や急な心臓病で命を落とすのは、本人にとっても周りの人々にとってもつらいことです。
救急車が到着する前に私達にできることがあるということをそれぞれが自覚すれば、もう少し救命率を上げることができるかもしれません。

 平成29年9月7日
病院長 藤原正博

※ 大修館書店より「よくわかるみんなの救急~ガイドライン2015対応」(坂本哲也 編)という書籍が出版されています。一度お読みになることをお勧めします。

カテゴリー: 院長の部屋

専門医制度の行方

最近の医療は益々専門分化が進んでいます。医師だけではなく、看護師もそうです。否、他の職種においても「専門……」「認定……」という資格を持つ人々がいます。
「一芸に秀でる」という言葉があって、それはそれで意味のあることだとは思いますが、私はちょっと心配しています。

医師の場合、これまでも専門医はおり、内科、外科、小児科など各学会が認定していました。個人で研鑽を積むと同時に指導医のいる医療機関で研修を受け、学会の主催する専門医試験を受けてその資格を取得するという形でした。
しかしこれまでは、専門医資格は名ばかりで、資格を持っていることに対するメリットはほとんどありませんでした。また専門医の乱立による質の低下が懸念されるようになりました。さらに患者さんの受診の指標にもなっていませんでした。
そこで、質を担保し、患者さんの受診のためのよい指標となり、国民に広く評価される専門医を育てるべく、日本専門医機構が設立され、紆余曲折の末、来年4月から新しい専門医制度が施行されることになりました。ただ実際にはいろいろ問題を抱えており、きちんと機能するのかどうか予断を許さないところがあります。

詳細は省きますが、私が一番懸念しているのは、専門医資格を取った医師が、自分は○○の専門医なので××のことは知りませんというような事態にならないかということです。その隙間を埋めるべく、「総合診療専門医」が新設されることになっていますが、どれだけの医師がその方向に進むのか、全く不透明です。

国が「地域包括ケアシステム」の構築を目指している以上、これからの医療は「在宅」が中心となることは間違いありません。そのために必要なのは一つの領域に偏った専門医ではなく、患者さんを一人の人間としてその全体を診ることのできる医師です。「総合診療専門医」がその役割を担うことが期待されているのですが、国の思惑通りに事が進むのか、注目する必要があります。

一時期、専門医機構が、今後は全ての医師が何らかの専門医になるべきという馬鹿げた提言をしたことがありますが、新しい専門医制度整備指針においては、専門医資格の取得は強制ではないとされています。質の高い専門医を育てるという考え方を否定するわけではありませんが、全ての医師が何らかの専門医というのは、ちょっとおかしい。

国は医療費削減のために急性期病床を減らすことに躍起となっています。さらに病院の役割分担を進めようとしています。つまり、将来は専門医が自分の専門領域だけを診ていればそれでいいという大規模病院は減っていく定めなのです。必要とされるのは、「在宅」の患者、あるいはいくつもの慢性疾患を抱える高齢者を診ることができる医師なのです。「総合診療専門医」を志す医師がどれだけいるのか…、それによっては将来の地域医療が混乱する懸念もあります。

人間は齢をとるとともに身体のいろいろなところが弱り、傷み、様々な病気を抱えることになります。一人の人が高血圧、糖尿病、高脂血症、骨粗鬆症などのいくつかの病気で治療を受けているというようなことは、けっして珍しくはありません。さらに脳梗塞だったり心不全だったり、あるいはがんという病気になったり…。そんなとき、私は高血圧が専門なので糖尿病はちょっと、とか言われれば困りますよね。
がんについては確かに専門性を要求されます。一般の医師が誰でも治療できるというものではありません。じゃあ、がんのことだけ知っていればいいかというと、けっしてそんなことはありません。たとえば化学療法後に白血球が減って感染症に罹患したときにどう対応するのか、もともと糖尿病があって、治療後に悪化して著しい高血糖になったときにどうするのか、抗がん剤の影響で心臓がダメージを受け、突然心不全になったらどうするのか等々、考えておかなければならないことが多々あるのです。
さらに治癒が望めなくなった時、患者さんにどう寄り添うことができるのか…。ここでできることはないのでよその病院へ、などと突き放すようでは、がん専門医とは言えません。

医療は「人と人」です。大切なのは病気にのみ目を向けるのではなく、病気を持った「人」に目を向けることなのです。専門医を育てることは悪いことではありませんが、専門医である前にまず一人の医師であるという立場をしっかりと自覚するべきでしょう。

それと同時に、皆さんがどういう医療を望み、どういう医師を求めるのかを、はっきりと意思表示することも大切です。とにかく病気を治してくれればいいと考えるのか、自分という一人の人間と真摯に向き合ってくれる医師を求めるのか…。それによりいずれ医療は皆さんの求める方向に収束していくはずです。

平成29年8月24日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

無用の用

夏の全国高校野球大会が始まりました。甲子園球場は高校球児全ての憧れの場所です。甲子園に出たい、あのグランドでプレーしたいという強い思いが、日々の苦しい練習を続けられる原動力です。
しかし実際に甲子園に出てプレーできるのは、ごく一握りの選手達だけです。ほとんどの高校球児は甲子園の土を踏むことなく、高校野球から離れていきます。今年の地方大会に参加したのは3,839チーム、その中で甲子園出場はわずか49チームです。

高校もそれぞれで、いわゆる強豪校、有名校には大勢の人が集まります。その学校の周辺だけでなく、市外、(都道府)県外からも入学してきます。 そのような高校では部員が100名を超えるところもあります。でも試合に出られるのは基本的に9名、ベンチに入れるのは地方大会では20名、甲子園では18名です。部員が多ければ必然的にあぶれるメンバーが出てきます。チームの監督の考え方にもよりますが、いくら頑張って練習をしても、3年間一度も試合に出られないという人もいるのです。

試合に出られないその子たちは、じゃあチームにとっては無用の存在なのかというと、けっしてそんなことはありません。彼らが一生懸命練習すれば、それを見ているレギュラー選手は気を抜けません。高校時代は練習すればするほど技量が上達します。レギュラー選手達も負けずに頑張ろうとします。そうでなければ追い越されるからです。その結果、選手全員がさらにレベルアップすることになり、チームの力が伸びることになります。
また練習のためには9人のレギュラーだけでなく、バッティングピッチャーなど他に大勢のメンバーが必要です。たとえ試合には出られなくとも、チームを下支えしていることは間違いないのです。

逆に野球部員が少なく、一校だけではチームが組めず、いくつかの高校が集まって合同チームをつくり、ようやく地方大会に出られるという場合もあります。
一校だけでチームが組めないということは、普段の練習さえままならず、対外試合もできないということです。試合で真剣勝負をすることで技術的にも精神的にも成長するのですが、彼らにはその機会さえ与えられないことになります。

条件はそれぞれですが、どんな状況であっても3年間野球部に籍を置いて頑張る子ども達に敬意を表したいと思います。

表題に掲げた「無用の用」という言葉は「役に立たないように見えるものでも、かえって役に立つこともある。この世に無用なものは存在しない」という意味の老子の言葉です。「老子」には「埴をうちて以て器を為る。その無に当たりて器の用有り」とあります。すなわち、「粘土をこねて器をつくる。器の中にある空間は一見無用に見えるが、その空間があるから器がつくれるのだ」という意味です。この言葉は高校時代の漢文の授業で習い、とても印象に残りました。当時の先生の説明は、「部屋というものは、四方に壁があるからこそ部屋として存在できるのだ」というような内容だったと記憶しています。さらに、歩くに当たっては30センチ位の道幅があれば十分だが、もしその道の両側が断崖絶壁だったとしたら、スタスタと歩けるだろうか、という問いを投げかけられたような気がします。

高校野球に「無用の用」を当てはめるのは不適切かもしれませんが、チームにとってレギュラー以外の選手はけっして無用ではありません。また選手個人にとっても、たとえレギュラーになれず試合に出ることができなくても、一生懸命野球に取り組むことはけっして無駄にはならず、必ず先の人生に役に立つはずです。
この世に無用なものは存在しないのです。いつか自分自身が主役になる日が来るかもしれません。そのときには是非わき役にも心を配り、その重要性を認識してほしいと思います。

この夏、甲子園を目指した全ての高校球児にエールを送ります。

 平成29年8月10日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

医師の働き方改革

電通の若い女性社員の過労自殺を受けて、政府は「働き方改革実行計画」をまとめ、2019年度からの実施を目指しています。
これは、時間外労働を原則月45時間とし、労使が合意した場合には年720時間(月平均60時間)を上限とするというもので、罰則付きです。ただし、医師については上限規制が5年間猶予されました。現状のままで規制が適用されると、応召義務が果たせなくなるおそれがあるから、というのがその理由です。

一般企業では午前8時から12時まで、1時間の昼休みをはさんで午後1時から5時まで、計8時間の就業時間、それ以降翌日までは基本的に拘束されることなく自分の自由に使える時間、もし所定の時間内に仕事が終わらない場合には時間外勤務として届け出るというのが普通ではないかと思いますが、病院に勤務する医師は違います。

病院の医師は平日日中は外来診療、入院患者の診療、検査、手術などに従事していますが、夕方5時に仕事が終わって帰ることはまずありません。医師によっては午前中外来診療、午後から検査、夕方以降入院患者の回診で、仕事が終わるのが夜8時、9時、手術が長引いた場合などは深夜に及ぶこともあります。
さらに論文を読んだり書いたり、学会発表の準備をしたり、各種証明書の記載をしたり、様々な検討会や会議に出席したりと、いろいろな業務があります。

基本的に主治医制(一人の患者を決まった一人の医師が診る)ですので、入院患者を受け持っている場合には24時間拘束されます(このあたりが他の職種と違うところです)。具合の悪い患者がいれば、休日であろうと夜間であろうと呼び出されます。実際に呼ばれることはなくても、緊張が解けることはありません。たとえ呼び出されなくても、ほとんどの医師は休日であっても病院に出て患者の診察をします。

また救急対応をしている病院においては、休日・夜間は基本的に当直医が診察に当たります。当直医の本来の仕事は病院内での緊急事態に対応することであり、ほとんど寝て過ごすものであるとされています。しかし当院を始めとして多くの病院においてはそのようなことは許されません。救急車で搬送される患者あるいは自分で直接来院する患者が後を絶たず、当直医は休むことができません。また必要であれば各科の専門医が呼び出されます。夜間当直の医師は眠ることなく働き続け、翌日は通常業務に就きます。一晩寝ずに翌日の仕事をする場合の集中力は、酒を飲んだ後のほろ酔い状態と同程度と言われています。ほろ酔い状態で診察をしたりメスを握ったりする…、考えただけでもゾッとしますよね。でもそれが現実なのです。日本の救急医療は医師達のこのような頑張りに支えられているのです。

日本の勤務医の平均労働時間は70~80時間と言われています。労働基準法で定められた労働時間は「一日8時間週40時間」ですから、これを大幅に上回り、30~40時間の時間外労働をしているということになります。月に直せば120~160時間ということになります。そういう状況で日本の医療が成り立っているわけですから、政府が言うように月45時間(例外的に60時間)を上限とするという罰則付きの規制が適用されれば、日本の医療が立ち行かなくなるのは明らかです。
今のような医師の働き方がいいというわけではありません。是正すべきであるのは確かです。そうでないと新潟市民病院の医師が過労自殺したというような事例が、いつか必ずまたどこかで起きることになります。

じゃあどうすればいいのか…。

まず医師数を増やす必要があります。全体の数もそうですが、特に病院勤務医の数です。しかしこのことについては昔から「日本の医師数は足りており、偏在が問題」と言って、国は真剣に向き合ってはきませんでした。最近になって医師の絶対数不足を認めるようになってはいますが、積極的に増員を図る対策を講じてはいません。医学部の定員増などで少しずつ医師数は増えてはいるのですが、すぐには医師不足を解決することはできません。

医師の負担軽減のためにたとえば米国のように日中と夜間の担当医を分ける、夜勤明けは休むというようにするとしたら、日本では医師の数が全く足りず、実現不可能です。またそういう体制を皆さんが了解できるでしょうか。主治医に対する信頼あるいは依存の裏返しなのでしょうが、死亡時に主治医が立ち会わなかったからということで、その主治医に土下座させる家族がいる(県外の某病院での出来事です)ような日本で、受け入れられるとはとても思えないのですが…。

もし夜間・休日の救急対応はしないということにすれば、応召義務との間で問題が生じます。都会のように病院がいくつもあって交替で救急対応ができるのであれば、当番日以外は一切対応しないということで医師の負担を減らすことはできます。しかし当院のように、一応輪番制はとっているものの、ほぼ毎日救急患者を受け入れなければならない病院の場合、医師は休むことができません。

新潟市民病院が労働基準監督署の是正勧告を受けて、外来は全て紹介制、救急患者は三次救急に限定という方針を示しましたが、それが医師の時間外労働の削減に繋がるのか、注視する必要があります。
ただそういう方針を示したことで、新潟市内の他の病院の負担が大きくなるのでは、と危惧しています。

皆さんは制限されることなく医療機関にかかれるのは当たり前と思っておられるかもしれませんが、その「当たり前」を支えているのは医師を始めとする医療スタッフの努力の賜物なのです。
医師不足解消の目処が立たない中、罰則付きの時間外労働規制が適用されれば、病院としては救急医療を縮小せざるを得ません。今は柏崎刈羽地域の救急搬送を断ることなく受け入れていますが、その一部をお断りする、あるいは市外の病院に紹介するという事態になりかねません。また救急車以外での飛び込み受診はお受けできなくなると思われます。
そうなれば皆さんに影響が及びます。しかし働き方改革については政府はなぜか本気のようです。そうであれば、どうすれば今の医療体制を維持しながら医師の労働時間を短縮するか、皆さんにも考えていただかなければなりません。そして皆さんのご協力が必要です。たとえば救急車の適正使用、不要不急の夜間・休日受診を控える、等々。

当院は年間2,400台前後の救急搬送を受け入れていますが、その半数近くは軽症で、本来救急車を必要とせず、あわてて受診しなくてもよかった方達です。また夜間・休日に自分で直接来院される方で入院が必要となったのは極一部です。そういった方達が平日日中に受診していただければ、当直医の負担はかなり減ります。
ただ実際には自分の症状が緊急を要するものか否かを自分で判断するのは難しいかもしれません。そんな時はかかりつけ医がいればそのかかりつけ医に、あるいは救急担当病院に電話で相談するのがいいと思います。

少なくとも発熱や感冒様症状で夜間・休日に病院を受診するのはやめた方がいいと思います。熱が出たということであわてて病院を受診しても、その時点では診断がつかないことが多く、当直医は「様子を見ましょう」と言って、せいぜい解熱剤を処方するぐらいで終わってしまいます。具合が悪い中わざわざ病院まで出かけて行っても、結局はあなたが損をするだけなのです。そんなことなら家で冷たいタオルで額や腋の下を冷やしながら安静にしている方が、ずっといいのです。翌日病院を受診することで手遅れになることなど、まずありません。

将来「当たり前」が当たり前でなくなるかもしれない状況の中で、医療側の努力だけで「当たり前」を維持することは困難です。皆さんのご協力をお願い申し上げます。

平成29年7月20日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

「早過ぎる死」「若過ぎる死」

歌舞伎役者市川海老蔵の妻でフリーアナウンサーとして活躍し、乳がんとの闘病をブログで発信、大勢の人に勇気を与えて来た小林麻央さんが亡くなりました。34歳でした。

乳がんは早期発見できれば治る可能性が大きく、10年生存率はStageⅠでは95.0%、StageⅡは86.2%ですが、転移のあるStageⅣでは14.5%と低く(全がん協のデータ)、他のがんと同様、進行した状態のがんを治すことは難しいのが現状です。
がんの早期発見は「がんもどき」を見つけているに過ぎないと主張する近藤 誠氏のような方もおられますが、とりあえず乳がんは早期発見が可能ながんです。それも自分で触ることで見つけられるがんです。マンモグラフィーによる検診も行われていますがそれを過信せず(日本人、特に若い人は、乳腺が発達したいわゆる高濃度乳房が多く、乳がんを見つけにくいと言われています)、自分は大丈夫という思い込み・油断を捨てて、自分のオッパイに関心を持ちましょう。

ところで若い方々が亡くなられると、よく「早過ぎる死」とか「若過ぎる死」というような言葉が使われます。じゃあ「丁度良い死」ってあるのでしょうか。

人間には寿命がありますから齢をとって亡くなる人が多いのは確かです。しかし、若い人であっても病気で亡くなる人はいます。小さい子どもであってもいわゆる小児がんに罹患し、亡くなることもあります。
「早過ぎる死」あるいは「若過ぎる死」という表現で若い人の死を悼むのは気持ちとしては理解できます。でもその裏には、「死ぬのは齢をとった人」「若い人は死なない」「自分は大丈夫」という思いがあるのではないでしょうか。
多くの方が、死は長く生きたその先にあるものと考えていらっしゃるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。若い世代であっても様々な病気で亡くなる人はいるのです。生と死は背中合わせであり、いつ死ぬかは誰にもわからないのです。

私は血液内科医で造血器腫瘍の治療を専門としています。がんは一般的には高齢者に多いのですが、急性白血病という病気は比較的若い世代で発症します。中には10代、20代の患者もいます。人生これからなんだから、ここで途切れちゃダメという思いで、私は彼らの病気をなんとか治したいと努力してきました。しかし残念ながら全ての人の病気を治すというわけにはいきませんでした。苦しい思いをしながら亡くなっていった方がたくさんおられます。どうして? 人生これからなのに…。彼らの命を救えなかった自分へのふがいなさと合わせ、運命の理不尽さに涙を流しました。
亡くなっていった彼らこそ悔しい思いをしたに違いないのですが、でもほとんどの方達が、私にとっては意外なほど冷静に自分のことを見つめていたような気がします。少なくとも主治医の前で泣き叫んだりして感情を露わにすることはなかったのです。どうしてこんなに落ち着いていられるの?と、私だけでなく病棟の看護師も驚嘆した患者もいます。自分のことよりも家族や友人、さらには病棟スタッフにまで優しい心遣いを示してくれた人もいます。今思い出しただけでも目頭が熱くなります。

彼らを見ていて、私は死というものを考えざるを得なくなりました。確かに日本人全体の平均寿命は延びていて、100歳を超えて長生きする人もいる。でもみんながみんな長生きするわけではない。いつか必ずお迎えは来るし、若くして亡くなる人もいる。自分だっていつ死ぬかはわからない。それなら死ぬときに後悔しないよう、毎日を大事にしっかり生きよう…。そう心に決めて、ここまで来ています。もちろん私は聖人君子ではありませんから、実際に病気で死ぬということになったときにはジタバタするかもしれませんが…。

多くの方が自分だけは病気にならない、自分だけは死なないと思っているように私には見えます。80代、90代の高齢者でも、まだまだ自分は長生きできると思っておられる方がいます。ここまで生きて来たんだからどうせならもっと、という思いなのでしょうね。中にはご本人はある程度覚悟ができているのにご家族が死を受け容れられない場合もあります。
長生きはめでたいことではありますが、いつか必ずお迎えは来るんですよ、と言いたくなることもあります。でもなかなか口には出せません。余計なおせっかいですもんね。

死というものを考えるのは重っ苦しいし面倒なことであることは確かです。普段はよそに置いておいても構いませんので、何かの時に「あっ、自分もいつか死ぬときが来るんだな」と思っていただくと、日々何気なく暮らしていることのありがたさを感じることができるのではないでしょうか。

「人生において重要なことは、いかに長く生きたかではなく、いかに日々を大切に生きたかということ」とどなたかがおっしゃっているようですが、そう考え日々実践していれば、何歳で亡くなったとしても、その人にとっては「丁度良い死」ということなのかもしれません。

 平成29年7月6日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

患者側と医療側との相互理解

多くの方々が医療は安全で確実なものだと考えておられるのではないかと思います。しかし残念ながらそれは幻想です。

自分の身体に何らかの不調を感じ、不安を覚えたとき、皆さんはその解決を求めて医療機関を受診します。そのとき、医師の診察を受け、いろいろな検査を受けることで問題が解決すれば、とりあえず皆さんは安心しますよね。かぜのようなすぐに治るものであればもちろんでしょうが、たとえがんだといわれたとしても、それに対しての心構えができます。しかし何だかわからないとなると、言い知れぬ不安に襲われると思います。
私は昔、「患者の前でわからないと言うな」と教育されました。「医者がわからないと言えば、患者は不安になる」と。しかし…。

皆さんは自分の心身の不調の答を求めて医療機関を受診します。原因を明らかにして、それを取り除いてくれることを期待します。医療側も原因をはっきりさせたい、それを取り除いて患者さんの状態を良くしてあげたいと思います。しかし実際にはそううまくいくことばかりではないのです。医療現場は曖昧さに満ち満ちています。医療というものは、もともと不確実で限界があり、また何らかのリスクを内包しているのです。

皆さんは思ったような答が得られないと医療に、と言うよりは「医師」に失望するかもしれません。その結果別の医療機関を受診することになったり、名医を求めて全国行脚することになります。そうすることで自分が期待した結果を得られればいいのですが、残念ながらほとんどそういうことはありません。
一方医療側も、患者さんの求めていることにきちんと答えられないときにはつらい気持ちになります。皆さんは医療者がそれぞれの現場でどう考えているか、思いを寄せたことがおありでしょうか。

不確実で限界があり、それなりのリスクを抱えた医療の実践にあたっては、皆さんと医療側との信頼関係を構築することが何よりも重要です。そしてリスクを受け容れる必要があります。そうでなければ、意識のない状態で自らの裸体をさらしてメスで切られるなんてことは、到底「あり得ない」はずです。
信頼関係を構築するにはどうすればいいか…。まず何といってもお互いをよく知ることです。相手のことを知り、理解しなければ、信頼関係なんて築けるはずがありません。皆さんに医療側の思いも知っていただきたいと考えてこれまでいろいろ情報発信をしてきましたが、十分とはいえません。

何とか皆さんにも医療側の思いを理解していただきたい…、そう思っていたところ、最近「医療者が語る答えなき世界」(磯野真穂 著 ちくま新書1261)という書籍が発刊されました。200ページ余の小著ですが、是非お読みになることをお勧めします。医療のそれぞれの現場で医療者がどういう思いでいるのかを理解していただく一助になるのではないかと思います。
指示に従わない患者に対する看護師の対応、療養型病院で働くケアワーカーの思い、高齢者の身体拘束に悩む看護師、手術室の話、新薬を前に臨床医が考えること、漢方薬の意義、腫瘍内科医の苦悩、寝たきり老人がほとんどの病院で働く理学療法士の思い、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者にかかわる看護師の思い、ソーシャルワーカーの目から見た高齢者医療、そして失語症の患者とかかわる言語聴覚士…。
皆さんと医療側との間の壁を少しでも低く薄くする、あるいは壊すことができて、相互理解に繋がるきっかけとなればいいのですが…。

また医療に従事しておられる方々にもお勧めしたいと思います。長く同じ現場にいると、新人の頃のようなフレッシュな感性を忘れがちになるのは止むを得ませんが、もう一度あの頃の気持ちを思い起こしてみませんか。

もちろん考え方は人それぞれですので、共感される方も反感を覚える方もいらっしゃると思います。それはそれでOK。大事なことは、医療というものを知り、お互いに相手を理解しようと思うこと。そしてその上で信頼関係を築くことに繋がっていけば、それに越したことはありません。

 平成29年6月22日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

物忘れ

第一生命保険株式会社が主催した第30回サラリーマン川柳コンクールの結果が発表されました(第一生命保険株式会社のホームページより)。
応募総数55,067句のうち、第1位に輝いたのは、なおまる御前さん(30代、女性)の「ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?」
世代間のギャップをコミカルに表わしているとして、女性の支持率が高かったそうです。
100位までの句が紹介されており、「ふむ、うまい」と感心させられる句がたくさんあります。傾向としては職場の上司に対する不満、妻への思い、高齢になって物忘れをするようになったことなどを詠んだものが多いようです。第2位の「久しぶり! 聞くに聞けない 君の名は」という身につまされるものもあります。「同窓会 みんなニコニコ 名前出ず」なんて、皆さんも経験があるのではないでしょうか。他にも「記憶力 ないから楽し 再放送」「備忘録 書いたノートの 場所忘れ」といった句も。
高齢者の元気な様子を詠んだ句もあります。「病院で サミットしている爺7」「ばあちゃんが オシャレにキメる通院日」「風邪気味だ 今日は病院 止めとこう」。なるほど。

齢をとって物忘れが多くなるのは自然なことです。私も人の名前がなかなか出て来ない、顔はわかるんだけど…、なんてことはしょっちゅう。少し後になって、何かの拍子に思い出すというようなことはよくあることです。でもなかなか思い出せず、気になってイライラするのは、いいことではありません。まあ、そのうち思い出すさ、と気楽にいきましょう。
物忘れというとすぐに「認知症?」と考えがちですが、認知症の物忘れと老化に伴う物忘れとは異なります。認知症による物忘れは、ある一時期の記憶がスポッと抜け落ちてしまい、思い出すことがないと言われています。その時は思い出せなくても後になって思い出せるのであれば、とりあえず認知症の可能性は低いと考えてもよさそうです。

教科書的には加齢による物忘れは体験したことの一部を忘れる、たとえば食事で何を食べたかを忘れることがあっても、食事をしたことは覚えている、そして何を食べたか思い出そうとする、しかし認知症の場合は体験したことの全体を忘れる、すなわち食事したこと自体を忘れ、物忘れの自覚がない、そしてそのことが日常生活に支障をきたす、とされています。

私は常々人間は忘れることが必要なんじゃないかなと思っています。経験したこと全てを覚えていたら、頭の中がパンクするんじゃないかと思うのです。大事なこと、できれば楽しいこと、いい思い出を頭の中に残し、いやなことは忘れてしまう…、それによってうまく心のバランスをとることができる、そんな気がしています。
でも実際にはどうでもいいようなことばかり覚えていて、肝心なことを忘れてしまうような気もしないではないのですが…。

平成29年6月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

抗菌薬の適正使用

以前のコラムで抗生物質と耐性菌の話をしました。このまま抗生物質の濫用が続けば、抗生物質が効かない耐性菌が増え、それによる感染症のために死亡する人が増えるという話でした。
有効な対策が講じられなければ、2050年には全世界で年間1,000万人が薬剤耐性菌により死亡すると推定されています。
かなり前から世界で危機意識が共有されていますが、日本においては対応がやや鈍いという印象でした。ここにきて漸く厚生労働省も本格的に取り組む姿勢を見せ、その第一弾として「抗微生物薬適正使用の手引き」がつい最近公表されました。とりあえず急性気道感染症と急性下痢症が対象となっています。

※ 話を進める前に、言葉の整理をしておきます。「微生物」というのは細菌、真菌(カビ)、ウイルス、寄生虫などを意味し、「抗微生物薬」といのは病原微生物に対する治療薬のことです。「抗菌薬」というのは、抗微生物薬の中で細菌に対して作用する薬剤の総称です。「抗生物質」というのは、微生物その他の細胞の機能を阻止または抑制する作用を持つ物質で、微生物が産出する化学物質のことです。抗生剤と呼ばれることもあります。抗菌薬=抗生物質というわけではなく、抗生物質の中には抗がん剤(ドキソルビシン等)もあります。また抗菌薬には合成抗菌薬とよばれるものがあり、厳密には抗生物質とは異なります。

皆さんの多くが「風邪をひいた」と言って医療機関を訪れる急性気道感染症は、「感冒」「急性鼻副鼻腔炎」「急性咽頭炎」「急性気管支炎」の4つに分類されます。これら「風邪」に対して、医療機関ではこれまで多くの医師が経験的に(言い換えると、たいした根拠もなしに)抗菌薬を処方していました。しかし風邪の原因のほとんどはウイルスであり、細菌に対して作用する抗菌薬は、ウイルスには効果はないのです。従って「抗微生物薬適正使用の手引き」においては、「感冒に対しては抗菌薬投与を行わないことを推奨する」「成人では軽症の急性鼻副鼻腔炎に対しては抗菌薬投与を行わないことを推奨する。中等症または重症の場合のみアモキシシリン内服5~7日間投与を検討することを推奨する」「検査でA群β溶血性連鎖球菌が検出されていない急性咽頭炎に対しては、抗菌薬投与を行わないことを推奨する。検査でA群β溶血性連鎖球菌が検出された急性咽頭炎に対しては、アモキシシリン内服10日間投与を検討することを推奨する」「成人の急性気管支炎(百日咳を除く)に対しては、抗菌薬投与を行わないことを推奨する」と記載されています。つまり、ごく一部を除いて抗菌薬は必要ないと言っているのです。
皆さんの中には抗菌薬を服用した方が風邪が早く治ると考えている方がいるかもしれませんね。実際そう思って医師に抗菌薬を処方するよう要求する人がいます。しかしそれは全くの誤解でしかありません。抗菌薬を飲んでも風邪が早く治るわけではなく、むしろ下痢、皮疹などの副作用のリスクが大きくなるだけなのです。
抗菌薬の不適正使用はあなたにとって問題となるだけでなく、耐性菌を生み出すことによって全世界の人々に影響を及ぼすことになるのです。

米国では抗菌薬の使用はかなり厳しく制限されているようですが、日本においては比較的自由に使うことができます。上述したように風邪に対しても気軽に抗菌薬が処方されて来ました。言ってみれば無駄な薬の使い方ということになります。その結果MRSAを始めとする耐性菌の増加に繋がったのです。
MRSAという言葉は皆さんもお聞きになったことがあると思いますが、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌のことで、ほとんどの抗菌薬が効きません。MRSAによる感染症を発症すると治療に難渋しますが、それでもまだ有効な抗菌薬があるのでなんとか対応が可能です。
しかし、現在最も優れた抗菌薬の一つであるカルバペネムと呼ばれる抗生物質にもし耐性菌ができて広がったとしたら、その感染症に対しては私達はなす術がありません。そしてそれが現実となりつつあるのです。幸い日本ではまだ少ないのですが、欧米ではカルバペネム耐性菌の比率が10%を超えていると言われています。
カルバペネムが外来で安易に使われることはまずありませんが、入院患者で原因のはっきりしない感染症疑いの発熱に対しては、かなり使われています。止むを得ない場合もあるのですが、他の抗菌薬で対応が可能なら、カルバペネムの使用は避けるべきでしょう。これについては薬剤を選択する医師の側の問題です。

抗菌薬はフレミングがペニシリンを発見して以来、飛躍的な発展を遂げ、幾多の感染症から人類を救って来ました。しかしここにきて新たな抗菌薬の開発にブレーキがかかり、もう何年もの間、有用な新規抗菌薬は出て来ていません。
となると、私達は限られた薬剤を上手に使っていくしかありません。それが適正使用ということになります。

まず不要な抗菌薬は使わないこと。これには私達医療側が極力処方を控えるとともに、皆さんにもむやみに抗菌薬を要求しないようにしていただかなくてはなりません。必要な時に必要なものを必要なだけ使うという姿勢が重要です。
次に病原微生物をきちんと同定して、適切な抗菌薬を選択すること。その際できるだけ抗菌スペクトラムの狭い抗菌薬を優先使用すること(これは私達医療側に求められることです)。カルバペネムは抗菌スペクトラムの広い、即ち多くの細菌に対して効果があり、強い殺菌力を有する優れた抗生物質であるがために、熱が出て細菌感染が疑われると安易に使ってしまいがちです。しかしそうすることが耐性菌の増加に繋がり、将来の私達に危機をもたらすことになるのです。
もう一つ皆さんに守っていただきたいことがあります。もし抗菌薬が処方された場合には、途中で勝手にやめずに、7日とか10日という服薬期間を遵守していただきたいのです。症状が治まったからと言って途中でやめてしまうと、細菌を全部駆逐できず、細菌の耐性化に繋がる可能性があるからです。

抗菌薬は私達にとってとても大切な薬です。今だけ、自分だけではなく、人類の将来も慮って、上手に使いましょう。

平成29年5月18日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

老いを受け入れる、死を想う

平成24年に出版されてベストセラーになった「大往生したけりゃ医療とかかわるな~自然死のすすめ」の著者中村仁一氏が、最近続編を出されました。「大往生したけりゃ医療とかかわるな【介護編】~2025年問題の解決をめざして」です。同じく幻冬舎新書です。
目次をご紹介します。第一章:医療業界による¨マインドコントロール¨は凄い、第二章:「延命医療」と¨延命介護¨が穏やかな死を邪魔している、第三章:年寄りの手遅れで無治療の「がん」は痛まない、第四章:自然死なら「看取り」はどこでもできる、第五章:繁殖終えたら「死」を視野に生きる、かかわる、第六章:¨真打ち¨は「死に時」がきたら素直に受け入れよう、という内容です。

前著同様毒舌というか辛口の語り口なので、中には反発する方がおられるかもしれません。でも是非一度お読みになることをお勧めします。齢を取った方はもちろん、若い方であっても、自分の生き方を考える一つのきっかけになるのではないかと思います。

中村仁一氏は77歳で、いわゆる後期高齢者として自分の考えを述べておられますが、そこまでは達していない私にも十分共感できる内容です。否、私自身の考えに近いと言っても間違いではありません。医療は万能ではなく限界があること、医療に過度の期待を抱かないこと、死を意識すること、老いを受け入れること、身体が動かなくなる前に、自分のできること、やりたいことをやっておくこと、自宅で死ぬためには「世話され上手」になること、すなわち自分でできることは精一杯する、自分でできないことをしてもらった時にはお礼を言う、愚痴や弱音を吐かないの3点、等々。

私もこれまでに様々な機会をとらえて「人には寿命があって、いつか必ずお迎えが来る」と申し上げてきたのですが、多くの方々は死から目を背けようとします。
医師も「死」という言葉を口にすることをためらいます。病気を治すことを期待される大病院の医師、特に「名医」ともてはやされる人々はそうです。その人達にとって「死」は敗北だからです。斯くいう私も昔はそのように教育され、何とかして病気を治したいと思ってがむしゃらに頑張った時期があります。しかし頑張れば頑張るほど自分の、そして医療そのものの限界が見えてくるのです。全ての病気を治すことはできない、たとえ一つの病気を治すことはできても、人はいつか必ず死ぬという当たり前のことに気づかされるのです。

誤解のないよう申し上げておきますが、私自身は治る可能性があるのならばそのために全力を尽くしたいと思っています。しかしそうすることで再発・難治で治癒の可能性が低くなったがん患者さんや高齢の患者さんを、かえって苦しめる場合もあります。その際は患者さんの意向を尊重します。わずかな可能性にかけるとおっしゃるのならそれに従い、ここまで十分頑張ったからもういいよという方あるいはもう齢だから苦しい思いはしたくない、ここまで生きれば十分という方であれば、あとは苦痛緩和に努めながら、患者さんに寄り添うよう心掛けます。少なくとも都会の大病院の「名医」のように、もうここでできることはないから、あとは近くの病院へ、などとは決して言いません。

どうあがいても死すべき定めにある人間にとって、医療の役割は何なのでしょうか。それを医療側も患者側も、共に考える必要があると思います。医療というものをきちんと理解し、誤解を改め、その上でどのように医療と付き合えばいいのか、みんなで考える必要がありそうです。

人間は齢をとります。これは避けることのできない事実です。アンチエイジングという言葉もあり、見かけ上とても若く見える人がいることも確かですが、でもいつまでも若いままでいることはできません。一見若く見える人ほど急に年老いたりします。
医療の進歩や社会環境の整備により人間の寿命が延びてきたことは確かで、日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えています。100歳を超えて長生きする人も年々増加しています。しかし寿命の延長もどうやら限界に近づいているようで、ネイチャーという有名な医学雑誌にも、人間の寿命はせいぜい120歳という論文が掲載されています。

人間には寿命があり、寿命があるからこそ生きていることを大事にしなければならないのではないでしょうか。

中村氏は、人間は自分でものが食べられなくなればそれが寿命であり、鼻からチューブを入れたり胃瘻をつくったり、あるいは点滴で強制的に栄養補給をすること、さらに介護の現場でむりやり口にものを押し込むのは、本人にとっては拷問でしかないとまで述べています。
本人が予め事前指示書を残していて延命措置を拒否する意思が明らかであればいいのですが、そうでないとほとんどの家族はどんな姿でも構わないのでなんとか生きていてほしいと願い、延命措置を希望します。しかしこれは本人のことを考えない家族のエゴでしかないと中村氏は切り捨てます。
また延命措置にはお金がかかりますので、どうしてもそれを望むなら、公的保険からははずして全額自己負担でやるべき、とも述べています。逆に本人がどんな姿になっても生かしておいてほしいと事前に意思表示をしている場合は、保険適応とするのもやむを得ない、と。

皆さんがどうお考えになるかはわかりませんが、是非一度この「大往生したけりゃ医療とかかわるな【介護編】」に目を通していただいて、生きること、老いること、病気になること、そして死ぬことについて考えていただければ、と思います。

平成29年4月27日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

病院開設許可後80周年を迎えます

新年度となり、当院も66名の新人を迎えました。スタッフ全体の一割以上が入れ替わったわけで、かなり大幅な異動となりました。彼らが新しい環境に慣れて力を発揮するには、暫く時間がかかりそうです。皆さんにもご迷惑をおかけすることがあるやもしれませんが、どうかご容赦願います。

さて、当院はこの秋、開設許可後丁度80年を迎えます。これを記念して、いくつかの行事を企画しております。はっきりと決まりましたら改めてお知らせいたしますが、どうかお誘いあわせの上足をお運び下さい。

一つは日本人の死因第一位の「がん」を取り上げ、がんという病気とどう付き合っていけばいいのかを、何人かの講師をお迎えしてお話を伺った後、パネルディスカッションという形でみんなで考えてみたいと思っております。

もう一つは、柏崎の今後の医療を維持するためにはどうすればいいのかを、みなさんと一緒に徹底的に話し合う場を設けたいと思っております。

どうかご期待下さい。

平成29年4月13日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

柏崎地域の医療を守りましょう

柏崎のシンボルであったホテル「岬ひとひら」が、今月いっぱいで閉館とのこと。病院としていろいろと利用させていただいただけに、とても寂しい思いでおります。
他にも明治饅頭で有名な美野屋さんも閉店、またラーメンの一翔、居酒屋安兵衛も閉店、ついこの前できたばかりと思っていた丸亀製麺も、いつの間にかなくなっていました。紳士服のはるやまも、だいぶ前に閉店しています。ボーリング場の建物も取り壊されてしまいました。
それぞれに事情はあるのでしょうが、結局は柏崎での商売が成り立たなくなったが故の店じまいということ、柏崎で生活する者としては残念というしかありません。

客商売の店は、お客さんが来なければ商売は成り立ちません。努力しないからつけが回ったんだ、自業自得、と冷めた目でご覧になる方もいらっしゃるかもしれませんが、自助努力だけではどうにもならない部分があることも事実です。
JR柏崎駅から海岸に延びる潮風ロードも、その道路脇の店はシャッターが下りているところが多く、えんま市や民謡流しが行われる通りも、イベント開催時以外は閑散としています。人が集まる街にするためにどうすればいいのか、個人的な利害を捨てて、住民みんなで、行政も交えて検討する必要があるのでは、と思います。

今回このような話をしたのは、病院だっていつまでも今までと同様に存続できる保証はないんですよ、ということを皆さんに申し上げたかったからです。
柏崎では当院を中心として各病院、各診療所が力を合わせて地域完結型の医療を提供しています。しかし国や県は、将来は柏崎地域を長岡地域にくっつけて、一つの医療圏とすることを模索しています(コラム122をご参照下さい)。
急性期医療は原則として長岡が担当するということになったら、当院の規模縮小は避けられず、皆さんが今まで通りに当院で治療を受けることが難しくなります。柏崎から長岡までは高速道路を利用すれば30~40分で行けます。ただし雪が降ったりするとそうもいきません。救急搬送に1時間以上かかることになると、助かる命も助からないという事態を招く可能性もあります。

今回の地域医療構想策定にあたって、柏崎地域は長岡地域とは別に地域完結型の医療を提供する必要があると認知されたのは、柏崎地域の医療の完結率が高いからです。
もし皆さんが柏崎市内ではなく、長岡地域の病院を受診して、当地域内の医療完結率が低下すると、国や県の柏崎地域の急性期病床を削減しようという思惑に、絶好の口実を与えることになるのです。

病院は利潤を追求する客商売とは異なりますが、皆さんが病院を利用していただかなければ、経営は成り立ちません。今は病院といえども、経営不振でつぶれることがあるのです。

閉店した店の一部は人手不足が原因という話も伝わってきておりますが、病院も人手不足は深刻です。現時点ではギリギリの状態でなんとかやっておりますが、医師も看護師も他の職種も、燃え尽き寸前です。今は彼らの医療職としての使命感がそれぞれを支えていますが、いつまでもつかは定かではありません。

病院を利用していただきたいと言いながら、スタッフが燃え尽き寸前だというのは、矛盾しているかもしれません。泣き言を言うなとお叱りを受けるかもしれません。でもこれが現実なのです。

市民の皆さんの医療に対する要望と期待は重々承知しております。しかし医療資源は限られており、その中で皆さんの期待に応えるのは至難の業と言っても過言ではありません。今の柏崎地域の医療を維持するためには、皆さんに医療の現状を理解していただき、上手に利用していただくしかありません。

この4月以降、柏崎市のご協力で各地域の皆さんと話をする機会をもつことができそうです。是非ご参加いただき、医療の現状と問題をご理解いただき、皆さんのお考えをお聞かせ下さい。皆さんと一緒に柏崎の医療を守っていきたいと考えております。

平成29年3月24日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

ファミリーマート、オープン!

2月27日に院内ファミリーマートが新装開店いたしました。もうご利用になられましたか?

病院内になぜコンビニが、とお考えになるのもごもっとも。でも全国的にはそれほど珍しいことではありません。病院によってはコンビニ以外にもスターバックスやタリーズなどのコーヒーショップが入っていたり、レストランがあったり、ところによっては様々な店舗が集まってショッピングモールを形成している病院もあるようです。
都会の大病院で外来患者数が多いところでは、待ち時間を有効に活用してもらおうということでショッピングモールをつくったという話を聞いていますが、いずれにしても、病院のイメージが昔とは変わって来ていることは確かです。

当院が現在地に新築移転したのは平成3年ですが、その数年位あとから病院のアメニティ(生活環境の快適さ)が注目されるようになりました。かつての病院はいかにも「収容所」というイメージが強かったのですが、患者さんの生活の場として病院を考え直そうという流れが生まれ、定着したのです。かつての8人部屋とか10人部屋なんてとんでもないということで、個室を増やし、多床室はせいぜい4人、ということになりました。さらに多床室であっても各ベッド脇に窓があって外の景色を見渡せるよう、病室の構造が工夫されるようになりました。当院は残念ながらそういう流れが沸き起こる少し前の建物であるため、「古い」部分がかなりあります。

大きな地震に2回揺さぶられ、いろいろなところが傷んでいて、雨漏りするところもあります。私としてはなんとか病院を新しくしたいと思ってはいるのですが、厚生連内にはもっと古い病院があり、まずはそちらが優先、順番からすると当院の建て替えはずっと先のことになります。それまでは今あるこの建物をうまく使っていくしかありません。
せめて療養環境の改善を図りたいと考えて、6床室を廃止して4床室にと思ったのですが、そうすると病床数がかなり減ってしまい、時期によっては入院の需要に応えられない可能性があることが判明し、実現できませんでした。

当院にショッピングモールを、というのは非現実的ですが、外来にお出でいただいた方に待ち時間の間にちょっとした買い物をしていただく、あるいは入院している方が病院「外」の雰囲気を味わっていただく、という点で、この度オープンしたファミリーマートはお役に立つのではないかと考えています。
また職員にとっても、お昼の弁当を調達するにあたって少し選択肢が増えてよかったかなと思っています。

店の宣伝をするわけではありませんが、上手にご利用いただければ、と思います。また病院内のコンビニということで、こういうものを扱ってほしいというご要望がございましたら、総務課までお知らせ下さい。店側に伝えます。

平成29年3月9日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

新型インフルエンザパンデミックへの危惧

全国的に猛威を振るったインフルエンザもそろそろピークを過ぎたようです。
しかし考えてみると、日本でインフルエンザが拡がるのは当然なのかもしれません。

インフルエンザはインフルエンザウイルスによる感染症で、主な感染経路は飛沫感染と接触感染です。
インフルエンザの患者さんが咳やくしゃみをすると、ウイルスを含んだ飛沫が飛び散ります。その飛沫を近くにいる人が鼻や口から吸いこむことでウイルスが気道に付着するというのが飛沫感染です。1回のくしゃみで4万個ほどの飛沫が飛び散り、2メートル以内にいる人はその飛沫を吸い込む可能性があると言われています。
接触感染というのは、患者さんの手にウイルスがついている状態で患者さんと握手をしたり、階段の手すりやドアノブなどウイルスが付着したものに触れたりすることで、ウイルスが自分の手にくっつき、その手で鼻や口に触れることでウイルスが侵入するというものです。

インフルエンザは「かぜ症候群」の一つで、基本的には自然治癒する疾患です。かぜは薬を飲んでも治りません。いわゆるかぜ薬はあくまでも症状を和らげるだけです。ところがインフルエンザだけは「効く」薬があって、インフルエンザと診断されるとその薬が処方されます。でもその薬はウイルスの増殖を抑えて症状を軽減するだけで、治すものではありません。
インフルエンザであっても他のかぜであっても、原則は自宅安静なのですが、日本の社会はそれを許してくれません。かぜくらいで仕事を休むなんて…、というのが多くの人々の考え方です。インフルエンザだけは医療機関での証明があれば一定期間休むことができます。
またインフルエンザは他のかぜに比べると症状がきついので、それを和らげるために薬に頼りがちです。
加えてテレビコマーシャルなどで「かぜかなと思ったら早めの」医療機関受診を呼びかけていることもあって、かぜ症状のある人々の多くがインフルエンザの診断と薬を求めて医療機関に集中します。
その結果どうなるか…。混雑した外来で待っているうちに患者さん自身の具合が悪くなり、さらに他人にうつす可能性があります。医療スタッフに感染するリスクが高まります。

インフルエンザは2~3日(場合によっては1週間くらい)の潜伏期間の後発症しますが、症状の出る少し前から発症後2週間くらいまでウイルスを排出します。迅速診断キットで陽性となるのは症状が出てから18~24時間後で、発症直後は陽性とならない可能性があります。熱が出た、それっということで医療機関を受診してもインフルエンザの診断がつかず、解熱剤を処方されて仕事に出る、段々具合が悪くなって再び医療機関を受診し、今度はインフルエンザと診断される…、その間にこの人はインフルエンザウイルスをあちこちに撒き散らすことになるのです。

幸い今の季節性インフルエンザはほとんどが治りますので、ワーッと流行してもさほど大きな問題とはならないかもしれません。
しかし将来強毒性の新型インフルエンザが流行するような事態となった場合には、多数の死者が出ることが予想されています。それを最小限にとどめるためには感染の拡大を防ぐ努力が求められるのですが、現在の人々の行動様式では、それを望むことはできません。
かぜ症状で診断と薬を求めて多くの人が医療機関に殺到、その結果、病気で体力が落ちている他の患者さんに感染し、その患者さんの命を危険にさらす、医療スタッフにも感染し、医療機関が機能しなくなる…。
症状があっても休まず仕事に出る、特に大都会では満員電車で身動きもできない状態で通勤していますが、そのときにインフルエンザに罹患した人が咳やくしゃみをすれば、その周辺の人々は撒き散らされたウイルスの侵入を避けることはできません。あっという間に感染が拡がることは火を見るよりも明らかです。

インフルエンザが疑われた場合には受診を控えるよう呼びかける国が多いのに、なぜ日本は「早期受診」なのでしょうか。政府が「プレミアムフライデー」とかを提唱しているようですが、そんなことよりかぜをひいたら休めるようにすることの方が、ずっと重要だと思うのですが…。

 平成29年2月23日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

健康食品について

「目・肩・腰に○○○○○」「糖・脂肪の吸収をおだやかにする○○○」「脂肪を代謝する力を高め、体脂肪を減らすのを助ける○○○○○○」といったコマーシャルを、たぶん皆さんもテレビでご覧になったことがあるのではないでしょうか。これらの商品を実際に使用している方もいらっしゃるかもしれませんね。
数え切れないほど多くの「健康食品」が市販されており、ある調査によれば日本人の約3割が毎日何らかの「健康食品」を利用しているそうです。

健康食品は大きく二つに分かれます。一つは国が制度を創設して表示を許可しているもので、特別用途食品、特定保健用食品(トクホ)、栄養機能食品、機能性表示食品の4種類があります。もう一つはそれ以外のもので、機能性食品、栄養補助食品、健康補助食品、栄養強化食品、栄養調整食品、サプリメントなどがあります。
特別用途食品というのは、乳児、妊産婦・授乳婦、病者など、医学・栄養学的な配慮が必要な対象者の発育や健康の保持・回復に適するという特別の用途の表示が許可された食品のこと。消費者庁の審査が必要です。
特定保健用食品(トクホ)は、健康の維持・増進に役立つことが科学的根拠に基づいて認められ、「コレステロールの吸収を抑える」などの表示が許可されている食品。「糖・脂肪の吸収をおだやかにする○○○」や「脂肪を代謝する力を高める○○○○○○」がそれに当たります。消費者庁の審査が必要で、許可マークがあります。
栄養機能食品は、一日に必要な栄養成分(ビタミン、ミネラルなど)が不足しがちな場合、その補給・補完のために利用できる食品のこと。
機能性表示食品は、事業者の責任において、科学的根拠に基づいた機能性を表示した食品のことです。

日本では健康食品がブームですが、健康食品が本当に役に立つのかどうかは十分には検証されていません。普通に食事が摂れていれば、今の日本で少なくとも栄養が不足することなどはないと思うのですが、どうしても健康食品を使用したいというのであれば、ご自身の責任で使っていただくしかないと思います。ただし甘い言葉に惑わされないように、お気をつけ下さい。

健康食品を使用するにあたってご注意いただきたいことがあります。
健康食品やサプリメントはいくら食べても害はないし、薬と違って副作用もない、とお考えの方がいるかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。たとえばビタミンEは過剰に摂取すると出血性脳卒中の発症率が高くなることが報告されています。一時注目されたβ-カロテンも、過剰に摂取すると肺がんの発症率が高くなることが知られています。
ビタミンには水に溶けるもの(B、C)と溶けないもの(A、D、E、K)がありますが、水に溶けないもの(脂溶性ビタミン)は過剰症をきたす可能性があります。ビタミンAが過剰になると、頭痛、吐き気、嘔吐、脱毛、発疹など、ビタミンDが過剰になると、食欲不振、口が渇く、血中のカルシウム濃度が高くなって腎臓などにカルシウムが沈着するなどの症状を来たします。
また健康食品に含まれている成分に対してアレルギーを起こすこともあり、注意が必要です。
中には医療機関から処方される薬と一緒に健康食品を摂取している方がいらっしゃるかもしれません。しかし種類によっては薬の効果に悪影響を及ぼすものがあります。有名なのはビタミンKがワルファリンという血を固まりにくくする薬の効果を減弱することでしょうか。ワルファリンは脳梗塞の予防のためなどに使われますが、よかれと思って飲んでいたビタミン剤や青汁が薬の効果を弱め、脳梗塞になってしまったのでは、元も子もありません。
医療機関にかかっている方は、健康食品を使っていることを、必ず担当医に伝えて下さい。

健康食品はけっして安いものではありません。使ってみてあなたが効果を実感できるのであれば、使い続けてもいいと思います。でもある程度使ってみて効果がない場合には、思い切って止める勇気を持つことも必要です。
効くか効かないかわからないものに大金を投じるよりも、バランスのとれた食生活や運動をすることの方が、ずっと役に立つと思うのですが…。

 平成29年2月9日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

高齢者の定義

先日、日本老年学会と日本老年医学会から、高齢者の定義を現在の「65歳以上」から「75歳以上」にすべきという提言がなされました。さらに65歳~74歳を准高齢者、90歳以上は超高齢者とすることも、併せて提言されました。

多くの国で65歳以上を高齢者とするということになっているようですが、この定義には医学的・生物学的な根拠はないようです。しかし実際の医療現場では抗がん剤治療などで65歳未満と65歳以上とでは区別されています。65歳以上の場合は薬の量が減らされることが多く、また造血幹細胞移植のような強力な治療は初めから対象外とされます。でも最近は65を超えてもお元気な方が多く、64歳ならOK、65歳はダメと、はっきり線引きをすることが難しくなっているのが事実です。70代でも矍鑠(かくしゃく)としている方もおられます。確かに65歳以上を高齢者とするのは、実際の感覚に合わなくなってきているのかもしれません。

65歳になったら仕事は辞めて、年金をもらって隠居生活にはいるというのは、元気な高齢者にとっては物足りないことかもしれません。高度経済成長期にバリバリ仕事をしてきた世代の人々にとっては、仕事から離れることは寂しいことに違いありません。それなのに、自分ではそう思っていなくても周りから高齢者と言われると、何となくその気になってしまって、気力が萎えるかもしれません。
最近は企業も高齢者の雇用に理解を示し、65歳を過ぎても雇用を継続するところが増えているとのことです。働けるうちは働く、体力の限界を感じたら自分の判断で辞めるということにすれば、高齢者の能力をうまく活用できるのではないでしょうか。
もちろん、自分はこれまで身を粉にして働いて来たから、今後は家族とともにのんびり暮らしたい、あるいは地域の中でこれまでの経験を活かしたいと考えるのであれば、それはそれで尊重されるべきでしょう。

大事なことは、65歳以上の人々を「高齢者」という枠に押し込んで社会から隔離するのではなく、経験豊富な人生の先輩として、社会に貢献してもらう方策を考えるということなのではないでしょうか。

ひとつ気になることがあります。学会はあくまでも医学的な観点から高齢者の定義を見直すことを提言しているのですが、政府がこれ幸いとばかり年金支給年齢を遅らせたりすることがないだろうか、ということです。65歳以上の方がみんな元気で裕福な生活をしているわけではありません。年金をもらうために75歳まで働けと言われても、それができない人も大勢いるのです。高齢者の定義が変わることで、医療・福祉の政策面で後ろ向きとならないことを願います。

私も高齢者の仲間入りをして、この先どういう人生を送るべきか、時々考えます。若い頃は血液内科医としてがむしゃらに働きましたが、これからはそんなことはできません。病院長職を辞したあと、どこでどういう生活をするか、まだ具体的な方向は定まっていません。少しのんびりしたいなという気持ちもありますし、医師として地域に貢献できればなぁという思いもあります。さて、実際にはどうなることでしょうか。

私は医師としてこれまで大勢の方を見送って来ました。血液疾患患者は比較的若い方が多く、人生これからという10代、20代の方、働き盛りの30代、40代の方の死をたくさん見て来ました。そんな経験から自分だけが80、90まで生きられるとは思っていません。いつか(それがいつになるかはわからないけれど)自分もお迎えが来る、いつもそういう気持ちで日々を過ごしています。だから先のことを考えるときはせいぜい5年先までで、10年先を考えることはありません。死にたいとは思いませんが、いつお迎えが来てもいいように、一日一日を大切に過ごしたいと思っています。

高齢者の定義が75歳以上となるかどうかは置いておき、65歳を超えた方、是非自分の身体に目を向け、いたわってあげて下さい。これまで随分無理をしてこられたのではありませんか? 今まで病気をしたことがない人でも、これからもそうだという保証はありません。身体を大事にして、健康な「高齢者」となることを目指しましょう。そして、できれば「自分もいつかお迎えが来る」という気持ちをどこかに持っていていただけるといいのではないかと思います。余計なお世話かもしれませんが…。

平成29年1月26日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

地域医療構想と今後の柏崎の医療

あけましておめでとうございます。皆さんはどのような新年を迎えられたでしょうか。インフルエンザやノロなど各種ウイルス疾患が流行していますが、皆さんの体調は如何でしょうか。

私達は皆さんにいい医療を受けていただきたいと思っておりますが、そのためには皆さんに医療というものを理解していただく必要があります。医療にできることは何なのか、できないことは何なのか、今後の医療はどういう方向に進むのか、国は何を考えているのか、そして医療に伴うリスクなど、様々なテーマでその時々のトピックスを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。
2~3週ごとに更新していきたいと思っておりますので、お読みいただければ幸いです。
また何かご意見、ご感想がございましたら、私宛お寄せ下さいますよう、お願い申し上げます。

さて、今年の第一弾は「地域医療構想」について。
これについては前にも何度か触れているのですが、各地域での検討結果がまとまり、「新潟県地域医療構想(素案)」として提示されましたので、その内容を簡単にご紹介したいと思います。

国は、これからの人口減少、超高齢社会を見据えて、各地域での医療の在り方を考えなさいと言うのですが、これはあくまでも表向きであって、医療費削減のために金のかかる急性期病床をなんとか減らしたい、というのが本音です。
そんな中で、各都道府県がそれぞれの現状を踏まえて地域医療構想についての検討を進めて来ました。新潟県でも7つの二次医療圏単位での議論が行われ、それをもとに県の保険医療推進協議会専門委員会(地域医療構想策定部会)での検討が行われ、昨年12月に素案がまとまりました。

中越構想区域は長岡市、柏崎市、小千谷市、見附市、出雲崎町、刈羽村の6市町村で構成され、大きく長岡地域と柏崎地域とに分かれます。国が二次医療圏単位、病院単位での役割分担を求めていたことから、当初私は、急性期は長岡の病院が担い、当院はその後方病院となり、規模縮小を余儀なくされるのでは、と心配していました。しかし最終的には長岡地域と柏崎地域はそれぞれ地域内完結型の医療を提供しており、今後もそれを維持することが必要であることが認知されました。
たとえばその地域住民がその地域内の医療機関に入院している割合(完結率)をみてみると、疾患全体では長岡市は84.2%、柏崎市は80.3%です。これを救急医療に限定すると、長岡市は93.8%、柏崎市は88.2%です。柏崎市における8%の違いは、主に悪性新生物によるもので、柏崎市の完結率は70.2%、他の30%の人達は新潟市、長岡市の病院に入院しています。悪性新生物の場合はそれぞれの医療機関で対応できるもの、できないものがあるために止むを得ないと思いますが、救急医療がほぼ地域内で完結しているのはとても重要なことだと思います。

当院は年間約2,500台の救急搬送を受け入れています。都会のように断るなどということはありません。また柏崎市消防本部管内のデータによれば、通報を受けてから病院に収容するまでの平均所要時間は41.4分(平成26年)です。
もし当院が十分な救急対応ができなくなったとしたら、長岡市まで搬送される患者が増え、搬送時間は延びることになります。疾患によっては救命できなくなることもあり得ます。
柏崎地域はこの地域内での完結型医療体制を維持していかなければならないのです。

国は病院単位での役割分担を求めています。つまりある病院は急性期医療に専念し、患者の状態が落ち着いたら別の回復期・慢性期の病院に移る、という形です。大都会ならひょっとすると可能かもしれません。しかし柏崎地域では現時点において回復期・慢性期の患者を受け入れる医療機関や、在宅医療を支える体制は不十分です。また当院は基本的には急性期病院ですが、回復期・慢性期の患者も入院しています。その人達をよその施設に移して当院が急性期医療に特化するなどということはできないのです。
おそらくこういった状況は日本全国どこの地域でも同様だと思います。病院単位での機能分化・役割分担など、絵に描いた餅でしかないのです。

じゃあ今のままで全く問題はないのか、というと、そうでもありません。医師、看護師、薬剤師などスタッフ不足の中で頑張っている病院も、限界に近づいています。開業医も少なくて在宅医療をサポートするのも困難です。医療費も年々高騰し、国が危機感を覚えるのもわからないわけではありません。でも高齢化は進み、医療を必要とする人は今後も増え続けます。そんな状況にあって今後の医療提供体制をどうするのか…。他人事ではないのです。

今回の地域医療構想の策定は、ある意味チャンスだったのかもしれません。地域で、医療関係者だけではなく一般住民も交えて、みんなで医療について考えるいい機会だったのかもしれませんが、結果的には現状追認で終わってしまったような気がします。
国が「つくれ」と言うからとりあえずつくってみた、というのが正直なところかもしれません。でもこれで終わらせてしまってはダメです。今回の地域医療構想の策定にあたって大勢の方が関わったわけですから、今の、そして今後の医療についての問題意識を共有して、将来も持続可能な医療体制を構築するにはどうすればいいのか、みんなで考えてみるべきでしょう。

国民皆保険制度のもと、全ての国民が貧富によって差別されることなく平等に医療を受けられることに感謝し、今後もそれを維持するにはどうすればいいのかを、皆さんにも考えていただきたいと思います。

平成29年1月12日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

栄光の陰に~日本の基礎研究の危うい将来

大隅良典氏が今年のノーベル医学生理学賞に選ばれ、12月10日にスウェーデンのストックホルムで授賞式が行われました。
受賞の対象となった業績は、「オートファジーの仕組みの発見」。

「オートファジー」というのは、細胞が自分自身の蛋白質を分解し、新しい蛋白質の材料として再利用する仕組みのことです。大隅氏が1988年に酵母でオートファジーが起こることを確認したのですが、当時はそれほど注目はされなかったようです。その後研究が進み、オートファジーは哺乳類、昆虫、植物などあらゆる生物に共通の生命現象であることがわかっています。
また最近では、パーキンソン病やアルツハイマー病との関連も指摘され、新しい治療法の開発に繋がることが期待されています。

医学の進歩のためには基礎研究が重要なのですが、それを取り巻く環境が非常に厳しくなっています。

一つはお金の問題。研究のためにはお金が必要ですが、それを支えるのは国からの「運営費交付金」と「科学研究費補助金」。科学研究費補助金(科研費)は研究者個人を対象に研究テーマ別に募るものですが、すぐに結果や利益に結びつく研究に重点が置かれているため、基礎研究者には配分されにくいのが現状です。
基礎科学は運営費交付金に頼らざるを得ないのですが、その運営費交付金は減額の一途をたどり、最近は研究者一人当たり年間50万円程度にしかならないとのこと。これでは満足な研究などできるわけがありません。

もう一つは人の問題。研究者を目指す若者が減っています。
かつては医学部を卒業して医師になると、多くは臨床に進みましたが、一部は基礎医学の研究室に所属して研究者としての道を歩みました。
ところが新臨床研修システムが導入されてからは、全ての医師免許取得者は2年間の臨床研修が義務付けられることになりました。実際には臨床研修を受けずに基礎医学の道に進むことも可能なのですが、基礎医学者の収入は低く、生活のために健診などのアルバイトをしようということになると、臨床研修を受けていなければできないということになってしまったのです。そのためほぼ全ての医学部卒業生は2年間研修を受けることになりました。臨床現場は医師を志す者にとっては魅力的です。卒業時に基礎医学に興味を持っていた人でも、2年間の臨床研修の間にその興味が薄れてしまい、臨床に進む人が多くなり、基礎医学の研究者を目指す人は減ってしまいました。

さらにここにきて「新専門医制度」が発足することとなり、基礎医学にとっては大きなピンチを迎えています。まだ流動的な部分はありますが、最近になって骨格が固まって来たようです。
2年間の臨床研修の後、内科、小児科、外科、産婦人科などの専門医資格の取得を目指して研修を始めるわけですが、日本専門医機構は全ての医師に何らかの専門医資格をとることを勧めています。しかしこの専門医は、病理学を除くと全て臨床系の専門医で、基礎系は無視されています。
現在の医学界には基礎医学を大事にして研究者を育てようという姿勢はなさそうですので、本人によほどのモチベーションがない限り、基礎医学の道に進む人は出て来ないでしょう。
また優れた研究のためには若い柔軟な頭脳が必要と言われています。20代半ばで医師になり、その後5年以上臨床現場で訓練を受け、ある程度固定的な医学的概念を刷り込まれてしまうと、30代になってさて研究を、と言っても、その人に柔軟な発想を求めるのは難しいかもしれません。
iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞した山中伸弥氏は、かつては整形外科医で、手術が下手で先輩からしょっちゅう怒られていたそうですが、基礎の研究者になって優れた業績をあげました。でもそんな人は滅多にいないのです。
今自分が研究していることが、いつか病気の原因解明や治療に結びつくかもしれない…、そう思って地道に研究に取り組む若い人が増えて、基礎医学の裾野が広がらない限り、日本の医学の将来は危ういと言っても過言ではないと思います。

すぐに結果に結びつかなければ無駄だといって切り捨て、効率を優先するような国あるいは社会では、将来ノーベル賞に繋がるような画期的な仕事など、けっして出てこないのではないかと思います。無駄かもしれないけれど、ひょっとするとものになるかもしれない…、そんな思いでおおらかに見守ってくれるような社会であることを願うばかりです。

 平成28年12月22日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

新語・流行語大賞

今年の世相を映した言葉を選ぶ「2016ユーキャン新語・流行語大賞」が発表されました。
年間大賞は「神ってる」。プロ野球広島カープの緒方孝市監督が、鈴木誠也選手の活躍を評して使った言葉です。
この他トップテンに入ったのは、「ゲス不倫」「聖地巡礼」「トランプ現象」「PPAP」「保育園落ちた、日本死ね」「アモーレ」「ポケモンGO」「マイナス金利」「盛り土」
ふーん、なるほど、という感じですね。
「神ってる」という言葉は、たぶん「神憑り」→「神憑る」→「神憑ってる」→「神ってる」という感覚で使われたのでしょうが、「神憑り」を動詞化した「神憑る」という言葉そのものが辞書には載っておらず、まさに「新語」ということになります。
日本語はもともと漢字、ひらがな、カタカナが混じり合い、しかも和製英語などもあってとても複雑なのですが、さらに様々な新しい言葉が生まれて、一層複雑化しています。

こんな言葉、知らないよ、というのが「ギャル流行語大賞」で選ばれた言葉。第1位が「沸いた」、以下「よき」「らぶりつ」「リアタイ」「最&高」「ソロ充」「やばたにえん」「ありよりのあり」「フッ軽」「きびつい」と続きます。皆さんはいくつご存知でしょうか。実際に使っておられる方、います?
因みに「沸いた」というのは、嬉しい!、最高!といった興奮状態の時に使用される言葉なのだそうです。他の言葉はどうせ私達には縁がなさそうですので、解説は省略します。

新しい言葉はインターネットを介してあっという間に拡がりますが、高齢者などインターネットに長けていない世代は取り残されます。その結果世代によって使う言葉が異なり、うまくコミュニケーションがとれなくなります。
時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、果たしてこれでいいのかなという疑問も湧いてきます。

社会を構成、維持するためには、コミュニケーションが重要です。医療の現場でもそうです。医療側患者側それぞれが、お互いを理解しなければなりません。そのためには言葉が必要ですが、お互いに通じる言葉でなくてはなりません。かつて(ひょっとすると今でも?)医療側は患者・家族と話をするときに専門用語を連発し、ひんしゅくを買いました。医療側がいくら一生懸命話しても、相手にわからない言葉で話したのでは、その思いは伝わりません。最近は医療側もできるだけわかりやすく話すよう努力はしているのですが、まだまだ不十分です。
逆に患者さんの側が医療側には理解できないような方言(これはこれで大切にしなければならないものだとは思いますが…)でしゃべったり、若い人が自分の世代でしか通用しない言葉を使ったりすると、やはり医療側との意思疎通を図ることができません。

以心伝心というわけにはいきませんので、コミュニケーションのためには言葉を大事にしなければなりません。新しい言葉がどんどん生まれることが悪いというわけではありませんが、仲間内ならいざ知らず、それ以外の人と話をする場合には、お互いに通じる言葉を用いるべきなのではないでしょうか。

平成28年12月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

自分で考えて意思表示をすることの大切さ

米国の大統領選挙が行われ、大方の予想を覆してドナルド・トランプ氏が勝利をおさめ、次期大統領に就任することになりました。過激な発言を繰り返したトランプ氏への風当たりは強く、戦前の予想では70%以上の確率でヒラリー・クリントン氏が勝つだろうと言われていたのですが、その予想は外れました。米国の民意はトランプ氏を選んだのです。
ここでは米国の選挙結果についてあれこれ論評するつもりはありません。申し上げたいのは、米国人の自分で考え、自分で決めるという姿勢が、国のトップをも変える力を持つことのすごさです。当初は泡沫候補とみられていたトランプ氏が、選挙戦が進むにつれて支持を拡げたのは、彼の主張に耳を傾け、自分でいろいろ考えた末、トランプ氏の主張に共感し、支持を決めた有権者がいるからです。
米国も日本同様、いわゆる組織票は重要なのでしょうが、個人の意思がそれを上回ったということでしょうか。

日本においても各政党の支持率は低く、選挙においてはいわゆる浮動票の行方が勝敗のカギを握っているのですが、日本では投票せずに棄権する有権者が多く、選挙結果は戦前の予想通りということがほとんどです。
投票率が50%に満たない場合、その選挙結果が本当に民意を反映していると言えるのか、常々疑問に思っています。主権者として自分の意思表示をするということは、とても重要なことだと思うのですが…。

医療の現場では、インフォームド・コンセントが重視されています。このことは前からしばしば申し上げているのですが、実際にはそれほど浸透しているとは言い難いのが現状です。
インフォームド・コンセントは適切な訳語がないため、そのままカタカナ語として使われていますが、基本的には患者さんの側の言葉です。すなわち、医療側から十分な説明を受けてその内容を理解し、自分で考えて自分で判断し、自分で決めて医療側に同意を与える、あるいは同意しないという一連の行為を言います。この「自分で」という部分が大切で、欧米人にとっては当たり前のことなのでしょう。でも日本人にとってはなかなか馴染めないようです。

医学医療はとても不確実なもので、限界があり、リスクも内包しています。そんな中で医療を実践するためには、患者側と医療側とのお互いの信頼関係が必須です。治療がうまくいくかどうかはやってみないとわからない、うまくいけばいいけれど、うまくいかなかったときにもその結果を受け入れる必要があります。うまくいかなかったら医療側が悪い、医療側に責任がある、それ、訴訟だ、ということでは、医療などできません。良い結果であっても望まぬ結果になったとしても、自分で決めた以上それを受け入れる、そんな潔さがインフォームド・コンセントなのかもしれません。

もしあなたが病気になったときには、担当医とよく話し合い、担当医から十分な情報を引き出した上で、どんな治療を選択するか、自分で考え、自分で決めて下さい。病気はあなた自身のもので、誰も取って代わることはできないのです。
でも、そんなこと言ったって…、自分は医療にはシロウトだし…、自分で決めろと言われても、そんなことムリムリ、とおっしゃるのなら、どんな結果になっても後悔しないような信頼関係を、担当医との間に築いて下さい。「おまえに命を預ける」という人間としての関係が築けるのであれば、それもまた潔いかもしれません。

自分で考え、自分で決めるという姿勢は、病気と対峙するときだけではなく、国の行く末を決める上でも重要で、しかも大きな力を持つということを、今回の米国大統領選挙が教えてくれたような気がします。

 平成28年11月24日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

男女共同参画社会

内閣府による「男女共同参画社会に関する世論調査」の結果が公表されました。
調査は今年の8月25日から9月11日の間に、全国の18歳以上の5,000人を対象として、調査員が個別に面接するという方法で行われ、3,059人(61.2%)から回答を得ています。

内容のいくつかをご紹介すると、社会全体における男女の地位の平等感については、男性の方が優遇されていると感じている人が74.2%、女性の方が優遇されていると感じている人が3.0%、平等という人が21.1%でした。
女性が職業を持つことについては、子どもができてもずっと仕事を続ける方がよいと答えた人が54.2%で、前回調査(平成26年)の44.8%を大きく上回りました。一方、女性は職業を持たない方がよいと答えた人も3.3%で、前回調査の2.2%を上回っています。
また子どもができたら仕事を辞め、子どもが大きくなったら再び仕事に就く方がよいと答えた人が26.3%、子どもができるまでは職業を持つ方がよいと答えた人が8.4%、結婚するまでは職業を持つ方がよいという人が4.7%という結果でした。
「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に賛成の人は40.6%、反対の人は54.3%でした。男女別にみると、賛成と答えた人は男性44.7%、女性37.0%、反対と答えた人は男性49.4%、女性58.5%でした。
賛成とする理由は、「妻が家庭を守った方が、子どもの成長などにとって良いと思うから」が60.4%、「家事・育児・介護と両立しながら妻が働き続けることは大変だと思うから」が45.6%、「夫が外で働いた方が、多くの収入を得られると思うから」が32.9%でした。
反対とする理由は、「固定的な夫と妻の役割分担の意識を押し付けるべきではないから」が52.8%、「妻が働いて能力を発揮した方が、個人や社会にとって良いと思うから」が46.8%、「夫も妻も働いた方が、多くの収入が得られると思うから」が40.6%でした。
さらに結婚して姓が変わった場合、働くときに旧姓を通称として使いたいと思う人は、31.1%で、男性39.5%、女性23.9%でした。若い人ほど旧姓を使いたいという人が多く、18~29歳では40.5%でしたが、高齢者であっても60~69歳で27.7%が使いたいと回答しました。

この結果を皆さんはどう解釈、評価されるでしょうか。
「夫は外で仕事、妻は家庭」という考え方は日本社会に根強く残っていますが、時代とともに少しずつ変わって来ているのも確かです。
ただ夫婦共働きが単に収入増のためだとしたら、ちょっとな、という思いもあります。

医療職についてみてみると、医師はこれまでは圧倒的に男性が多かったのですが、最近は女性医師が増えています。大学の医学部も学生が男女半々というところもあるようです。
余談ですが、医学部学生時代の私のクラスは100余名中、16名が女性でした。皆さん優秀で、卒業式のときにクラストップの成績で卒業証書を代表して受け取ったのも女性でした。卒業後も皆さんそれぞれご活躍になっておられます。
看護師は逆に女性の職業という印象でしたが、最近は男性看護師が増えてきています。かつては女性は「看護婦」、男性は「看護士」と呼ばれましたが、今は「看護師」に統一されています。
結婚あるいは出産を機に辞めてしまう方もおられますが、多くの方々が仕事と家庭を両立させて頑張っています。
これ以外の医療職についても、かつては比較的女性の多い職種(薬剤師、臨床検査技師、栄養士など)、逆に男性の方が多い職種(臨床放射線技師など)に分かれていたのですが、最近は男女差がなくなりつつあります。

私は「男らしさ」「女らしさ」があるのは自然なことと考えていますが、仕事をする上では男だから、女だからということで差別する理由はないと思っています。重要なのはその人の能力です。もちろん体格面での違いはありますから、何でもかんでも男女一緒というわけにはいかないかもしれません。
また性格的な向き不向きもあると思います。職種によっては男性向きあるいは女性向きというのもあるかもしれません。それを全て否定して、何でもかんでも男女平等と叫ぶのもどうかな、と思います。
妊娠・出産は女性にしかできないことですから、女性「性」は大事にする必要があると思っています。
今後真の男女平等社会を築いていくために必要なのは、これまでの男性優位社会に対する認識を改めることだろうと思います。男であること、女であることをそれぞれが自覚した上で、お互いを尊重し、お互いに敬意を払うことが大切なのではないかと思います。

ただ私としては一つ気になることがあります。子どものいる夫婦が揃って仕事に出るとしたら、しかも今の社会では当たり前と思われている残業もこなして、朝早くから夜遅くまで働くとしたら、誰が子どもの面倒をみるのだろうかということです。今は核家族化していて、昔のようにおじいちゃん、おばあちゃんが孫の面倒をみることはできません。保育所を整備する必要がありますが、仮に保育所が整備されたとしても、親と一緒にいる時間は確実に減りますので、そのことが子どもの成長、特にこころの成長にどのような影響を及ぼすのか…。親が常に傍にいるということは、子どもにとっては大きな支えであり、大切なことなのではないかと思うのですが…
また保育所に預けられた子どもが熱を出したりして具合が悪くなったとき、親(父親? それとも母親?)はどう対応するのか…。仕事を抜けて子どもに付き添うことが可能なのか…。そのことを職場が快く許容してくれるのか…。

男女共同参画社会という構想は当然のことなのでしょうが(労働人口を増やしたいという政府の思惑が透けて見えるようです)、働き方が今と変わらない限り、そして社会全体でサポートしようとする体制が整わない限り、実現するのは難しいかな、という気がします。
また実際に働く世代のことだけではなく、将来を担う子どものことも考えた社会の在り方(子育てを個人任せにするのではなく、社会全体として責任を負う)を、みんなで考える必要があるのではないでしょうか。

 平成28年11月10日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

人間の寿命

厚生労働省の発表によれば、平成27年(2015年)の日本人の平均寿命は男性80.79歳、女性87.05歳でした。
1890年代から50年間は男女とも40歳代だったものが、1947年に男性50.06歳、女性53.96歳と、初めて50歳を超え、以後現在まで平均寿命は延び続けています。
長生きしたい、という思いは、不老不死の秘薬を追い求めた秦の始皇帝以来、人間の変わらぬ願望です。

でも人間っていつまで生きられるのでしょうか。平成28年6月現在で、日本人の最高齢者は男性で111歳、女性115歳です。世界で最も長生きした人はフランス人の女性で、122歳だったそうです。
最近Natureという有名な医学雑誌に、人間の寿命はほぼ限界近くまで延びていて、今後122歳を超えて長生きする人はおそらくいないだろうとする論文が掲載されました。
ただ近年は老化のメカニズムが少しずつ解明されており、将来、老化を防ぐあるいは遅らせることが可能になるかもしれません。そうなるともう少し寿命が延びるかもしれません。でもそれが人間に幸せをもたらすのかどうかはわかりませんが…。

齢をとっても元気で矍鑠(かくしゃく)としていればいいのですが、現実はそうではありません。前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、平均寿命と健康寿命すなわち「健康上の問題で日常生活が制限されることなく過ごせる期間」とは10年位の差があり、晩年の10年間は何らかの病気のために日常生活が制限され、介護などが必要となっているのが現実です。
長生きしたいという思いを否定するつもりは全くありませんが、不老不死が望めない以上、ある年代になったらどういう生き方をするのか、そしてどういう死を望むのか、哲学的な思いに浸ってみるのも悪くないのではないでしょうか。

今の日本社会は長生きしたから幸せとは必ずしも言えない面があります。そんな中で高齢者はどう生きればいいのでしょうか。30代、40代で高度経済成長を支えた人々に対して、国はもう少し暖かい手を差し伸べることはできないのでしょうか。
かつての大家族制は崩れ、今は高齢夫婦の二人暮らし、あるいは高齢者の一人暮らしの世帯が多くなっています。そんな人々が悠々と安心して生活できるような地域社会を築くことが、国の役割ではないのかな、と思っています。
今後医療費の増加が続けば国の経済が破綻すると政府は言うのですが、国を支えるのは人、国民です。その国民が安心して生活できるよう下支えをしなければ、経済がどうの、国の発展がどうのと言っても、所詮は詮無いこと、と思うのは、私が政治・経済のセンスに欠けるが故なのでしょうか。

私もいわゆる高齢者の仲間入りをしました。残された人生はそう長くはないのかなと思っていますが、お迎えがいつ来るかは誰にもわかりません。「ああ、いい人生だった」と言ってあの世に旅立てればいいなと思っています。

平成28年10月27日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

未成年安楽死のニュースに触れて思うこと

ベルギーで未成年が安楽死した、という報道がありました。年齢や性別など詳細は明らかにされていません。ベルギーでは安楽死が合法化されており、未成年も肉体的な苦痛があって死が間もない患者で、親の同意があれば安楽死ができることになっているそうです。
日本では「安楽死」と「尊厳死」が混同して使われていることから、報道で「安楽死」と伝えられても、実際の状況がわからないとコメントの仕様がありません(安楽死と尊厳死については、コラム78をご参照下さい)。でも、死を選択しなければならないほど苦しかったことは事実なのでしょう。長く緩和ケアに取り組んで来た者としては、何とか苦痛を和らげる手立てはなかったのかな、と考えてしまいます。人生これから、という若い方が亡くなるのは心が痛みます。その死を傍らで見守るご両親のつらさはいかばかりでしょうか。

人間は確かにいつかはお迎えが来るのですが、それがいつなのかは誰にもわかりません。そしてほとんどの人は自分は当分は死なないと思っています。若い人はもちろんですが、かなり齢をとられた方も同様です。たぶんそれは人間にとっては重要なことなのだろうと思います。自分がいつ死ぬかがはっきりしたら、多くの人々はその恐怖感に押しつぶされてしまうかもしれません。
私はいつも、人間には寿命があるのだから、死を意識しながら一日一日を大事に、しっかりと生きましょうと、わかったようなことを言っていますが、口で言うほど簡単でないことは、自分自身も十分理解しています。人生、先が見通せないということは、ひょっとすると大切なことなのかもしれません。

しかしがんの末期あるいは神経難病のように、治癒が望めず、死と向き合わざるを得ない人がいることも事実です。その方達はいったいどのような思いで日々を過ごしているのでしょうか。

寿命が限られていることを知らされた人は様々な葛藤を抱えます。そして様々な思いを周囲にぶつけます。かつて精神科医のキューブラー・ロスが大勢のがん患者と面接をし、がんが治らないということを告げられるとまず衝撃を受ける、そしてその後否認、怒り、取り引き、抑うつなどの感情が表れ、最終的には受容に至る、ただいつの時にも一貫して希望を持ち続けるという心の過程を示しました。もちろん実際にはそれほど単純ではないのですが、常に希望を持ち続けるということが重要です。
その希望というのは、いつか新薬が開発されて自分の病気が治るかもしれない、というものであったり、娘の結婚式までは生きていたいというものであったり、自分が生きて来た証を何らかの形で残したいというものであったり、人それぞれです。
死の恐怖に押しつぶされて心が壊れてしまうという人はほとんどいないのです。人間の強さを感じます。
そうであれば私達医師は、患者さんに病状をきちんと伝え、残された時間をどう使うかは患者さんに任せ、患者さんの生き方をしっかりサポートすることが役割なのではないかと思います。病気を治せなくとも、傍にいて一緒に歩む、それが私達のなすべきことなのではないかと考えています。
一緒に歩むという気持ちがあれば、患者さんが苦しんでいるのを黙って見ているわけにはいかないと思います。少なくともどこかの大病院の医師のように、ここではもうやることがないからよその病院へ、などと言うことはないはずです。

冒頭の安楽死を選択した未成年、詳しい状況はわかりませんが、医師や他の医療スタッフと十分に心を通わせた上での最終的な選択であったことを、看取る機会の多い医師の一人として願っています。

 平成28年9月29日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

大地震に備える

先日イタリア中部で大地震が発生、多数の死傷者が出て、避暑地として名高いアマトリーチェの街が崩壊しました。また同じ日にミャンマーでも地震があり、貴重な仏教遺跡に大きな被害が出たとのこと。
日本でもついこの間熊本で大きな地震が起きたばかりですし、東日本大震災の大惨事は今も目に焼きついています。
柏崎地域に限っても、中越地震、中越沖地震と短期間のうちに大きな地震が相次ぎました。この先動く可能性のある断層が近くにあり、三度(みたび)、大きな地震に見舞われることも否定できないと言われています。
さらに今後30年以内にマグニチュード8~9の南海トラフ巨大地震が60~70%の確率で起こると予測され、また2020年までに首都直下地震の起こる確率は100%という予測もあります。

地震大国日本では以前より地震発生予知の試みがなされてきましたが、残念ながら正確に予知できたものはないようです。
2016年6月に政府の地震調査研究推進本部より「全国地震動予測地図2016年版」が公表されました。それによると今後30年間に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率は、関東から四国にかけての太平洋側で高くなっています。特に千葉市と横浜市では80%を超えています。3%以上であれば確率が高いとされる中で、80%を超える確率というのは、「絶対起こる」と言い換えてもいいのではないでしょうか。
ただし確率が低いからといって安心はできません。この報告書の中でも触れられていますが、全国どこでも強い揺れに見舞われる可能性はあり、実際熊本市の確率は7.6%とやや低めでしたが、あのような大きな地震が起こりました。

大地震に見舞われる確率をどうとらえたらいいのでしょうか。
先にも述べたように、首都直下地震は2020年までに100%の確率で起こるとも言われ、全国地震動予測地図でも今後30年間に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率が東京都庁では47%、さいたま市では55%、そして横浜市では81%となっています。
これだけ高い確率でありながら、該当地域の人々の危機意識は乏しいように見えます。政府もこういう地震が起こったらこれだけの被害が出るという想定(たとえば震源地を都心南部とするマグニチュード7クラスの首都直下地震の場合、死者最大2万3千人、負傷者最大12万3千人)はしても、じゃあそれに備えてどういう対策をとるのか、また実際に地震に見舞われたその時にどうするのかという具体的な対応策については示そうとしません。起こるわけがないと考えているのか、あるいは起こったら起こったで仕方がない、天災には逆らえないと開き直っているのか…。何としてでも国民を守るというのが政府の役割のはずなのに…。

被害想定にしても、首都直下地震で死者が最大でも2万3千人というのは甘すぎるのではないでしょうか。地震が起こる時間帯にも依るでしょうが、人口密集地で高層ビルが林立、耐久性が不安視されている首都高速道路網、網の目のようにはりめぐらされた地下鉄路線、そして広大なゼロメートル地帯…、そんな地域を襲う激しい揺れ、そしてさらに津波が押し寄せるとしたら…。人口密度の低い地域で発生した東日本大震災の時でさえ2万人近い死者・行方不明者が出たのですから、首都圏であればその何倍、何十倍にもなるであろうことは、容易に想像がつきます。
直下地震の場合は津波は発生しないという想定なのでしょうか。
因みに南海トラフ巨大地震が起こった場合には大津波が襲うことは間違いなく、死者は33万人と想定されています。
これだけの被害が想定されるのなら、それをできる限り少なくするための手立てを講じるのが政府の仕事なのでは、と思うのですが、そのような動きは伝わって来ません。

政府が国民を守らないのであれば、私達は自衛できるところは自衛するしかありません。自分の命は自分で守る、ということでしょうか。とは言っても、できることは限られますが…。
災害時の対応をコンパクトにまとめた「災害時ハンディ便利帳」という小冊子が世界文化社から出版されました。一度目を通した上で手元に置いておくと役に立つのではないかと思います。

日本人は親方日の丸的なところがあって、何かあっても国がなんとかしてくれると思いがちですが、地震を初めとする自然災害については、国の支援は期待できません。今までもそうであったように、「想定外」の一言で済まされてしまうのがオチです。

2020年は東京オリンピックが開催される年です。それまでに首都直下地震が起こる確率が100%…、なんだかとても不気味な感じがします。もちろん予測が外れて起こらなければそれに越したことはありません。リオデジャネイロオリンピックの感動が覚めやらぬ中で、4年後に是非また感動を味わいたいと思ってはいるのですが…。

「全国地震動予測地図」によれば、柏崎地域の今後30年間の大地震の確率は6~26%です。かなり高いと言うべきでしょう。2回の大きな地震を経験した私達としては、3回目もあり得ると考えて、できる備えはしておかなければならないと思います。

平成28年9月8日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

「患者力」という言葉をご存知ですか?

かつての医療は「お任せ医療」とか「パターナリズム」とか呼ばれて、医師が絶対的な権限を握っていました。医師は患者さんに対して「素人は黙ってプロである自分の言うことに従って入ればいい」という態度をとり、また患者さんも「自分は素人で何もわかりませんので、よろしくお願いします」と医師に全権を委ねていました。
その頃は患者さんが手に入れられる医療情報は限られており、知識格差が大きかったため、患者さんは医師に従わざるを得なかったのです。

それが徐々に患者さんにも情報が入るようになり、それに伴って医療の不確実性が明らかとなって来ました。同時に医療事故がマスコミで頻繁に報道されるようになり、それまでの医療に対する信頼が揺らぎ始めました。「お医者さんに任せておけば大丈夫と思っていたのに、そういうわけでもないんだ」と、人々が感じ始めたのです。

そうこうしているうちに米国から「インフォームド・コンセント」の概念が導入され、医療の在り方が大きく変化することになりました。
「インフォームド・コンセント」については前にもお話ししましたが、適切な訳語がなく、そのまま使われています。直訳すると「情報を提供された上での同意」ということになるのですが、実はその中に様々な要素を含んでいるのです。即ち、まず医療側が診断や治療に関して必要な情報を患者さんにわかりやすく説明をします。患者さんはそれをきちんと理解しなければなりません。その上で提示された治療法などについて自分で考え、納得し、選択・決断し、医療側に同意を与える、あるいは拒否するということになりますが、その一連の過程を「インフォームド・コンセント」と言うのです。
今までは「先生にお任せ」で済んでいたものが、自分で考え、自分で決めなければならなくなったのです。

米国においては、自由民権運動の高まりの中で、自分の権利を守るという意識から必然的に生まれて来たのがインフォームド・コンセントなのですが、日本においては人々の権利意識の高まりからというよりは、医療側が率先して取り入れたという面が大きいと思います。つまり医療というものが不確実で限界があるということがわかったことで人々の間に広がった不安感、不信感をなんとか収めようという医療側の意思が働いたということでしょうか。
その分当初は一般の人々には馴染みが薄く、自分で考えて自分で決めろなんて言われてもなぁ、と戸惑った人がほとんどだったと思います。でも時間をかけて少しずつ浸透し、今では当たり前の概念として受け入れられています(と思うのですが…)。

医療が不確実で限界があり、しかも少なからぬリスクを抱えていることが明らかになった以上、そのことを患者側も引き受けなければならなくなったのです。お医者さんに任せておけば全てうまくいくわけではないのです。医療側と患者側が十分に話し合い、お互いの信頼感を構築し、お互いが納得した形で医療行為を進めていく…、そのためのカギがインフォームド・コンセントなのです。

あなたが病気になって医療機関を受診すると、あなたが望もうと望むまいと、膨大な情報があなたに降り注ぎます。今まで病気なんてしたことがなく、病気の知識など何もなかったところに、これでもか、これでもかと情報が詰め込まれると、たぶんあなたは呆然とするに違いありません。でもここで落ち着いて膨大な情報を自分なりに整理する必要があります。そして疑問な点は医療側にぶつけ、さらに理解を深めましょう。その上で自分はどのような治療を受けたいか考える必要があります。ある病気に対する治療は複数存在するのが一般的です。この病気にはこの治療しかないということはまれです。医療側はあなたの状況を考えてこの治療がいいと提案すると思います。あなたがそれを納得できるのならその治療を選べばいいと思います。でも自分は別の治療を選択したいという希望があるのなら、それを率直に医療側に伝えて下さい。そして心ゆくまで話し合って下さい。医師は医療に関してはプロです。たくさんの知識と情報を持っています。それを上手に引き出し、利用して下さい。このような忌憚のない意見交換ができる関係を築くためのコミュニケーション能力を磨くことが大切です。
その上で治療法が決まったら、あとは医療側と協力しながら治療に取り組みましょう。選んだ治療が100%奏効するとは限りません。うまくいかない場合もあり得ます。その不確実性を許容する必要があります。100%でなければダメだということになると、医療は成り立ちません。結果については全てをあなたが引き受ける覚悟が必要なのです。

表題に掲げた「患者力」というのは、あなたがいい医療を受けるために必要な力なのですが、そんなに難しく考えることはありません。要は自分の病気を人任せにせず、自分のこととして捉えていろいろな知識を習得すること、そして医療側と良いコミュニケーションをとって、お互いの信頼関係を築くこと、それだけなのです。

患者力というものを理解する上で参考になりそうな書籍をご紹介します。表題は挑発的で気に入らないのですが…。

  • 「医者に手抜きされて死なないための患者力」 増田美加 著 講談社
  • 「一流患者と三流患者~医者から最高の医療を引き出す心得」 上野直人 著 朝日新書562

めんどくさいとお思いですか? 確かにそうですよね。私達日本人は信頼できる相手であれば、決断をその人に任せてしまうという面があるようです。
たとえば料理屋でおまかせコースというのがありますよね。あれは欧米人にとっては信じ難いことなのだそうです。自分が食べるものを人任せにして、しかも何が出てくるかわからないなんて、「信じられなぁ~い」ということらしいです。
同様に自分の体に関する医療行為を全部人任せになんてできないというのが欧米人の感覚なのでしょう。
でも一人の日本人としての私は思います。もし医師との間に揺るぎない信頼関係を築くことができて、その医師に自分の命を預けるという覚悟ができるのであれば、その医師にお任せというのもアリなのではないか、と。

 平成28年8月25日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

収入による医療格差への懸念

以前から米国においては収入と平均寿命が相関することが予想されていました。たとえば州別の健康保険カバー率と平均寿命をみてみると、健康保険カバー率が低い⦅即ち低収入のために保険に加入できない人が多い⦆州は平均寿命が短く、健康保険カバー率が高い州は平均寿命が長いというデータが示されています。そんな中で最近、「米国における収入と寿命との関係(The Association between Income and Life Expectancy in the United States, 2001-2014)」という論文が米国医師会雑誌に掲載されました。
それによると、トップ1%の超富裕層の平均寿命は男性87.3歳、女性88.9歳であるのに対して、ボトム1%の最貧困層の平均寿命は男性72.7歳、女性78.8歳で、超富裕層とは男性で14.6年、女性で10.1年の開きがあったとのこと。
さらに調査した14年間で、所得トップ5%の平均寿命は男性で2.34年、女性で2.91年延びましたが、所得ボトム5%は男性0.32年、女性0.04年のわずかな延びにとどまっています。

収入の違いがなぜ寿命に関係するのかは、生活環境などいろいろな要素があるとは思いますが、収入により受けられる医療内容が違ってくる、言い換えれば低所得者は高額の有用な医療を受けることができない、そのために治る病気も治らない、ということも、一つの理由かもしれません。

米国の医療費が高いということは皆さんもご存知だと思いますが、それをカバーする保険は基本的には民間保険です。そしてその保険料は高額で、低収入の人はこれまで保険に入ることができませんでした。またいろいろな種類があって、保険によってはカバーする医療内容に違いがあります。
そんな状況を改善するはずだったいわゆるオバマケアによって、米国民の全てが保険加入を義務付けられましたが、それは日本の国民皆保険とは全く異なります。オバマケアにおいては、米国民それぞれがそれぞれの収入に応じて保険を買うのです(保険に入らないと罰金が科せられます)。低所得者が買える保険では、当然ながらカバーする医療の範囲は限られることになります。オバマケアによる国民皆保険は国民の健康保持のためではなく、民間保険会社の保険販売の道を拡げただけ、と言うのは、言い過ぎでしょうか。

翻って日本の保険制度がどうなっているかを確認してみましょう。
皆さんひとり一人が保険料(個人により額が若干異なりますが、少なくとも米国の保険料よりはずっと低額です)を納めていることはご存知ですよね。その保険料は国が拠出する分と併せてプールされ、保険者(市町村国保、協会けんぽ、健保組合、共済組合)が管理します。あなたが医療機関にかかり、検査や治療を受けることでかかった費用は、一部(原則3割)をあなたが負担し、残りは保険者がプールしてあるお金から医療機関に支払うのです。しかも高額療養費制度というものがあって、自己負担が約8万円(上位所得者の場合は約15万円)を超えた分については保険でカバーされます。また医療機関についても、自分がかかりたいと思うところに自由にかかることができます。保険証1枚さえあれば、収入の多寡にかかわらず、全ての国民が平等に高いレベルの医療を受けることができるのです。
日本の皆保険制度は社会保障としての意味合いが大きいと言えます。

この世界に誇るべき国民皆保険制度が、米国の圧力によって(?)少しずつ変容しようとしています。
今年の4月、患者申出療養制度がスタートしました。これは、欧米では認可されて使われているが日本では認可されていない薬を患者が使いたいと思った時に、特定の医療機関に申し出ることで厚生労働省が迅速に審査をし、その申し出者に限定して使用を認める、というものです。当然自費になります。そしてこれまでの評価療養とは違って、将来その薬が保険に収載されるのかどうか、全く保証はありません。この制度を利用する人は高額の自己負担が可能な一部の富裕層に限られます。あるいは「そのとき」に備えて民間保険に加入する人が増えるかもしれません(これこそ米国の保険会社の思うつぼです)。
そうしてこの制度を利用する人が増えていけば、医療費を減らしたい国としては、無理に保険収載はしないという方針をとることが予想されます。自費で大勢の人が利用できるのであれば、わざわざ国が金を出す必要はないからです。そうなると所得が低くてお金を払えない人はその薬を使うことを諦めざるを得ない…、そして医療の格差が拡大してゆく…。
これまでは所得にかかわらず全ての国民が同じ医療を受けることができたのに、ひょっとすると今後は所得の多寡によって受けられる医療に差が出てくるかもしれない…、ちょうど今の米国のように…。
それは皆さんが望むことなのでしょうか。

「米国の圧力によって」という言い方をしましたが、米国においては医療はビジネスなので、日本進出を目論む米国企業にとっては皆保険制度は邪魔なのです。これまでも米国が日本政府に様々な要求を突き付け、皆保険制度に風穴をあけようとしてきたことが知られています。そして最終兵器ともいうべきものがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)なのです。(ここでは詳しい話はしませんが、関心のおありの方は、堤 未果著:「沈みゆく大国アメリカ」二部作をお読み下さい。)

当たり前と思っていると、その当たり前の大切さが見えにくいのですが、国民皆保険制度も失ってみて初めてその大切さがわかるものなのかもしれません。でもいったん失ってしまったら、取り返しがつかないのです。
今後の医療情勢について、是非皆さんも注意を向けていただきたいと思います。

 平成28年8月4日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

在宅死

自宅で死を迎える人の死亡者全体に占める割合について、市町村別にまとめたデータ(2014年)が厚生労働省から公表されました。人口5万人以上の自治体で最も多かったのが兵庫県豊岡市の25.6%、最も少なかったのが愛知県蒲郡市の5.5%でした。
新潟県についてみてみると、最も多かったのが粟島浦村の40.0%、最も少なかったのが津南町の5.1%でした。新潟市は9.2%、長岡市は12.7%、上越市は12.9%、そして柏崎市は8.9%、刈羽村は16.7%でした。
全国平均は12.8%。因みに同年の病院死の割合は75.2%となっています。
各市町村で差があるのはそれぞれ事情があるからでしょうが、ここではコメントはしません。

ところで国がこのようなデータを公表する意図は、いったいどこにあるのでしょうか。

国は医療費削減のために入院病床を減らすことに必死です。急性期病床がターゲットではありますが、医療需要の少ない患者さんを病院から在宅に移行させることにも積極的です。多くの方が「最期は自宅の畳の上で迎えたい」と願っているのだから、家に帰るのが当然でしょ、というわけです。
家に帰って自立した生活を送れる人であればいいのですが、実際には今療養病床に入院している方達は、他者の介護を必要とする人がほとんどです。その方達が家に帰ったとき、いったい誰が面倒をみるのでしょうか。核家族化が進み、高齢者のみの所帯が増えています。高齢者の一人暮らしがかなり多くなっているのも事実です。昔のように家族の中の誰かが面倒をみるというわけにはいかないのです。
国は医療と介護の連携を謳ってはいますが、現実にはほとんど進展していません。国は政策は掲げても、実際の対応は市町村に丸投げなのです。今回このようなデータを出したのは、在宅医療への対応が遅れている市町村の尻を叩くためだったのでしょうか。

仮に在宅での療養が可能であったとしても、亡くなるときに家族がそのまま自宅で看取るのは、けっこう大変です。まず第一に「自分はここで死ぬんだ」というご本人の固い決意と、「何としてでも私達が家で看取る」というご家族の覚悟が必要です。しかし人の死に慣れていないと臨終間近の様々な症状に不安を抱き、ついつい救急車を呼んでしまいがちです。そういう家族の思いをかかりつけ医や訪問看護師などが支えなければならないのですが、実際にはなかなかうまくいきません。
救急車で病院に運ばれると、病院のスタッフは救命に全力をあげることになりますので、点滴をしたり、場合によっては気管内挿管後人工呼吸器に繋いだり、ということになって、ご本人の意思とは違った形での死を迎えることになります。

自分の死に方を選ぶのは難しいのですが、ある程度の年齢になったら自分はどう死ぬかということを考えておいてもいいのではないかと思います。何も国の意向に左右されることはありません。在宅死でも病院死でも、どちらでも構わないのです。ただし自分の頭の中に置いておくだけではダメです。ご家族とよく話し合っておく必要があります。
もし一人暮らしの場合には、あなたを支えてくれている周辺の人々にしっかりと自分の思いを伝えましょう。できれば「孤独死」は避けたいものです。

死はある意味生の総仕上げと言ってもいいかもしれません。「終わり良ければ総て良し」という言葉がありますが、せっかくの人生を台無しにするような死に方はしたくない…、少なくとも私はそう思っています。

平成28年7月21日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

熱中症の話 その2

6月は急に暑くなり、熱中症で救急搬送される方が続出しました。体が暑さに慣れていないと、急な温度変化にうまく対応できないため、熱中症になりやすいと言われています。
7月に入り、これから本格的な夏を迎えますが、この夏はラニーニャ現象のために猛暑になると予想されています。熱中症には十分ご注意下さい。熱中症の病態や対処法については平成25年7月11日付のコラム54をご覧下さい。

ところで皆さんは「屋内なら熱中症にはならない」と思っていらっしゃるのではありませんか? 実はそうではありません。先日、「熱中症で死亡、9割が屋内」という記事が朝日新聞に掲載されました。その内容をご紹介します。
東京都監察医務院の調査によると、東京23区内で平成23年から27年の5年間に熱中症で死亡した人は365人(男性219人、女性146人)、そのうち約90%にあたる328人が屋内で見つかっていたそうです。その中でエアコンが設置されていたのは160人、しかし138人は発見時に使われていなかったとのこと。
また65歳以上が290人、一人暮らしは203人。死亡推定時刻は日中が142人、夜間が104人となっています。

高齢になると暑さ、寒さの感覚が鈍って来ます。夏の暑い日にもかかわらず、長袖を着て厚着をしているお年寄りって、けっこういらっしゃいますよね。エアコンなんて嫌い、という方もいます。そうなると熱が内にこもって気づかぬうちに脱水状態となり、変だなと思った時には身動きできず、そのまま亡くなられるということになります。周りに誰かいればいいのですが、一人暮らしだと誰も気づいてくれないかもしれません。

熱中症は早期の対応が重要です。病状が進んでしまうと救命は難しくなります。熱中症による屋内での死亡が多いのも、早期に発見されることが少ないためと思われます。
そうなると予防が大切です。できればエアコンを利用して温度調節をすること、どうしてもエアコンは嫌だというのであれば、窓を開けて風が通るようにし、扇風機で風を流すこと。また意識して水分を補給すること。のどが渇いたときはもちろん、のどの渇きを感じなくともまめに水分をとるようにすることが重要です。

人間は確かにいつかはお迎えが来るのですが、交通事故や自然災害、あるいは自分で予防できる熱中症などで、不本意な死に方をすることは避けたいものです。

平成28年7月7日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋

「色」の力

私達が目にする周囲のものには、みんな色がついています。空は青く、雲は白~灰色。周辺の田んぼの稲は緑を増しつつあります。それが秋になると黄金色になります。病院の建物は白っぽい色です。いろいろなお店はそれぞれ趣向を凝らして赤、青、緑など、様々な色で自己主張をしています。部屋の天井や壁は白色系がほとんどで、家具は茶系が多いようです。雨上がりの空には七色の虹が美しいアーチをかけます。
色がついているのなんて当たり前、と思いますよね。でも、じゃあ空が青いのはなぜ? 雲が白いのはなぜ? と問いかけられると、きちんと答えられる人は少ないと思います。そんなこと、考えたことない、という人がほとんどですよね。

私達が色を認識できるのは、網膜に錐体と呼ばれる3種類の知覚神経(S錐体:青を知覚、M錐体:緑を知覚、L錐体:赤を知覚)があり、それぞれが知覚した波長が混ざり合って脳に解読されるからです。
太陽や電球やろうそくなどの光源から発せられた光は、物体に当たると一部が通過し、一部が反射します。この反射した光を私達の網膜の知覚神経が感知するのです。ただし人間の目が感知できるのは380~780nmの範囲の波長のみで、これよりも波長の長い赤外線や、逆に波長の短い紫外線は見ることができません。

さて、難しい話はこれくらいにして、色にはそれぞれ特性があることをご存知ですか?
たとえば青。青は自由の象徴であり、また鎮静効果もあるそうです。それ故不眠に悩む人の寝室には青がお勧め。ただし青は憂鬱な気分をもたらす色でもあることから、気分の落ち込みやすい人と朝起きるのが苦手な人には青は禁物。仕事に関しては自由な感性を与えてくれる色なので、何かアイデアを見つけなくてはならない人達に最適、パソコンの画面背景を空色にすると効果絶大、なのだそうです。
他にも「刑務所の独房をピンク色に塗ると、収監者が暴れなくなる」「サッカーの試合では、黒いユニフォームを着ると反則をとられやすい」「ウエイトレスが赤い服を着ると、受け取るチップの額は2倍になる」「暖色の外装の店は、入りたいという気持ちを起こさせる」等々、様々な事実が示されています。ほんとかな、と思うかもしれませんね。でも本当らしいのです。

このような色の持つ力について、学術的な裏付けのもと、詳細に記述された書籍を皆さんにご紹介したいと思います。

◎ ジャン=ガブリエル・コース著(吉田良子訳)「色の力~消費行動から性的欲求まで、人を動かす色の使い方」 CCCメディアハウス発行

是非一度お読みいただければ、と思います。あなたの生活を豊かにし、仕事に役立つアイデア(色の使い方)が見つかるかもしれません。

平成28年6月23日
病院長 藤原正博

カテゴリー: 院長の部屋